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形見人形編10 獏絵図の浄化②

 人形が悪夢の主体者でないとわかった以上、次に解決すべき対象は漠絵図だ。

 絵が傷ついたせいで吸い取った悪夢――災いとなる穢れを吐き出すのなら、修復してやればいい。

 しかし溜め込まれた穢れが、外部へ瘴気となってまき散らされるとなると、まず浄化処置をしないと危険だ。

 その後、穢れの少ないうちに絵を修復に出すのがベストとなる。

「――というわけですので、九里屋さんは施術の間、退出をお願いしたいのですが」

「ああ、そうだね……」

 九里屋さんが落ち着いた機を見計らって説明するも、彼は空返事のまま動く気配がない。視線は下方を向き、何かを考えているようだ。

 俺が作業の邪魔になる上着を脱いでワイシャツ姿になったとき、九里屋さんの口が開いた。

「……その作業、私も立ち会えないだろうか」

「なんですって?」

「妻を苦しめた原因、母が私を守ってくれた災い、その最後を見届けたい。ケガをしても文句は言わない。難しい申し出かもしれないが、頼む」

 彼が頭を下げてきた。その対応に、しばし俺は迷うことになった。

 万が一、彼が負傷した場合、こちら側の責任問題となりかねない。だが依頼者である以上、便宜を図ってあげたいところだ。

 すでに彼は何回も事態の収束を願い、しかしそのたびに裏切られてきた。長く苦しんできたので、その終わりを実感したいのだろう。今までの言動から、その気持ちは痛いほどわかる。

「とはいえ……」

 やはり危険だ。だがしかし――。

 責任と人情の狭間で揺れている俺へ、あっけらかんとした声が届けられた。

「ええんちゃうん?」

 少女が、ほお横に流れる髪の房を指先で撫でていた。彼女はずいぶんと暇らしい。

「危うさで悩んでるんやったら、大丈夫そうえ」

 ランが指差す先には、旦那さんが持つ形見人形。今も淡く輝きを放っている。

「――――いいでしょう。ですが九里屋さん、作業中は絶対にワタシの指示に従うこと。これだけは守ってください」

「ああ、もちろんだとも。ありがとう」

 口約束は、目に見える形として握手で交わされた。

 正直なところ、まだ迷いを残しているが、俺は浄化作業の準備に取り掛かる。

 とりあえず九里屋さんは、獏絵図から距離を取ってもらうために部屋の隅へ行ってもらった。

 俺は彼の周囲へ、紙垂を等間隔につけた注連縄を巡らす。

「これは内外の神秘一切を……いえ、外部からの災いを遮断する結界です。ここから出ないようお願いします」

 床に置いた半径一メートルの縄。神社でよく目にするアレだ。

 それは現代で言うところの、黒と黄色でおなじみの「立ち入り禁止」を表す警戒標。凶瑞問わず、外と内の力を行き来できなく分断する。だが、細かいことを伝える必要はない。

 さらに実を言えば、この結界は予備の簡易結界でしかないから効果が薄い。気休めでしかないが、無いよりはマシだと思うことにする。

 着々と広げられる非日常の光景に、九里屋さんは物珍しげそうに眺めていた。

 俺は開始の宣言をする。

「では、これから作業に入ります。人形を絶対に手放さないでください。そいつが九里屋さんの生命線となるかもしれません」

 彼は真面目な顔つきになってうなずいた。それを見届け、俺は獏の元へ足を向ける。

 獏の屏風絵への準備はすでに終わっている。絵は、茅で編んだ細長い縄の囲いの内側にあった。

 注連縄と同様に白い紙垂がついているが、茅の輪には、白黒黄赤緑という五種類の紙花も巻きつけてある。その紙花――別名、死花花はマンジュシャゲのような形状だった。

 紙には図形のような漢字がずらりと書き連ねてあり、神道的和風というよりどこか大陸風だ。

 台座である複数の木棒に括りつけられ、宙に浮いた茅の結界を俺はまたいだ。

「さてさて、それじゃあ始めますか」

 その結界の内側で、髪の毛を人差し指に巻いては解いていたランが大きく息を吐く。

「やっとかいなあ、待ちくたびれたわあ」

「だったら、少しは手伝ってくれよ」

 息をつきたいのは、こちらの方だ。

 そんな俺を見た少女は藍の小袖をひるがえして、さもおかしそうに声を転がした。

「家外の庶務は男子の務め。せっかく孝助の晴れ場やいうのに、女に代わってもらいたいん? せやったら、とんだ甲斐性なしやなあ」

 人の弱みを突いて遊ぶのがランの困った趣味のひとつだ。だが今回のそれは、今ひとつキレがなく思えた。

 彼女の顔色は優れない。絵から漏れ続ける瘴気にあてられているのだろう。俺にはわからないが、瘴気の範囲はどの程度まで広がっているのだろうか。

 俺は彼女のそばに寄り、慰めるように小さな頭を軽く撫でる。

「ああ、仕事が遅くてすまん。すぐに禊祓いを始めよう」

 いつもの俺の反応――よくふて腐れていた対応ではないのが、よほど意外だったのだろうか。

 ランは口を開いたまま、こちらを見つめていた。やがて慌てて俺の手を払いのける。

「な、なんやあ気持ち悪いなあ。文句ひとつ寄こさへんのかいなあ」

「そんなことはしないさ。時間が掛かった分、ランに負担を強いて悪かったと思っている」

「………………ふんっ」

 藍色の少女は腕を組んでよそへ顔を背けてしまった。しかし直前、ほほに朱が差すのを俺は見逃さなかった。

 今回、ふて腐れる番は彼女の方だったようだ。おかしみが漏れそうになる。

「……素直じゃないのか、強気なのか」

「なんやてっ?」

「なんでもないっす」

 俺は両手を挙げて降参のポーズ。そしてランの面前で膝を折った。

 心を鎮めるため、大きく深呼吸をする。雑念を取り除く作業。

 何回か深く息を吸い、肺の中身を吐いているうちに脳内がクリアーになってきた。

 さて拍手をひとつ打ち、招魂の儀を始めるとするか、と腕を広げたとき、

「孝助」

 小さな呼び声で腕が止まった。

 精神統一を妨げられた俺は、当惑の目線をランへと返す。

「なんだ?」

「ん~と……なあ」

 ランは不安げに瞳を揺らしていた。

 自分が思う以上に、俺の声は尖っていたのかもしれない。

「……その」

 お腹の前で組んだ両手をもぞもぞと動かす。そのまま、少女はうつむいてしまった。

 無視すべきか迷ったが、儀式は俺ひとりで行うものではない。相棒に憂慮があるなら、ひとまず取り除くべきだ。

「なにか言いたいことがあるんだろ? いいから言ってみろよ」

 俺は優しげな気遣いの声色を作る。演技以上の感情が込められていて、自分でも驚いた。

 いつもは勝ち気で小馬鹿にした表情の少女。そうではない今の姿が、はかなく消え入りそうだと感じたからかもしれない。

「ほら、ラン」

 促された少女は、ちらりとこちらを一瞥してから自分の手元を見る。

「手……」

「手?」

「手、握っても……ええ?」

 なにを言うのかと思えば。

 膝立ちの俺は、かっくり腰を落としそうになった。でも、頭上の位置にある彼女の顔は、真剣そのものだ。

 理由などわからないままだが、とりあえず片手を差し出す。

「これでいいか?」

 軽くうなずいたランは、両手のひらで俺の手を包む。

 そっと触れられた少女の手から、子供特有の高い体温を感じた。

 温度差が、俺の指先から手の腹まで伝わる。ついで、わずかな震えも伝わってきた。その震えを覆い隠すように、何度となくランの手のひらが、こちらの手に擦りつけられる。

 なにを今さら緊張することがあるのだろう。昨日今日会ったばかりの間柄ではないのに。

 そう思い、俺が見上げると同時に、目を閉じていたランは「うん……」と小さくつぶやき、手を離していった。

「……急にびっくりしたやろう? ごめんなあ」

 照れ隠しなのか、ランは似合わないくらいの笑みを浮かべる。満面の笑みというやつだ。

 彼女の素の笑顔というのは、淡い微笑というものなので不自然極まりない。

 なぜだか胸の中が、もやっとする。親しい仲でも、偽りの対応が、時に必要なことくらいわかっている。それでもだ。

 隠し事を指摘せず、ランの面目を立たせてやりたいが、俺の不満もどうにかしたい。気遣いと仕返しの両立。そんな中、ピンクの脳内でカラスが鳴いた。

 おもむろに、俺は執事のように片手を胸前へ置き、きれいにお辞儀をする。

「いえいえ、特に謝られるようなことは。ランお嬢さまから包み込まれた際、絡みついた肌の熱、感触。ワタクシ、望外の光栄に喜悦を感じました」

「アホぅ」

 道化に振る舞う俺に乗ってくれたランは、くすくすと肩を揺らした。そして少し自然な笑みに戻った彼女は、ほほを朱に染めてにらむ。

「あと、なんかイヤラシイ。……孝助のスケベ」

 これで少しは彼女の調子が戻ったかと思い、ひそかに胸をなで下ろすことができた。

 ――――と、ここで終われば美しいのだが、そうは問屋がおろさない。

 俺はきょとんとした顔を向ける。

「え、スケベ? どこが?」

「どこって、そんなん……」

「男の俺にはわかんないんだよ、女の機微ってやつがさ。だから、どうしてイヤラシイのか教えてくれないと」

 わざと困惑した表情を作って見つめる。

「いつもデリカシーがないって言われるから、直そうと思うんだ」

 しかし、ランはもっと困ったように身をよじらせる。

「え、え、でも……でも……」

 彼女は、顔から湯気が立つかと思えるくらい、恥かしそうにうろたえる。だが、俺は手を休めない。

「どのあたりがエロイのか、はっきり言ってくれよ」

 こうなったら畳みかけるのみだ。

「こと細かに、その口で。ほら、ねっとりとした口調で。甘い声を上げてっ。さあ、さあ!」

 悪ノリがすぎて、頭の悪いフレーズと笑顔を差し向けてしまい、とうとうイタズラがバレた。頭頂にチョップが降ってきた。

「うごっ!」

 衝撃で舌を噛みそうになった。

「こんのアホ! “せくはら”にも、ほどがあるえッ!」

 大きく息をつくランは、羞恥と怒りで、白肌をほどよく桃色に染め上げていた。

 二度目の逆落とし。

「へぶんっ!」

 元通り以上に元気にさせすぎたようだ。

 でもまあ、仕返しも果たしたんだから、いいとするか。

 ひとり納得していたところ、ふいに少女がぽつりと。

「ほんま、孝助はアホなんやから……」

 かすかな独白の陰に、なぜか小さなはにかみがチラリと映った気がする。勘違いかもしれない。

 だが、次の一言には、はっきりと怨みの色。

「おまえ、あとで覚えときやあ」

 まあ、いいとするか……。


 頭を入れ替え、再び手早く精神の集中をするため、自分のほほをぴしゃりと叩く。鋭い痛みが、自己の内面へと降りるスイッチとなる。

 俺は手のひらを打ち合わせた。夜半の空気が静かに震える。

 次いで間髪いれず、無音の開手。

 わずかな残響こだます中、俺は伏して拝み奉る。藍の紬をまとった小さな小さな少女へと。

「――綾に畏き御柩の御前に、恐み恐み申し上げる」

 数拍の静寂。その後、返ってきた声は不思議な音色。

 そう、まさに声というより音に近かった。

「…………我へ拝具す、其は誰れぞ……」

 それは、かすかな潮騒とともにもたらされた。

 天の海を抜けて耳に届く、上波のささやき。

 まるで広大な空間を何度も反射して到達したような、聞き取りにくい響き。

 性別の認知すらできない言の葉だった。

 俺はさらに深くかしずき、奉答する。

「下名は此岸の船繋ぎ、此明の守り手なり」

 右手のみを掲げる。

「印はここに。“火水の手合わせ”を」

 挙げた手が冷水に浸したように凍え出した。今まさに、手のひらには陰色の半円が浮き上がっているはずだ。

 頭上の気配が揺らいだ。右手に近づいてくる熱気。冷えた手の先が温まる。けれどもしだいに、火へ手をくべているような熱を感じるほどになった。

 そうして、何かが手のひらに触れたとわかった瞬間――肉や骨の溶け入る錯覚。

 突沸する溶岩に手を突っ込んだごとき痛烈な消失感。思わずうめき声を上げそうになった。

 灼熱の幻痛で脂汗がアゴへと伝う。

 床に染みができようとしたとき、耳に届いた声。

「……火代の労に報いよう……」

 それは垂簾越しのように鈍い。だが、はっきりとわかる若い女の声。

「……助勢を恃まば我が名を称えよ……」

 名は体を現す。

「……我は幽明雲海、棹廻る、鷁首の磐船…………我が名は……」

 彼岸からの畏声。

 形すらおぼろげな声の主は、此岸からの呼ばわりにより――、

「――――――――ヤソエノフナヒツギ」

 視界すべてが五色の極光であふれた。

 床に伏せている俺でさえ、まぶしさで目がくらみそうだ。やがて光が弱まってゆき、室内が元の薄暗さを取り戻す。

 知らぬ間に右手の痛みが消えていた。

 一息つく俺の後ろ頭を、明珠の鈴鳴りが撫でつける。

「許す、面をあげよ」

 顔を上げた先には灰白い少女。まるで姿見で、藍色の少女と入れ替わったような似姿。だが異なる点は多い。

 ランが着ていた濃紺の紬は薄灰色に。艶やかな黒髪は月白の垂髪に。二房に分かれた下ろし髪が、後背で鳥の羽のように宙を漂っている。

 なにより目を引く物は、彼女のつけている仮面だ。

 鼻頭より上、頭頂やや後ろまで、白サギをかたどったような鳥頭の面で覆われていた。

 クチバシの部分が、彼女の鼻上を通って前に突き出ている。ただし眼穴は空いていないので、視線を交わすことができない。

「もうすでに……ラン、じゃないんだよな……」

 目の前の少女が、ランではないことを脳が理解する空白の時間。

 灰白の彼女の口端が伸ばされてゆき――。

「ようやっと会えたのう、可愛い可愛い我が氏子っ!」

 俺の頭は彼女の両手で捕獲された。

 胸元へ引き寄せられ、きめ細かい少女のほほが俺のほほに密着する。そのまま糸巻きみたいに、かいぐりかいぐり、ほほを何度も押し付けられた。

「愛いのう、愛いのう」

 恥ずかしさで顔から火が出そうになった。

「ちょっ、ちょっと御前、よしてくださいよ!」

「ならぬ」

「なぜっすかっ?」

「そちは我の字を呼んでおらぬ。あのくさび……いや、ランめはよくて、我を放っておくなど断じて許せぬ」

 言葉遣いはともかく、童のような物言いに俺は気が抜けそうになったが、これこそが“彼女の気質”だったと思い出す。

「わかりましたよ……パイフゥ」

 ぴったり当たるほほを通して、灰白の少女――パイフゥがにんまり笑ったことを感じ取れた。

 ようやく彼女の顔が離れてゆく。しかし依然、両腕による拘束は外れない。

「あのー……手、放してくれません?」

「ならぬ」

「なんでだよ!」

 思わず地が出てしまった。

 パイフゥは気にすることもなく、俺の頭をしっかと抱き留める。

「久方ぶりの逢瀬ぞ。存分に楽しませよ」

「久しぶりって、おととい人形のときに会ったばっかじゃないすか」

「そうだったかの?」

 ボケ老人かよ。

 俺の内心を知ってか知らずか、彼女の声から熱が抜け落ちる。

「――先に教え授けたやもしれぬが、此岸を離るるば、我が魂は幽けし雲海を流離い廻る」

 声質は、透明さで占められてゆく。

「此地と彼地の狭間を満たす冥海は霞のごとき朧での、時の感覚などありゃせんのだ。漂泊の果てに磨耗する我が魂を護る術は唯一、時を忘れること。幽暗の波間に陽魂をゆだねるのみとなる」

 小難しくて、さっぱり覚えていないことを思い出した。

 彼女の言が本当なら、それは想像もできない過酷さだ。同時に疑問がわく。

「でも初めに『ようやく会えた』って言ってなかったすか? 時間感覚を捨てたってことはわかりましたけど、以前いつ会ったか覚えてるんですよね」

「正確には、そちと会えなんだ期間は二日もないことを知っておるぞ」

 意味がわからない。ボケる理由も。

 首をひねる俺を見たパイフゥは軽く息をついた。

「知識があるのは、ランめの記憶がためじゃ。此地との責木であるあやつを通して、現し世の調べを行う。ゆえに、たしかにそちと会うたのは一昨日のことらしいが、我にとっては幾星霜の年月を経た実感しか得れん」

「え~とつまり、最近に俺と会った事実を頭では理解できるものの、生身の経験としては遠い昔のことである。そのギャップを、心は簡単には受け入れられない……そんな感じっすか?」

「しかり」

 難儀なことで。

 その後、彼女に同情して俺は抵抗をやめたが、たっぷり五分は猫かわいがりされてしまった。

 離れた位置で、沈黙を続ける九里屋さんのことは考えたくない。浄化作業の前に、ひどく精神が消耗した気がする。

「――では御前、これより禊払いの儀、執り行いたく候はば、ご支度給わりたく……」

「いつでもよいぞっ!」

 灰白の小袖を腕まくりし、細っこい白腕をあらわにする稚気あふれる俺の主。威厳などなし。

 脱力しつつも、俺は獏絵図に向かいベルトの上に巻いた腰カバンから金属塊を取り出した。

 刃渡り十センチほどの刃物。刀身は狭く、剣先に重心を偏らせた投擲用のクナイだ。

 柄に糸を通すための穴が空いており、そこからは黄色の絹糸が垂れ下がっている。しかし今回、糸の出番は無いので取り外す。

 刃物を片手に、もうひとつカバンから出した水筒の清めの塩水を、まんべんなく刀身に振りかける。

 そんななか、後方のパイフゥが不審そうな声を投げかけてきた。

「これ孝坊や、そんな冴えぬ獲物で大事ないか?」

「冴えないって……パイフゥ、これ金剛杵に使われる錬鉄で作られてるんすよ。めったなことなんか起きやしませんって。ダイジョーブっす」

 簡素な作りのクナイだが、わざわざ東密の法具工房に注文した品だ。

 魑魅魍魎、悪鬼羅刹を調伏する真言密教の武僧たち。そんな彼らと同等の装備なんだから、かなりの信頼が置ける。

「……とゆーわけでっ」

 剣先からしたたる水気を払い、クナイを逆手に持ち換えて。

 ――――一気に獏絵図へ突き立てる。

「ぐっ、硬ぇ」

 金属と金属のぶつかる反響がこだました。手に伝わる感触は鉄石のごとし。

「見た目は薄っぺらい紙の屏風のくせに……」

 実際、通常の器具に対して、獏絵図は見た目通りの耐久性しかない。しかし、今俺が侵そうとしているのは、獏図の結界の方だ。こちらは頑強この上ない。

 左の手のひらでクナイの柄を押さえ、突き込む。だが、絵の表面で剣先はコンパス針のようにふらつくだけだ。

「この呪物の結界能力……マジパネェな……」

 しかし、そんな強力な遮断効果をもってしても、外部へ瘴気が漏れ出してしまった。

 俺は全体重をクナイの剣先へかける。がりがりと、まるで旋盤を回しているような振動で手元が乱れる。

 そうしていると、わずかにだが、剣先が絵に沈み込んだ手ごたえを得た。

「よっし! あと、もうひと踏ん張り…………え?」

 舌先に鋭い苦味が走った。

 すぐにそれは強烈な苦渋の奔流となって口内を蹂躙する。

「にがっ、にっがい、なんて、もん……じゃあ……」

 あまりの苦さに涙が出てきた。舌が勝手に回ってしまう。

「あばばばばばっっ」

「孝坊っ」

 さすがに見かねたのか、パイフゥの動く気配を背中越しに感じた。だが、彼女の出番はまだだ。

「らららいじょーぶ、ぶぶぶ……、ごご御ぉ前んはあああ、うごうごうごかないでええええっ」

 涙まじりの俺の懇願に、彼女は踏みとどまったようだ。

 実際のところ、あともう少し。結界にわずかな穴が開き、クナイを通して内部の瘴気が漏れ出してきたのだから。

 知らぬうちに戻った味覚を恨みながら、俺は腰をすえて思いっきり刃物を突き押す。

「よおおいぃぃしょおぉおおお!」

 一秒か、三秒か。

 さだかではない時間が過ぎ、不意に頑固な反動はウソのように無くなった。するりと俺の身体は前のめりになり――。

 直後、解放された強烈な瘴気の内圧によって後方へ吹っ飛ばされた。

 宙に舞う俺の視界いっぱいを、真っ黒なモヤが激しい流れとなって荒れ狂う。未熟な俺でも目にすることができるほどの特濃の瘴気だ。

「御ぉ前んーーーっ!」

「安堵せえ、我の子よ! 蒼生万物に生ず、もろもろの禍事罪穢、我が加加呑みて彼岸へと雪いでつかわす!」

 俺が受身失敗して背中から落ち、カエルみたいな息をもらしたとき、すぐそばで手を打ち鳴らす音が聞こえた。

 そして厳儀に望む、朗々たる少女の畏声。


「上舟楫差池、入杳窕雲漢(――差池して舟楫を上せ、杳窕たる雲漢に入る――)」


 緩急のある拍手は、調子よく鳴らし続けられる。

 ほどなく足拍子まで加わった。いっそ踏歌のようだ。


「我中正有上天梯(――我が中に正に有り、上天の梯――)

 鼓掌踏地送死穢災禍(――手を鼓し地を足踏みて、死穢災禍を送る――)」


 八方に散じていた瘴気が、ひと筋の激流となって収束してゆく。黒い積乱雲のような瘴気の真ん中に、ひらりと舞う灰白の少女。

 拍手みっつに足踏み二つ。腕振り、足回し、さらに手を打ち地を震う。

 天の神鳴らす両手を掲げてくるりと回り、あまねく地祇に届けと、ひときわ大きく床板をしならせる。


「棺中陰気不能戻(――棺中の陰気、戻るに能わず――)

 但漂幽海如杳杳冥冥(――但だ杳杳冥冥の如き幽海を漂うのみ――)」


 日ノ本の言葉ではない、喉舌の韻を発し終えたとき、瘴気はひと塊の渦となっていた。

 黒雲は、生き物のように鎌首もたげさせる。

 その渦巻く先端は、鋭く尖ってゆき――瞬時に伸びた。

 陣風となって突き進む瘴気。

 向かう先はパイフゥ。正確には、彼女の大きく開けた口だ。

「っんぐぉ!」

 矢の速度で、パイフゥの口内へ瘴気の塊が突っ込んだ。

 常人があんなものを飲み込めば、半秒もしないうちに肺腑が腐り落ちるだろう。

 ところが目前にいる灰白の少女は、獏絵図から流れ出た瘴気を呑み下す。際限なく呑み込み続ける。そのさまは、次々にバケツの水を空ける象のようだ。

 みるみるうちに、部屋中に散らばっていた瘴気はおろか、獏絵図の内部から瘴気という名の穢れが除き清められていき、

「……けぽっ」

 パイフゥの可愛らしいげっぷが浄化終了の合図となった。

「おお……、黒かった白天図が……」

 部屋のすみにいた九里屋さんが大きくタメ息をもらした。俺も獏絵図へ顔を向ける。

 そこに闇より暗かった屏風絵はなかった。

 絵の中の瘴気はすべて除き祓われ、陰った背景は真っ白なものへ。そして、『白い太陽(烏輪)に耿耿と照らされた獏』の長い鼻を振るう姿があった。

 まさに白天図。こころなし、かの獣が喜び遊んでいるように見えたのは、施術者の欲目というやつだろうか。

 本来なら胸焼けで済みそうにないパイフゥだが、彼女はケロリとした表情でたたずんでいた。俺は彼女の下にひざまずく。

「小身、たっての立願への御霊応、真に有り難き所存にございます」

「なに、可愛い可愛い氏子の願いじゃ。瑞応授けるも我の務め。とはいえ……」

 鳥頭面の少女は、白帯で締められたお腹をそっと撫でる。

「ちと多かったかの。さすがの我でも、少しばかり骨が折れたわ」

「……はっ、御前におかれましては重ね重ねの――」

「骨が折れたわ」

 俺にみなまで言わせず、パイフゥがこちらへ顔を向ける。仮面の下からじっと見つめているように感じる。

 その間、しばし――。

 突然、彼女が両手を振り上げて叫んだ。

「我を労ぎて饗応せんかっ! 貴人に、はしたなきマネをさせるでないっ!」

「いやまあ、気の利かない俺が悪いんですけどね……」

 子供そのままの行為に俺はどっと疲れた。もう少し偉いさんらしく振舞って欲しい。

「それで、俺は何したらいいんすか?」

「穢れは口に苦し。これはそちもよく知るところじゃろう? しかるに我へ南蛮菓子を奉献せよ。三山玉京の銀漿金液に勝る、無窮の銘菓を!」

 声がうわずるパイフゥの頭の中は、乳白色の洋菓子でいっぱいなのだろう。そういう姿を見ると、ついつい、からかいたくなってしまう。

 ランの性癖を責められないな、と思いつつ、俺が浮かべるのは意地の悪い笑み。

「あれ? たしか銀漿金液って仙薬のことですよね。苦そうですよね。パイフゥが間違えるとも思えないし、もしや苦い菓子がお好みで?」

 パイフゥの喜色満面な口元が、はたと固まり、ほほが朱に染まる。そして、体がぷるぷると震えだした。いや、震えているのはむしろ挙げられた手の方か。

「……この、たわけっ!」

 ぽかりと、しゃがんだ俺の頭上でいい音がした。


 結局、氏子にたかるパイフゥへ、北山のフィロゾフ・ニコラで歓待することを約束させられた。俺も口の中が苦みきっているので、望むところではある。

 さしあたって、獏絵図の処置は終わったというところ。したがって、俺は部屋のすみで所在無げにしている依頼者へ声をかけることにした。

「九里屋さん、もう注連縄の中から出てきてもらっていいですよ」

 彼はうなずいて結界の外へと足を踏み出した。

 形見の人形は、ぼんやりと光っている。

「なるほど」

 俺がひとり納得していると、九里屋さんがこちらへ歩いてきた。そして、俺のそばにいる灰白の少女へ視線を投げ、俺の方へと向ける。

 彼は何か言いたげだったが、言葉を鉄柵に閉じ込めるように、口元は堅く動かなかった。大人だと思った。

 おもむろに表情を入れ換えた九里屋さんは、俺へと笑いかけてきた。

「いやあ、ご苦労さま。素人目にしても効果があったことがわかったよ。立ち合わせてもらってよかった。心労がきれいに洗い流された気分だ」

「それはよかったです。ですが先の説明通り、これは一時的な処置に過ぎません。近日中に、この獏絵図の修復をお願いします」

「ああ、もちろんだ。ありがとう」

 こちらに握手を求めてくる旦那さんの顔つきは生き生きとしていた。依頼説明を受けたときの暗雲に満ちた表情とは大違いだ。

 彼のような笑顔が見たいから、こんな稼業をやっているのだ。感謝するのは俺のほうかもしれない。

「そんなに喜んでもらえるなんて、こちらとしても嬉しいです、九里屋さん」

 だから、だからこそ俺はもうひと働きする必要がある。

「ただし――、まだ悪夢の元凶は残されたままです」

 九里屋さんの顔が凍りつく。

 そんな彼を置いて、俺は寝室の入り口へと身体を向けた。

「そうですよね、そこの人。いいかげん、顔を見せてくれません?」











投稿は週一回。この原則を破ってしまいショックです。

それなのに、ひたすらに疲れた……


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