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死神のいるホテル


 死神と呼ばれるかなり年取った支配人のいるホテルが東京の中心地の片隅にはあった。どんなに周りのホテルが混んでいようともそこに泊まろうと思う客はいないかのようだった。

東京の闇の深海にどっぷりと漬かりこんでいるホテルだった。はっきり言ってしまえばホテルといっても薄暗い部屋が薄暗い廊下に五箇所付いているというだけで、働いている人はこの死神しかいなかったから、正確に言うと支配人ではない。が、このホテルの闇を支配しているという見方もできる。一部屋は死神の自室で、もう一部屋は食堂となっていた。だから客が泊まる部屋は三部屋しかなかったが時々一部屋埋まっているか程度の入りだったから困ったことは無かったし二部屋埋まることは無かった。支配人は三着の背広とシミだらけでしわくちゃの疲れきったエプロンを一枚持っていただけだった。どれもこれも疲れきった支配人の影のようにおとなしくそっと存在しているだけだった。


 朝から久しぶりに一人の客がこのホテルにチェックインした。客は今に消えてしまいそうな姿でもうその背中に名前は背負ってはいなかった。彼の影は平面的だった。まるでパソコンで、明かりがあれば影ができるという摂理に基づき後から影をつけたかのようだった。客のもうどこにも物事の入る余地は無かった。彼と狭い廊下ですれ違った日と人たちは気味が悪いとか汚いとか思う前に、よけるだけ避けるだろうが目にうつるだけ映るだろうが脳に情報が行き着く前に削除されてしまうだろう。


 死神は老いて限界を感じ始めた体を引きずりながらも、自分の仕事をするため食事の買出しなど準備を着々と進めていた。客は昼になると食事をしに出て行って三時間ほどで帰って来た。そしてこの日の夕方死神は慌てることになる。このホテルに若い男が泊まりに来たのだ。つまり二部屋が同時に埋まったことを意味し、死神が買ってきた食材は自分を数に入れて二人分しかなかった。死神は新たに買い物に出かけた。

その若い男はネット上での都市伝説を耳にしてこのホテルに泊まりに来た。いわゆるフリーのライターというやつである。支配人がどうして死神と呼ばれているかというのもその都市伝説に則ってである。その伝説というのは自殺者の一部は死ぬ前の日にあるホテルに自分の罪の救済を求めて最後の晩餐をするために泊まるというものだった。そしてそのあるホテルを見つけ真相を探るべく若い男はここに泊まりに来たのだった。若い男の背中にはもともと名前を背負う場所が無かった。それは自由を意味することもあったし、孤独を意味することもあったし、ふるさとが無いことも意味した。この若い男の心の中は深い虚無のようだった。底なし沼とも宇宙とも言えるが結局はたから見ると何も詰まっているようには見えなかった。

 

 このホテルには先ほど言ったが、食堂があった。部屋で食べたいという強い要求が無ければ食事は泊まっている人と支配人が一緒に食べた。時には二人、時には三人だったがかなりプライベートな話をするので、二部屋の客が同席することは死神にも体験が無いことだった。


 食堂と言えるような立派なものではなく六人がけのテーブルがあって客と支配人が向かい合い話をしながら食べるのがこのホテルの定例だった。客と話をすると書いたが実際は支配人が話を聞いているだけだった。ある時は「借金が溜まりもう首が回らない」とか「夫に先立たれ生きていく気力がわかない」などの話を客が死神に自分の言葉が流れ去るまで語っていただけだった。ただ死神は客が言葉に詰まったときそのごみを丁寧に外してあげるだけだった。

客は死神の前に座った。時々愚鈍に光るような挑戦的な目には、映っているようで何も映ってはいなかった。

テーブルの上には、見るからに家庭的なシチューが置いてあった。二人分のワイングラスと、少し焼き色の入ったフランスパン。客はフランスパンを千切りシチューに浸しにんじんを乗っけて食べてから話しだした。


「結局私は生きていたのが正解だったのでしょうか。会社は首になるし妻にも出て行かれる。まるで絵に描かれたような不幸だ。生まれた時からのけちのつきはじめだ。」

そこで話を一時中断しまた少しパンを齧った。

「話せば楽になるかもしれないですよ。」

「妻は出て行く前だって新興宗教にはまってろくに家にもいないくせに神の水だの神の本だのを買うために大金を持って行ってしまう。結局私がくびになりゃ金が足らないということで別れようって言い出す。神様に貢いでいたのは私だ。でも、幸せをもらうのは私でない。」

「あなたの幸せとは何だったのですか。あなたにとって幸せとは誰かに与えてもらうものなのですか。」

「そうかもしれない。そうですよね。私は結局どっち付かずだったんだ。全てを人のせいにして僕は自分の責任をそろそろとらなくてはならないということですね。」

「そうかもしれないですね。そして、今がそういう時期なのかもしれないですね。」

そうして最後の晩餐は終わった。

「またのお越しを心からお祈りします。」


 十一時過ぎに出て行く客からは代金を取らず死神はその後を見送った。


 若い男は部屋から出なかった。というより部屋から出られなかった。若い男は死神と話すと自分も自殺してしまうかもしれないと怯えていたし、朝から泊まりに来た客の邪魔かもしれないとも思っていた。薄暗い電灯の半分消えかかった部屋の机の上に置いてあるパソコンの青白い光に顔を照らしながらずっと考え事をしていたため、客が変な時間に出て行くのを気がつかなかった。部屋にはテレビが一台映像に目を向けられずに放置されながらも電源が入ったままパソコンの動作音と共にこの部屋にはびこった沈黙と張り合っていた。やっていたニュースは、幼い少女の自殺のニュースだった。若い男はふと少女はあなたという自分が私という自分の首を締めた時、彼女という自分は何を考えていたんだろうと思った。若い男には家族どころか親戚さえいなかった。フリーのライターは世の中に積み上げれば富士山より高くなる程いたし、しかも若い男にはそれぐらいしかできる仕事は無いと思っていた。


 死神はこの男の部屋を訪ねた。これまで部屋に閉じこもっている人はいなかったし、物書きという人種に興味があったからだ。死神の中には今まで死んでいった人たちの捨てるに捨てられない、そして言葉の中でもことさら重い言葉が破裂しそうなほどに詰まっていた。かび臭いそして年代を感じさせる空気の中をすり抜けるように濃厚で思いのほか親密なノックの音が響いたとき、もちろん若い男の心臓は体操選手のように飛び上がった。だが、話を聞いてくれませんかと丁寧に支配人に尋ねられた時快く承諾した。結局いつかは話をしないといけないし、声のトーンが思ったほど怖くなかったからだ。


「少し遅くなった時間ではございますが、少しは時間が空いたと思い、等ホテルにご宿泊の少しばかりの記念にでもなったらと思いワインをご用意いたしました。もしよろしければ二人で少しワインでも晩酌というのかは分かりませんが、それらしいことのお付き合いしてもらえないでしょうか。」

「ぜひ喜んで。仕事もひと段落着いたところでちょうど呑みたいと思っていたところです。このホテルには始めて来ました。働いている人は、あなたしかいないのですか。」

「はいもう長いこといません。しかしお客様も大していらっしゃいはしませんし、ホテル自体が小さいので何とか一人でも手が回ります。」


二人は支配人が持ってきたワイングラスに赤ワインを注ぎ、目の上に持ち上げ黄色い電灯に透かし見た。そして少し

舐めた。


「きれいな色のワインですね。味も落ち着いたこのホテルに合ったワインですね。」

「このホテルと同じようにほとんど知られていないワインです。だからきっと気が合うのでしょう。」

「なるほど。僕と気が合うのもきっと僕が名前も知られていないフリーのライターだからかもしれないですね。」

「少し身の回りのことを私に話してみませんか。あなたの肩は疲れきって見えます。私でよければ聞かせてくださいませんか。」

「なんだかこのワインに任せて何でも話せるような気がしてきたな。つまらなくても怒らないでくださいよ。小さな時から私は自分自身の中に第三の目の存在を感じ続けているんです。」

「面白い出だしですね。とても興味深い。」

「そう言われると舌が柔らかくなりそうです。その目から見える景色は冷徹なというか無機質というかただレンズに光が通っているだけという感じなんです。最近わかったことなんですが、その目は世界を見下ろす第三者的な目なのではないかと。」

「神の目ということですね。」

「あなたも面白い言い方をする人だ。そしてその目には自分自身の行いも全てが映るんです。映るからといって、自分が重たい荷物を持っている人を手伝ったり人の悪口を言ったりしても、全てを見ているその目には何の感情も感じられないんです。その目から逃げ出すためにふざけてみたり馬鹿なことをやってみたりいくら自分を蔑んでも、余計にその目はより鮮明に私を映し出すんです。」

「善悪を超越した何かをも映しているのかもしれないですね。それは君の知らない世界の裏側なのかもしれない。」

「僕よりあなたのほうが作家という仕事は向いているかもしれない。」

「そんなことはありませんよ。ただ単に私があなたより長く生きているということだけです。」


 そこでちびりとお酒を飲んだ。死神の心は、「君には資格があるかもしれない」と朝一番に出会った、窓に近い枝につかまったメジロにささやくようにつぶやいた。


「人生があるうちにその境地、いや神の境地に踏み込めるものはほとんどいない。ほとんどのものは死ぬまで気が付かないし、力量不足でこじ開けようとした者は、その目の残酷さ、冷酷さに耐え切れずに自殺した。そのような者はいくらでもいます。原口統三のように。」

「あなたはやはり死神と呼ばれているのですね。」

「そうです。いつの間にか人々は死神と私を呼ぶようになっていきました。内なる神の目を持つ者は必ず知らず知らずのうちに飢えという感覚が広がっていく。それに気付くまで私も無茶ばかりしていたものです。しかし、妻と出会いこのホテルを創ったときやっと心に安らぎを覚えました。なぜならホテルは人々が立ち止まらない、ただの通過点であるからです。人々の生活を第三者の立場から第三者の目で見守る。それがこの世の私の使命だと感じました。そして、色々な人が日常で送る物語を聞き始めたのです。」

「今のあなたを見ているとそんな若い頃があるなんて想像できませんね。」

「あるのではありません。あったのです。その結果があったおかげで今の私がこうして生きていることを考えると断定しておきたいのです。そうでないと自分の過去が無いような気がするからです。」


 死神が空のワイングラスに映る自分の顔を見たその瞬間若い男は、自分の過去を振り返ったのだということがはっきりと分かった。


「私はあまりにも死んだ人の言葉を溜め込みすぎました。」

空になったワイングラスにワインを新たに注ぎ、ふっとため息をついてまた語りだした。

「もともと夫婦でやっていたこのホテルはアットホームで何回も来て頂けるように作られたものでした。そのために食堂を作り一人一人と接することができるように部屋の数を少なくしました。」

そこで男は悲しみに心を震わせました。死神は、

「奥さんが死んでしまったんですね」

と声を掛けた。

「その通りです。それからは私一人で切り盛りして来ました。困った人たちの言葉に耳を傾ける内にこのホテルの本質が狂いだしました。決して二度と来てくれなくなったのです。そして私は二度と来ない人達の為に前にも増して熱心に言葉を聴くようになったのです。」

男の体からは何年にも及んで溜め込んだ言葉があふれ出した。死神はその言葉をそっと引き継いだ。そして最後に、

「あなたの過去は本当に存在していた。いや、している。そのことをどうかお忘れにならないでください。」

そして一回ドアの開閉の音が響き部屋の電気が消えた。そしてもう一つの部屋に小さく明かりがついた。

翌朝男はホテルから立ち去って行った。後には片付ききれいに整頓された部屋とクローゼットの中に残された三枚の丁寧にアイロンの掛けられた背広としわくちゃのエプロンだけが残された。

死神は、

「またのお越しを心よりお祈りします。」

と言った。

男の年老いた体はまもなく川に浮かんだ。


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