形見人形編09 獏絵図の浄化①
やっと獏絵図の②で、オカルト・ラノベっぽくなりました。
でも字数的に今さらかよ、てな感じなので、エンタメとしては破たん、してま……
九里屋夫婦の寝室にある一枚の屏風絵。獏の描かれた白天図。
白い陽光にまみれて遊ぶ獏というモチーフの絵は、ベッドサイドのランプだけが灯る薄暗い室内ですら、背景の暗さ――まったく光の差さない陰間のような黒さが、はっきりと目に付いた。
いち早く寝室へ飛び込んだ俺と、それに続いたラン。
彼女が室内へ一歩踏み込んだとき、立ち止まって大きく息を漏らした。
「こんなん、どうみても白天ちゃうわあ」
その感想を背に受けた俺も同感だ。だからこそ俺は、ある推測を抱いて歩む。そして、絵の前に立ったとき――。
「やはりか……」
推測は確信に変わった。
「待ってくれ、君達。どうしたんだ、急に駆け出したりなんかして」
廊下に置いてきぼりにされた九里屋さんが、人形片手に慌てて部屋へ入ってきた。
俺は振り返って、背後の絵を親指で示す。
「九里屋さん、なぜ夢にうなされるのかが、わかりました。この獏絵図に問題があります」
「ええっ、どういうことだい?」
「実に簡単なことでした。それはですね……」
屏風絵に向き直った俺は、絵の主役である獏の腹部を指差した。そこには何か硬いもので引っかいたような傷ができており、絵の地肌が半分ほど見えていた。
「ほら、腹の部分に傷があります。こいつのせいで、この絵の効果が無くなったんです。つまり獏は悪夢を喰えなくなったんだ」
実際の絵が傷つくこと。そして、絵中の獏がお腹を痛め、夢を食べる力が無効果すること。
これら二つを示し合わせても、客観的には観念的な関連付けでしかない。しかし、そうといえない類似の現象に、俺はすでに立ち会った。アンティークショップでの泣き人形だ。
あのときは針で傷ついた人形が、身体の痛みを知らせるために涙を流した。
「絵の背景が暗い原因は、獏が吐いた悪夢。獏が九里屋さんたちの悪夢を食べたものの、吐き出してしまったんでしょう」
すなわち今回の獏の件も、人形の件と似たようなもの。
絵中にある無生物の訴えが、獏絵図本来の効果を打ち消す形となって表れた。呪物なら往々にしてあるアナロジー的現象だ。
「それにしても、この背景の黒さはハンパじゃないな」
「ふ~ん、どれどれ……?」
俺のコメントに興味で目を輝かせたランが、獏絵図へと近づいてきたようだ。その気配を背にしながら俺はなおも絵を観察すると、ふとあることに気づいた。
「あれ? なんか、昼間に見たときよりも黒いような……」
屏風絵は初めて目にしたときから影絵のように暗かったが、改めてよく見ると、さらに暗い。いや影より黒く、闇色と見紛う黒さだ。
不思議に思った俺は、とりあえず定例の穢れの触診へと移行する。
「ちょお、孝助……さわるん待ちい」
「ラン?」
急に声をかけられて肩越しに振り向く。すると三、四歩ほど離れた少女は、顔をしかめて頭を抑えていた。まるで船酔いに遭っているかのように。
それが何を意味するのか気づく前に、俺は指先を絵の表面へと――。
「――――ぎっっ!」
――――すけ―――ょう―――。
――見いっ、孝――――。
しっかり――助っ。
「孝助!」
目覚めの歓迎は、耳にこだます破裂音と、ほほに残る熱だった。
気がつくと、俺は足を投げ出して尻餅をついていた。なぜか絵はすぐそばになく、三メートルほど前方にあった。
今なお霧の中をさ迷うような、明滅を起こす頭をゆるく振り、考えを巡らせる。
どうやらランが、俺を絵から引き離してくれたようだ。その上で意識を戻すためにぶっ叩いたらしい。
そして目の前には、大きく平手を振りかぶる女の子。
「ちょっと、待った待った! ラン、もうよせっ」
慌てて彼女の手首をつかんだ。それを見たランは盛大なタメ息を吐く。
「こんの未熟者っ! もれ出した瘴気のひとつもわからんかあっ? いちいち触れんと何が危険か区別できひんなんて……情けなぁて見てられへんわあっ、このアホッ! アホアホ孝助っ」
ぽんぽん啖呵を切るランだったが、切迫を含んだ声色は、けなげな響きで空気を震わせる。俺へ向ける彼女の瞳は、どこか水気でうるんでいるように見えた。
実際、彼女の言う通りだ。俺は神妙にうなだれるしかない。
自分の面横へ手をやると、継続する軽いうずきを感じた。なぜか両方のほほに。
「……おいラン、おまえ、いったい何回叩いたんだ?」
少女は自分の手のひらを広げて見た。
白肌だったランの手は、りんごのように真っ赤っ赤だ。
「ん~~、……三回?」
「その倍はいってるだろ、絶対。すっごい痛いんだけど。じんじんする」.
人目をはばかるくらい、自分のほほに紅葉が張り付いてそう。
「文句あるん?」
しかしランから白い視線を当てられた俺は、後ろ頭を掻いて謝るしかない。
「滅相もないっす」
なにより、心配をかけてしまったことを申し訳なく思う。
「すまん、助かった。ありがとな、ラン」
「ん……」
なんとなく少女の小さな頭を撫でてしまったが、彼女は穏やかに目を細めて受け入れてくれた。絹のようになめらかな黒髪が、俺の指先で流れた。
珍しいこともあるもんだ。てっきり猫パンチ的迎撃があると思ったのだが。
ふと、座り込んだ自分の手元に陰が差した。
仰ぎ見ると、九里屋さんが膝をかがめて中腰になっていた。
「ど、どうしたんだい、急に後ろへ倒れこんで……大丈夫なのかい?」
「ええ、突然変なことしてしまって、すみません」
依頼者の前での無様なマネに、俺は思わず取り繕いを口にしてしまう。
言葉の次は体で表そうと足に力を入れた。
だが、緩慢にしか身体が持ち上がらず、腰砕けのようにまた床へ尻をつけてしまった。視界も霧中のように、ところどころおぼろげだ。
「まいったな、毒されたか……。穢れの耐性だけは自信があったのに」
それだけ獏絵図にこもっている瘴気は高濃度だといえる。
口の中は味覚の臨界点をブレイクスルーしたのか、先ほどから苦味どころか何も感じない。助かったと思うべきか、そうでないのか。
ぼんやりと霞む室内を目にしていると、ホタルのような淡い光が通り過ぎた。
俺は見間違いかと目をこする。だが少しはマシになった視界でも、それは目に映った。
絵の前に立つ九里屋さんの脇から、ぼうっと。
「関屋くんの説明もにわかに信じがたいが、この白かった屏風絵の黒さも信じがたい」
獏絵図の前でつぶやく彼は、手を伸ばして触れようとしていた。
それは、まるで俺の焼き直しだ。自分で体験した瘴気の毒気に、俺の背は凍りつく。
先のヘタな取り繕いが、九里屋さんを最悪の方向へ導いてしまったのだ。
「それにしても日に日に黒くなっていくな……」
「その絵に触れるなっ!」
しかし間に合わず、九里屋さんの手は絵に達した。
――――光が、陽明のごとき力強い輝きが、室内に満ちる。
「うわっ、なっ、なんだ?」
突然の昭光に、俺は思わず手で顔を隠した。
なおも燦然と放ち続ける光を見るために、指の隙間から確認しようとする。光は九里屋さんの腕の中にあるもの――日本人形から発せられていた。
すぐそばから、ごくりとのどを鳴らす音が聞こえた。
「……すごいわあ。あの光、瘴気を完全に跳ね除けてるえ」
「なんだって? あの濃度をか?」
あいにくと未熟な俺には瘴気が見えないが、実体験からそのすごさを理解できる。
温かみすら感じさせる光明は徐々に弱くなっていき、その中心に目を白黒させた九里屋さんが立っていた。
不可思議な状況に立ち会った彼だが、その表情はけっして恐れを抱いたものではない。それどころか、懐かしみに思いを馳せるような面持ちで、両手に持った人形を見つめていた。
なおも人形は淡く発光している。
「……さっきの光は……。それにこの光……。どこかで…………夢で? ――まさかっ」
つぶやいていた彼は、やおら驚愕の様相へと変わり、人形を凝視する。
「これは、たしか夢で見た光だ! じゃあ、まさか、まさか……母さんなのか? 母さんがこの人形の中にいるのか? しかしそれだと……」
九里屋さんは感極まった声を出したかと思えば、困惑顔で紅の和人形を見つめていた。
状況から完全に置いていかれた俺とランは、互いに顔を合わせる。
「どういうことえ?」
「さあ?」
俺は肩をすくめるしかない。
「まあ、とりあえずはご本人に聞くほかないな」
ようやく力が戻ってきた身体を持ち上げて、俺は人形に語りかけている不審者、もとい旦那さんの肩を叩く。
「どういうことですか、九里屋さん。さっきの光とその人形に心当たりでもあるんですか?」
首をこちらへ向けた九里屋さんの瞳は、まるで遠いどこかを眺めているようだった。だんだんと焦点が俺へと、現実へと合わさってゆく。
「ああ……、そうだね……関屋くん」
彼はまぶたを二、三度またたき、また手元へ目を向ける。燐光ただよう人形へと。
その表情は、ひどく穏やかなものだった。
「先の輝きは私も初めてのことで驚いたが、今の人形の柔らかな光は見たことがある。……夢の中で」
「夢見の記憶……」
「そうだ。いつだったか覚えていないが、たしかに夢の中でこの淡い光を目にした記憶がある。ほほえみの視線を私へ向ける、赤い振袖を着た母とともにね」
彼の口にした言葉は、まさに現況に一致した。無機物の人形が笑いかけることなどないが、それ以外の点で。
大気にかすむ青白い微光。紅色の着物。それをまとう人形。
「自分でも、おかしなことを口走っている自覚はある。しかし否定しきれない。先の不思議な発光を体験したからだろうか。なぜかどうしても、この人形に母を投影してしまうんだ」
九里屋さんは苦笑する。目に映るのは母親の形見。
「もし母が現世に戻ったとして、なにをするだろうか。わからないことは多い。しかし、わかることもある。母はうっぷんを晴らしたいんじゃないだろうか」
彼の口の形は、しだいに蔑むように歪められてゆく。
「妻と結婚して以来、姿を現さなくなった息子に。身代わりのごとく、人形を押し付けて終わらせた不孝者に。立派に育ててくれた恩を冷たい仇で返す私に、母は思いの丈を晴らす……復讐のために現世へ」
口の端を吊り上げて行う独白は、自らを鞭打ち傷つける姿を思わせた。
暗さをはらんだ目の奥で、手の中の人形を捉える。
「ははは、そうか、復讐をしたいのは、この人形自身かもしれないな。私の身代わりという、ふびんな仕事を無理強いしたのだから」
渇いた笑いが周囲にこだました。まるで断罪を待ちわびる老いた罪人のような、しわがれた声だった。
立派な大人の自分を失う様が見ていられず、俺は黙ったままうつむくことしかできない。
しかし俺のよく知る小さな女の子は、そうではなかった。
「……それはちゃう思うえ」
ぽつりと漏らされたランの言葉に、九里屋さんが首を動かす。
彼に浮かぶ表情は、反論による憤りではなく、疑問による不思議顔でもなく、ただただ疲労だけがにじみ出ているかのようだった。
そんな感情のない眼光にさらされながらも、少女は胸に手を当て堂々と迎える。
「さっきの光なあ、絵から放たれてる瘴気――災いの塊から、おまえを守ってくれたんえ。それはもう見事に弾き飛ばしたなあ。陰気に対して耐性の高い孝助ですら、意識が飛ぶほどのもんやのに……。そんなことしてくれる相手が、おまえのこと怨んでる思うん?」
「…………そんな、都合の、いいことを……」
うつろな九里屋さんの目に力が戻ってゆくも、それは平常を突き抜けてゆき、一気に燃え盛る。
「信じられると思うかっ。でまかせを言うな!」
「そんなんちゃうわあ」
しかし少女は、怒号の前でも風揺らぐ草花のよう。
怒りの矛先をいなされた九里屋さんは、少し頭が冷えた様子だった。
「ほんなら聞くけどなあ、おまえ、そこな人形の光見て、どう思うん?」
「……どう、とは……」
彼はしばらく人形に顔を向けるも、なんらかの感情を隠すように、ついと目をそらす。
「…………なんとも思わんね」
そんな男性を前にしたランは、まるで困ったダダっ子にあきれる母親のようで。
「おまえのさっき口にしたこと、ウチが言うたろかあ? おまえ、その光見て『柔らかい』言うたえ。そんときの顔つき、ひどぉ安らいでたわあ。さながら胎ん中にいるように、怖いもんひとつない赤子の表情でなあ」
お腹に手を置いた彼女は目を閉じた。
「その穏やかな光は人形にこもった魂の心、おまえを心配する存在の慈しみ。身を失ってまで、そんなんしてくれんの、おまえの肉親くらいしか……ううん、おまえを溺愛してたらしい母親しかおらん思うえ」
ゆっくりと、やわらかに話す少女の何が苦痛なのだろうか
九里屋さんは汗の伝い始めた額を押さえて、うわ言のようにつぶやく。
「しかし、しかしそんなはずは……私は母にひどいことをした。許されるはずなど……そんなこと私の願望でしかない……」
彼の様子は鬼気迫るものですらあった。しかし、どこか彼自身でも見込んだ可能性を、ただ認めたくないようにも見えた。
それを一瞥したランは、くすりと笑みがこぼれる。
「ほんま男いうんは、しゃあないやっちゃなあ」
おかしみの笑みをたたえたまま、
「母親に見守ってもらえてて、嬉しいんやろお? ほんなら素直に感謝して、喜びおし」
幼子を諭すような、でも優しげな声色。
それは俺の胸に、小さな頃の記憶を呼び起こした。
昔、母親から軽く叱られたとき、涙ぐむ俺の頭を、あわてて何度も撫でて慰めてくれた温かな感触。子供が親の愛を直感できる、安らぎの時間。
九里屋さんが充血した目をカッと見開いた。
まばたきもせず宙をにらんでいたが、やがて瞑目し、天へ祈るように人形を胸に抱く。
「母さん――」
その姿は懺悔する咎人のようであり、ひとつの答えを手に入れた宗教者のようにも思えた。
彼を見るランは満足そうにたたずんでいた。だが、俺は腰が引け気味だ。
それに気づいた彼女がこちらを向く。
「ん? どうしたん?」
「いやあ、ランって時々すごいなあって。文句なしに成長した人間を説得できるなんてさあ」
ランは目をしばたかせた後、ちっちゃな両の手のひらで口を覆った。リスみたいに膨らんだほっぺたには、喜色が詰まっているかのようだ。
「ふふ、ふふふ……見直した?」
「ああ、見直したとも。つーか、俺には荷が重すぎて何もできなかった」
藍色の少女は腰に手を置いて、得意顔で胸を張る。
「まあ、女は生まれた時から母性ゆうもんを持ってるしなあ。それにウチは、立派な“れでぃ”なんえ?」
「レディねえ……」
つぶやく俺の面前には、俺より頭ひとつ分低い背の、小学生みたいにちんまい子。
なめらかな黒髪は額で二つに分かれ、両ほほに下がる二房のビン髪を過ぎて、肩口から背へ。
白肌のかんばせには、水気あるツボミのような唇。そして品のある藍色の紬。
単の衣ではないが、その姿はまるで、桃山時代の姫君を現代に蘇らせたかのようだ。
さらに目元の両ふちには天然のアイシャドウが。
隈取のように飾られたそれは、一種、神秘的な艶気を放ち、彼女を人形のように現実感を無くさせる。
とはいえ――年齢的な印象は、とても淑女という感じではない。やっぱり、まだまだ女童のよう。
しげしげと眺める俺に対し、誇らしげだった少女の顔が、じょじょに険しくなる。
「……なんやのん、その手つきは? ケンカ売ってるん?」
「え?」
気づけば、俺の手は空中を撫で下ろしていた。
まな板の表面をさするように。
「ごめんごめん、無意識だった」
「なお悪いわあ!」
ピーチク罵詈をさえずるランだったが、相手などしてられない。俺には彼女へ尋ねておくことがあるからだ。
仕事の信用に関わる事柄なので、九里屋さんに聞かれないように、そっと彼女の耳元でささやく。
「なあ、ラン」
「……ひゃぁあんっ」
「だからやめてくれよ、それ!」
相変わらず胃に悪い少女の嬌声に、たまらず叫んでしまった。
もし交番の前とかでやられたら、形ばかりの職質が俺とガッツリ握手。そして手錠の歓待。いやあ、ほんとカンベンです。
「自分から“せくはら”しといて、なんやのん、その言い草は」
桜色に染まる耳を摘みながらぷりぷり怒るランは、瞳を妙に濡らしていた。その様子に演技はなさそうだ。
本当に弱点だったのか。
「いや、なんかすまんかった。……それで聞きたいことがあるんだけどさ」
今度は少女と頭を並べて、九里屋さんから背を向ける方法を取る。
「あの人形に、九里屋さんのお母さんの霊魂が本当に宿っているのか?」
「たぶんなあ」
「たぶんだって?」
俺は信じられない思いだった。あそこまで確信めいた態度で、彼女が旦那さんに投げかけていた言葉。それが当て推量だったとは。
やはり小声の会話にしておいてよかった。
あきれまじりで遠慮のない横目を投げかけていると、ランは顔を赤くしてそっぽ向く。
「しゃあないやん。ウチに霊視・霊媒なんかできひんし……。せやかて状況的に考えると、あながち間違いでもあらへんやろお?」
たしかにそうかもしれない。
夢の母親と、現実の人形の符号。瘴気を退ける破魔の光。
「それにおまえ、前に言うたやんかあ。この世の霊は、おおよそ怨霊やあて。ほな、その逆は?」
「わずかばかりの無害な亡霊……。しかしそんな確率、ありえないぐらい低いんだぞ」
「そんなん知るかいなあ。その“ありえない”巡り会わせがあったんやぁて、思いぃなあ」
ううむ。釈然としない。
俺の心中を察したのか、少女は困った笑みを浮かべた。
「時期的に見てもそうやあ。あの瘴気のこと考えてみいなあ」
「…………奥さんが急に体調不良を起こした原因。それがあの強い瘴気にあてられた、と?」
「おそらくはなあ。獏絵図が機能したんは一週間らしいけど、あの濃度、とてもそんな短期間の蓄蔵や思えへん。たぶん、あの絵が出来てから後、ずっと溜められてた陰気が吐き出されたんやろうなあ。ほんで絵の空白を塗りつぶして、とうとう現界との境いを越えたんが数日前」
したり顔でランは人差し指を立てる。
「あの男のつがいが体調を急変させたんは、ここ数日。人形の奇行に気づいたんも数日前。そんときの人形は退陰の光を放ってたんやろお?」
「しかし、奥さんがうなされ始めたのは一月前からだぞ?」
出端を折られた彼女は、おもしろくなさそうに鼻を鳴らした。
「そんな細かいこと知るかいなあ。自分で考えぇやあ」
「結局それかよ。まあ、その件に関しては、今はいいけどさ」
とりあえず、まとめるために頭をひねる。
まず、都市伝説レベルの善的な霊魂が人形に憑依。この時点で、すでに前提は薄弱でしかない……。まあともかく、それだと魂が母親のものであるという根拠が必要になる。それについては二つほど。
ひとつは、人形と母親がそっくりという九里屋さんの夢の記憶。もう一つは、彼を守る人形の光。
さらに加えるなら、母親にとって愛息子である九里屋さんは悪夢を見ていないという証言。それに対して、嫁でしかない奥さんはうなされている。その構図は、近日の体調急変でも同じだ。
そこから九里屋さんを守る光に、母親の意思を思わせるような、なんらかの示唆を感じ取ることができる。
あとは急の体調不良と瘴気の流出の関わりだが、これについては明確な証拠などなし。
しかし状況的に、ランの説明で一応の納得はできる。時期的な疑問点は置いといて。
まあ簡潔に述べると――。
「憶測ばっかだよな……。夢の記憶とか当てにならないし……」
「なんか不満なん?」
ランから、「なら自分で考えろやボケス」といった感じの目で睨まれた。けれども彼女は、しだいに不思議そうな顔つきになっていった。
「なあ、孝助」
「なんだよ」
「人形と母親の関係。それが、おまえの『おいおい話す』って言ってた心当たりやあ思ぅてたんやけど……」
違うならさっさと吐けという、じっとりとした視線の中、俺はわき見してほほを掻く。
「…………ほ、ほら、とにかく瘴気を払うことが先決だろ? さっさと始めようぜ」
「またゴマ化すんかいなあ!」