形見人形編03 うららかな朝、そして
本日は天気晴朗なり。波の高さは、海が遠いからわからないけど。
付け加えるなら俺の心の天気もまっ晴れだ。前日に果たした依頼の報酬を手にしたので、ようやく人並みの生活ができる。
〈――今日、梅雨の明けた最初の土曜日は、絶好の海水浴日和になりましたあ。見てくださぁい、照り付ける太陽のまぶしさに、打ち寄せる波の穏やかなこと。でも小さなお子さんへは充分、注意してあげてくださぁい。以上、須磨海水浴場からお伝えしましたあ――〉
テレビから媚びっ媚びの猫なで声が流れてきた。
うらやまけしからんビキニ姿の某局アナが、手を振っている。ついでに豊かな胸部も。思わず視線を一点集中してしまうのが、男の悲しいサガだ。
「はいっ、モーニングふたつ、お待たせしました」
「ありがとう、美弥ちゃん」
店内に据え付けられたテレビから、『喫茶 スエズエ』の看板娘へ意識が移った。彼女の手にはクロワッサンに目玉焼きとサラダ、そしてコーヒーを添えられた楕円形のディッシュが二つ。
手慣れた動作で美弥ちゃんは、俺とランのテーブルに二品を並べてゆく。
「海、いいですよねえ。京都から海へ行こうと思ったら、泊りじゃなきゃ厳しいですもんねえ」
彼女の後頭部で揺れるポニーテールを目の端で追いながら、俺はのんびり考えてみた。
「北は舞鶴、南は大阪湾……じゃ汚水でしかないし、泳ぐとしたら兵庫県の中央部、か。たしかに遠いよね。」
「はい、遠いです。おこづかいだけじゃ往復の電車賃も出ないし……。いいなあ、海で思いっきり泳ぎたいなあ」
手ぶらになった彼女はクロールをするように腕を動かす。水泳部らしい日焼けした肌と合わさって、その主張には切実な響きがあった。
「うんうん、やっぱり夏の楽しみは海で泳ぐことだよねえ」
「はいっ!」
美弥ちゃんは、元気いっぱいに顔をほころばせてうなずいてくれた。その笑顔のまま――。
「でも関屋さんの興味は、海で“女の人のおっぱい”を見ることですよね」
「あ、あはははは……」
俺は乾いた笑いしか出ない。自分としては普通にテレビを観ているように装ったのだが、なぜか感づかれていたらしい。直観力に優れた多感な中学生のなせるワザか?
とりあえず話題を避けるようにアイスコーヒーへ手を伸ばす。
「にがぃ……」
ガムシロップを入れ忘れていた。ミルクも。しかし、場つなぎでコーヒーをのどへ流し続ける。生涯の敵である苦い系飲料に心が悲鳴を上げていた。
「みっともあらへんなあ、何うろたえることがあるん?」
対面に座るランがサラダをつつきながら、あきれた顔をしていた。
「孝助は大きい娘に興味なかったやろ? 安心しい、ウチはわかっとる」
「人聞きの悪いことを言うな」
背の高い女性だと、自分の低身長にコンプレックスを抱いてしまうだけだ。
身内にしか見せない微笑で和服少女はうなずいてくれるが、誤解されそうな言説のどこに安心したらいいのか。
ふと気づくと、水泳少女が自分の薄い胸元を、両手でエプロン越しにペタペタ叩いていた。
「そっかあ……、関屋さんはロリコンさんだったんだあ……」
ほら見ろ。もう誤解されたじゃないか。
「じゃあ、あたしとかでもオッケーですか?」
自分を指差し、小麦色のほほに朱を乗せてはにかむ美弥ちゃん。
意味が広すぎて、何が「オッケー」なのかイマイチわからないけど、君の笑顔はまぶしいです。とりあえず、親指を立ててサムズアップしようと思う。
「もちろん、最高だ――」
「そりゃあ、よかった」
突然伸びてきた傷だらけの太い腕が、俺と美弥ちゃんの視界を割った。
「うちのコーヒーをそんなに喜んでくれるなんて、いやあ嬉しいねえ。ほら、もっと飲めや」
もうもうと湯気の立ち昇る真っ黒なコーヒーが、俺の持つアイスグラスへぶち込まれた。強烈な熱変動によってガラスの内部崩壊する音が聞こえる。
「あの……マスター? なんかヒビが入っちゃてるんすけど……」
「んな細かいこたあ、若けぇうちは気にすんな。オススメはブラックやからな。余計ないらんもんは持って行っといたるわ」
意地悪い顔つきで、ぽいぽいっとマスターに未使用のガムシロップとミルク、砂糖壷まで回収されてしまった。そして彼は去り際にぼそりと、俺だけに聞こえるようにささやく。
「それと、うちの娘にちょっかい出しよったら……」
彼はテレビを指差す。大阪湾南港の映像が流れていた。
「ナンコ(南港)にコンクリやからのお」
そこではドラム缶に入った変死体が発見されたとのことだった。
俺は一も二も無く飛び上がって敬礼をする。
「了解っす!」
「さよけ。ほんなら、ええわい」
マスターは分厚い手のひらで俺の肩を叩いて、カウンター裏へと去っていった。そのガタイのよい後ろ姿は、どうみても現役時代に武闘派を思わせるものだった。
「……情けなぁ」
見た目、美弥ちゃんより幼い少女が、ぽそりと明快な感想をくれる。だが、反論する気も起きない。目下の問題は一難去ってまた一難。手元のコーヒーだ。
呪術に使う蟲毒のごとき、どす黒いコーヒーに戦慄する。これが本物の呪毒なら、グラス越しでも俺の舌なら感じ取れるはずだ。しかし、手に触れても苦くない。ホッとしたような、そうでないような。
とりあえず毒々しいくらいの墨コーヒーを、無言でランの元へずり動かすことにした。
「ウチに飲めぇて? しゃーないなあ」
言葉のわりに彼女の目元はゆるんでいた。
「苦いもんを嫌いやなんて、おまえはホンマ子供の舌やなあ」
「甘いものが好きじゃないランこそ、人生の八割は損してるよ」
「……またですか、お二人も飽きませんねえ」
タメ息をつく美弥ちゃんの言うとおり、それはいつものやりとり。いやあ、平和な世の中だ。
「ところで、関屋さん? たまっている家賃と光熱費の支払いはまだですか?」
穏やかな日々が瓦解する。平和とは闘争と闘争の中だるみである、とは誰の言か。
晴れやかな顔つきで、家賃の催促を切り出す彼女はなかなかの強者だ。俺が拝借している部屋の家主――つまりマスターの代わりを担う胆力は、伊達ではない。
「へへっ、これに」
俺は越後屋よろしく、お代官様へ諭吉を身売りする。しかし美弥代官は渋い顔だ。
「ちょおっとばかり少ないですねえ……。これじゃ先月分の家賃は足りても、光熱費まで出ませんよ。あんまり滞りがちになると……」
彼女の言葉を継ぐように、マスターがカウンターから声を張り上げた。
「関屋ぁ、おまえ、ちょっと愛媛行ってみいひんか?」
「え、愛媛っすか? いやあ、ちょっと行く予定とか無いっすねえ」
「そっかあ……、でもそのうち行くかもしれへんから、知っといても悪ぅないで」
マスターは不気味なくらいの笑顔でコップを拭いていた。不吉な予感が頭をかすめたが、「何を」知っておくといいのか気になった。
「……愛媛に何かあるんすか?」
「ええ温泉とか、まあいろいろあるわ。せやけど、なかでも今アツイんが病院や。――――若いもんの腎臓は人気が高いさかい」
「うひぃ~……」
家賃回収の延長話だったのか。それもブラックの。聞いて損した。欝になるだけだ。
「もうっ、お父さん、カタギの人を脅かしちゃダメじゃない!」
「あれ、そうなんか? 関屋は“こっち側”の匂いがしたんやけどな」
「いえいえいえ、俺は至極まっとうに“そっち側”じゃないっす。そりゃあ、ちょっと変わった仕事してますけど……」
顔の引きつりそうな誤解をされていた。自分に対する世間一般の認識について、しばし頭を悩ませる。
「お仕事って《雪士会》とかいうところの派遣業でしたっけ? 具体的に何するんですか?」
元気な中学生少女がリスみたいにつぶらな瞳をぶつけてきた。誤解払拭のチャンスかもしれない。
「そうだねえ……、困っている人の悩み事を聞いてあげたり、疲れている人を心身ともに快復するのを手伝ったり……。一種のサービス業かな」
「ふーん、うちの学校のカウンセラーみたいなものですか……」
「まあ、そんな感じかもねえ」
少女がひとりでに良いイメージを固めてくれたので、俺は曖昧にうなずく。とりあえずマシな方向へ一歩前進だ。
「関屋ぁ、なにボケたこと言うとんねん。要はおまえ、拝み屋やろ」
さっそく二歩後退だ。さすが北風役のマスター。
「…………“おがみや”?」
人差し指でアゴをつつきながら、美弥ちゃんは思案顔だ。中学生には縁の無い言葉だよなあ。
「拝み屋言うたらオカルト専門の相談業みたいなもんや。まあ、最近は需要が増えて社会的に認められつつあるけどな。……せやけどワシから言わせてもらえば、むにゃむにゃ眠たいことほざきよる街角の辻占いと変わらんわ。うさんくさっ」
率直なご意見、ありがとうございます。これで俺のイメージは急下降だ。
しかし美弥ちゃんは、きらきらと輝かせた眼差しをこちらへ向けていた。
「へーっ、へーっ、オカルト……占いかあ……」
看板娘から胡乱な目つきで蔑まれることを覚悟していた俺には、その反応は意外だった。何気に、いつもより互いの距離が近い気がする。
「なんだかすっごく神秘的でステキですねっ。身近にこんな人がいたなんて……あこがれちゃうな~」
「そ、そうかい?」
俺は思わぬ賞賛を受け、ほほを掻く。そういえば美弥ちゃんくらいの年頃の娘ってオカルト関係に興味があったっけ。
男子は校庭でドッヂ・ボール、女子は教室でコックリさん。これが日本の古きよき小・中学校のカタチである……はず。とっくにレッド・ブックだけどな。
「あかんっ、あかんでっ、美弥!」
焦りに満ちた表情で、マスターがカウンターから身を乗り出してきた。
「関屋みたいなようわからん稼業についとるやつ、将来性が無いし信頼できん。第一、しょっちゅう家賃を滞納しよる甲斐性無しや」
「この人の収入の低さは、あたしがよく知ってます。ときたま心配になっちゃうけど……。でもそれと関屋さんの人柄と、何の関係があるのよ!」
力いっぱい擁護してくれる美弥ちゃんには嬉しいが、なんだろう、この胸の奥をさいなむ疼きは……。
原因はもちろん、中学生から所得を気に掛けられる情けなさだ。成り立てとはいえ社会人として恥ずかしい。今すぐテーブルの下へ潜りたくなる。
ふと視線を感じると、グラスに入ったコーヒーをちびちび飲んでいたランが、まん丸い黒曜石のごとき瞳を向けていた。隈取のような目端の陰りが、いっそ神秘的ですらある。
てっきり慰めのひとつでも掛けてくれるのかと俺が期待したら、やつは鼻で笑いやがった。そして両手でグラスを抱えて、乳飲み子みたいな作業を再開。もはや彼女の視界には黒い液体しか映っていないようだ。
「へえへえ、どーせ俺は稼ぎの少ないロクでなしですよ」
もはや味方らしい味方はいないので、俺は腐るしかなかった。手持ちぶたさにテレビへ意識を飛ばす。
〈――さん宅から夫婦の遺体が見つかりました。隣人の話では、夫婦に普段の会話は無かったとのことです。警察の見解では、状況から妻が無理心中を図ったのではないかと――〉
ろくなニュースが流れていないので辟易とする。気分転換にもならない。思わずタメ息がもれた。
「化けて出られたら、誰が退治すると思ってんだよ。和魂を備えた穏やかな霊なんか、ゼロコンマ未満の存在率だからなあ。稼業的には儲かり話なんだろうけど……」
意識を店内へ戻すと、親子の会話はいさかいレベルまで発展しようとしていた。
「…………わからんやっちゃなあ。惚れた晴れたとかしょーもない。関屋みたいなん、おまえにふさわしない言うとんのや!」
「んなぁっ」
瞬間、美弥ちゃんが顔を真っ赤にして硬直した。
その様子から、彼女が俺を慕ってくれている表れだったら嬉しい……けれども。
「だとしても、あと数年後か……」
中学生の年齢では、自分の気持ちを読み解くには、ほんの少しだけ早いだろう。そこにつけこむのは、さすがに外道すぎると思う。
しだいに美弥ちゃんの剣幕は、活火山さながら怒涛の勢いとなっていった。
「だからお父さん! あたしの“そういうトコロ”にまで関わらないでって、何度言ったらわかるのっ!」
「アホッ! ワシは、美弥が変な男に引っかからんようにやなあ」
「あたしはもう子供じゃないのよ、口出さないで!」
「なんやとっ、生意気な!」
けんけんごうごうと親子ゲンカが始まった。気性の荒いマスターと、一歩も引かない娘の争いは苛烈だ。
店内はお盆が飛び交い、撒き塩代わりに砂糖壷の中身がぶちまけられる。客の大半は代金をテーブルに置いてそそくさと出て行った。残る人間は観戦目的の変わり者くらいだ。
だが見物する物好きの気持ちは、わからなくもない。親子が気持ちいいくらい啖呵を切りあうので、傍目に見ていても清々しい。今日び、どれだけの人たちが腹の底から本音をぶつけ合うことがあるだろう。
だから観る際に危険はあるが、得るものもある。日常を通して、腹の底に凝りたまっていったドロドロの思いを、親子が代わりに解き放ってくれるようで胸がすくのだ。
ヒートビート真っ最中の親子ゲンカの下、パラパラと紙のすれる音が耳に届く。
「……ところで、ランはさっきから何を読んでいるんだ?」
「んーとなあ」
ちんまり座る少女が、小冊子の背表紙をこちらへ向けた。
「え~なになに……『一週間でマスター これでアナタも催眠術師』って、なんだこりゃ?」
使い古された文句と、七三分けで糸に吊るした五円玉を持つ男のカバーデザイン。
今どきツールがコインの催眠術とか、ある意味、購買者へパケ買いすらさせない殊勝な本だと思う。
「つーか、なんで催眠術……」
ただでさえ「うさんくさい」イメージの俺達に、催眠術なんぞを加えたら、眉ツバの拍車が掛かりそうだ。
少女のチョイス・ミスで内心あきれる俺を目にしたからか、ランはおっかなびっくりの様子になる。
「……あんなあ、ウチって一応、孝助の助手やろお? せやから、なんか特技でも身に付けとこぉ思ぅてなあ」
上目遣いの彼女は、ほほを桃色に染め上げ、本で口元を隠す。
「ウチも、いろいろ役立てたいし……」
「そっか」
そのような、けなげなことを告白されては、何を言っても無粋になる。こちらができることは、ひとつだけだと思う。
「頑張れよ、応援するぞ」
俺が笑ってうなずくと、少女は黒い瞳を少し見開いてから、とうとう本で顔を覆ってしまった。
「…………似合わんこと言いなあ……」
「あれ? 扱いひどくね? リアクション、もしかして俺がミスった?」
おそらく少女は照れくさいだけだろうと、俺は思った。
珍しい彼女の仕草を内心楽しんでいると、『スエズエ』の動乱も収束に向かっていった。
「――――わかったわかった、この話はまた今度な。美弥ぁ、おまえ、もう部活に行かなあかんやろ」
「え、もうこんな時間? あ、でも注意報だけ見ておかなくちゃ」
突発的な親子の衝突は終るときも唐突だ。そして言い分は通らなくとも、不思議と彼らの顔つきは晴れやかだった。
ケンカという行為は粗暴でしかないが、ときに気持ちを発散することは良い方法だと思う。少なくとも彼ら親子の間では、ニュースの夫婦みたいに致命的な終局には至らないだろう。
〈――これで全国の天気予報は以上です。続きまして、本日の各地の日没警戒情報です。北海道東部の日没予想時刻は――〉
いつからか定番となった日没情報を耳に流していると、ポケットの中から仕事用のケータイが鳴った。応じるために、すぐさま便所へ飛び込む。
「はい、関屋です。……ええ、予定はありません……、えっ、今日ですか? 午後から……。はい、わかりました。先方へうかがいますので、登録お願いします。では失礼します」
《雪士会》からの業務紹介だった。ラッキーだ。依頼はせいぜい、半月に一回程度しかないのに。
俺が席へ戻ると、ランが本にしおりを挟んで閉じる。挟まれたページは、ほとんど末尾だった。
「仕事?」
「おう、洛西支部から連絡があった。二日続けて依頼なんてツイてるな!」
「そうやなあ。せやけど、幸運の振り戻しがあったら怖いなあ」
「ヤなこと言うなよ」
都合の悪いジンクスは信じません。
悪運を振り払うように、俺は勢いよく椅子から立ち上がった。ふと気づくと、エプロンを脱いだ制服姿の美弥ちゃんが、ハイタッチの構えで待っていた。
「よかったですね、関屋さん、ランちゃん。お二人とも、お仕事、頑張ってくださいねっ」
元気少女の祝福に、俺は笑顔で応じる。
軽やかな音が打ち鳴らされ、門出の厄払いとなった。
先ほどの騒動で砂糖まみれになった床。そこを、せこせこと履き掃除するマスターと目が会った。
「しっかり稼いでこいよ」
「うっす。それじゃマスター、行ってきます」
扉を開くと、ドアベルが美弥ちゃんみたいに鳴り響いた。
気圧差で、店内の涼しい風が耳元を駆け抜ける。その風に乗って届けられるニュースキャスターの声。
〈――日没までにご帰宅ください。それが難しい方は常夜灯の下から離れることを、決してなさらないでください。それでは皆様、よい一日を――〉
外からは、目を開けていられないほどの日差しが降り注ぐ。空は山向こうまで青く遠い。
「まさに晴天、夏って感じ。いい日になりそうだ……」