「もう長くない」と夫に告げたのに、「冗談はやめろ」と言われた。彼は初恋の女の傷を手当てするのに必死だった
篠原真帆が日本を離れてから、私はようやく御堂恭平に想いを伝えた。
あの日の恭平は少し酔っていて、大学の部室棟の外にある手すりにもたれていた。夜風にシャツの裾を揺らす彼の前で、私は汗ばんだ手を握りしめていた。また断られるつもりでいた。
けれど、恭平はしばらく私を見たあと、ふっと笑った。
「若いんだし、ちょっとくらい勢いで付き合ってみてもいいだろ」
私はその言葉を、十年間ずっと覚えていた。
そして真帆が帰ってきた。
友人たちとの集まりで、真帆がゲームに負けた。罰ゲームは、その場にいる異性の誰かとキスをすることだった。誰かが面白がって、結婚したときは何があっても澄花を優先すると言っていなかったか、と恭平をからかった。
恭平は真帆の肩を抱き、私が久しく見ていなかった顔で笑った。
「若いときの勢いで言ったことを、いつまでも本気にするなよ」
電話越しにその声を聞いた瞬間、十年前の夜を思い出した。
あのとき私を救ってくれた言葉を、恭平自身が軽く手放していく。
私は携帯を握ったまま、何も言えなかった。
もう私も、本気にしなくていいのかもしれない。
1
映画『ポプラの丘』の主演は、篠原真帆に決まった。
テレビ局近くの会議室に呼ばれた私とマネージャーの佐伯由香に、プロデューサーは申し訳なさそうに切り出した。
「白石さんがこの役のために長く準備してきたことは、こちらも承知しています。ただ、篠原さんは帰国したばかりで話題性が高い。それに御堂さんから黒田監督への推薦もありまして……最終的に、製作委員会でキャスティングを変更することになりました」
隣に座っていた由香の表情が一気に険しくなった。
私は不思議なくらい何も感じなかった。少なくとも、会議室を出るまではそう思っていた。
その日の東雲市は、朝から雨だった。
テレビ局を出ると、入口の周りには大勢の人がいた。記者や真帆のファンだけではない。芸能人を追い回して配信する者や、以前から私の失言を探しては動画にしているアカウントまで混じっていた。
人混みから、食べ残しの弁当が入った袋が飛んできた。冷えたご飯とソースがコートにぶつかり、そのまま裾を伝って落ちていく。
「白石澄花、もう芸能界辞めろ!」
「真帆が帰ってきたのに、いつまでおしどり夫婦を売りにするつもり?」
「初恋の相手が戻ってきたんだから、いい加減わかるでしょ!」
由香がすぐに私の前へ出て、局の警備員とスタッフが人を押し戻した。
私はコートの汚れを見下ろした。冷たいソースの匂いと湿った空気が混ざり、胃の奥がむかついた。
数年前まで、私は映画賞の舞台に立ち、「これからが楽しみな若手女優」と紹介されていたはずだった。今は何台ものスマートフォンがこちらを向いている。
車に乗ってから、私は恭平に電話をかけた。
すぐにつながった。
けれど私が声を出すより先に、向こうで誰かが笑った。
「御堂、お前、結婚したときは何があっても澄花の味方だって言ってなかった? 真帆が罰ゲーム引いた途端、ずいぶん積極的じゃん」
「別に御堂が相手しなくてもいいだろ。この場に男なんていくらでもいるし」
「いや、それは無理だろ。真帆は恭平にとって、学生時代から特別だからな」
恭平も笑っていた。
あんなふうに何も気にせず笑う声を聞いたのは、いつ以来だろう。
「若いときの勢いで言ったことを、いつまでも本気にするなって」
真帆の声がした。
「もういいって。澄花が聞いたら怒るよ」
次の瞬間、周りが大きく沸いた。
そのあとに、ごく短いキスの音が聞こえた。
由香が私を見て、何も言わずに携帯を取り上げた。そのまま通話を切り、ティッシュで私のコートを拭き始める。
「今日は帰ろう。SNSは開かないで。事務所の公式アカウントも見なくていい。『ポプラの丘』の件は、私がもう一度黒田監督に話すから」
心配しているのがわかったから、私は笑ってみせた。
「大丈夫」
車が高架に入ると、雨に濡れた街の灯りが窓の外を流れていった。気がつけば、十年前のことを思い出していた。
大学時代、恭平と真帆は演劇サークルで誰もが認める二人だった。恭平が主役を演べば、真帆が相手役になる。公演のたびに、あの二人はそのうち結婚するんじゃないかと周囲が騒いでいた。
私はずっと恭平が好きだった。真帆がヨーロッパへ行くと決めて、ようやく告白する勇気が出た。
「御堂くん。私、ずっと好きだった」
彼は私を一度見ただけだった。
「ごめん。そういうふうには見られない」
それでも当時の私は諦めが悪く、振られたあとも二年間、彼のそばをうろうろしていた。
二年後の夜、酔った恭平を部室棟の外で捕まえた。
「御堂くん。私、何年も好きなんだけど。本当に一度も振り向く気ないの?」
壁に寄りかかった彼は、しばらく黙っていた。
私がもう帰ろうとしたとき、顔を上げた。
「若いんだし、ちょっとくらい勢いで付き合ってみてもいいだろ」
その夜はほとんど眠れなかった。
何年かして昔の荷物を整理したとき、恭平の名前ばかり書いたノートが箱いっぱいに出てきて、自分でも呆れたほどだった。
両親が交通事故で亡くなったのは、それから数年後だった。
私はしばらく家から出られなくなった。
恭平は準備中だった映画を一本断り、車で私を北嶺まで連れていってくれた。
そこには長年続いている防風林再生事業があり、私たちは森林再生センターで三枝文乃教授と出会った。
三枝先生は寒冷地の樹木と土壌再生を生涯研究してきた人だった。七十を過ぎても古い作業着を着て、毎日のように苗畑へ出ていた。
植えたばかりのポプラを見せてもらったとき、先生は幹を軽く叩いた。
「地味な木でしょう。でも根はしぶといのよ。風が強い場所ほど、本当に生きる力があるかどうかがわかるの」
恭平が私を見た。
「澄花みたいだな」
「どこが?」
「柔らかそうに見えて、妙に頑固なところ」
あの頃は、本当に彼の目には私しか映っていないと思っていた。
三枝先生に勧められ、私たちは再生区域の一角に一本のポプラを植えた。木のそばには長期観測用のセンサーが設置され、センターからは定期的に写真や生育記録が届くようになった。
それから十年、私は携帯の画面越しにその木が育つのを見てきた。
写真の中のポプラは、いつの間にか当時の私たちよりずっと大きくなっていた。
私に残された時間は、それほど長くなかった。
2
その夜、私はリビングで朝まで待った。
七時前に玄関の電子錠が鳴った。
入ってきたのは真帆だった。
泥酔した恭平を支えながら、迷うことなく暗証番号を入力した。ソファに座る私を見ても、それほど驚いた様子はない。
「澄花さん、まだ起きてたんですか? 恭平、かなり飲んでます。しばらく寝かせておいたほうがいいですよ。昔から、寝入りばなに起こされるのが嫌いなんです」
彼を寝室へ連れていきかけて、真帆が振り返った。
「起きたら白湯で大丈夫です。蜂蜜を入れるなら少しだけ。甘すぎると気持ち悪くなるので」
自分の家のリビングで、私は黙って彼女を見ていた。
私の夫がいつ起こされると機嫌を悪くするのか、何を飲むのか。真帆はまるで今でも当たり前に知っていることのように口にした。
「もう帰って」
そこで初めて言いすぎたと気づいたらしく、真帆は申し訳なさそうに笑った。
「ごめんなさい。余計なこと言いましたね。昔の癖が残ってて。気にしないでください」
玄関まで行ったところで、彼女は『ポプラの丘』の話を出した。
「映画のこと、もう聞いてます?」
「聞いた」
「恭平が黒田監督に私を薦めてくれたんです。澄花さんが準備してた役だっていうのは、あとから知りました」
そこまで言うと、真帆は口を閉じた。
傷つけたいのなら、これ以上言葉を重ねる必要なんてなかった。
私は玄関のドアを開ける。
「引き受けたなら、ちゃんと演じて」
真帆は私の顔を見た。
「もちろんです」
ドアが閉まったあと、私はその場で壁に背を預けた。
さっきまで普通に立っていられたのに、一人になると涙が止まらなかった。
私はずっと、離婚という言葉をまともに考えないようにしていた。
両親が亡くなってから、恭平は私の生活の中であまりにも大きな存在になっていた。もう以前とは違うとわかっていても、この人までいなくなったらと思うと怖かった。
その日は、いつものように彼の世話をしなかった。
テレビでは真帆の帰国インタビューが流れていた。ヨーロッパでの活動は充実していたけれど、若い頃から心残りになっていることが一つだけある、と笑っていた。
似たような記事はもう何度か見た。
最初にそういうニュースが出た夜、恭平は朝まで帰ってこなかった。連絡もなかった。
あの頃から、私たちの間にあった何かが少しずつ形を変え始めていた。
3
昼を過ぎて、ようやく恭平が起きてきた。
こめかみを押さえながらキッチンへ行き、水を飲んでから辺りを見回す。
「澄花、二日酔いに効きそうなものない?」
私は自分の手を見た。最近は痩せたせいで、手の甲の血管が前より目立つ。
「前に言ったよね。私がこの家にいる限り、どこへ行っても最後はここに帰るって」
恭平の手が止まった。
「何年前の話だよ。今は仕事も付き合いもあるんだから、毎日決まった時間に帰れるわけないだろ」
そこまで言ってから、昨夜のことを思い出したのか、一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「昨日は真帆の受賞祝いだっただけだ。海外で賞を取ったから、みんなで少し長く飲んでただけ」
「真帆だったことは知ってる。わざわざ名前を避けなくていいよ」
私はソファの端を握った。
「『ポプラの丘』もそう。あの役が私にとってどういう意味か知ってるよね」
恭平は面倒そうに手を上げた。
「わかった。まだ間に合うなら、俺から一度話してみる」
信じてはいけないとわかっていた。
それでも、その一言を聞いただけで胸の奥が少し緩んだ。
すぐに身体が苦しくなり、私は階段を上がって薬を取りにいった。
引き出しを開けた拍子に、病院から持ち帰った薄いファイルが床へ落ちる。中には、急性骨髄性白血病の再発を告げる検査結果が入っていた。
追ってきた恭平がファイルを拾った。
「これも次の仕事の資料?」
中身を開きもしないまま、机の上へ置く。
その横には、撮影用の台本や企画資料が積まれていた。
私はファイルを引き出しへ戻した。
しばらくしてから、別のことを口にする。
「もうすぐ父と母の命日なんだ。一緒にお墓参りに来て」
恭平はすぐに頷いた。
「もちろん。そのつもりだった」
それから急に笑う。
「昨日のこと、全部聞いてたのか。だから今日こんなに機嫌悪いんだな」
まだ酒が抜け切っていないのか、そのままベッドへ倒れ込んだ。
私はしばらく彼を見ていた。
昨夜、ほんの一度でも携帯を確認していれば、私からの着信に気づいたはずだった。さっきのファイルだって、開けば何が入っているかわかった。
でも、彼は開かなかった。
それだけだった。
4
数日、由香の家に泊まった。
製作側から連絡はなかった。
ほどなくして、例の集まりで撮られたキス写真が芸能ゴシップ系のアカウントから投稿された。同じ日に『ポプラの丘』の正式なキャストも発表された。
主演は、やはり篠原真帆だった。
公開されたビジュアルで、真帆は北嶺の再生区域を再現したセットに立っていた。
古びた作業着を着て、いかにも苦労を背負ってきたような表情をしている。
役に入り込んでいる、と評判はよかった。
けれど、私は写真をしばらく見つめていた。
三枝先生は、あんな目で木を見なかった。
幼木の前にしゃがみ込み、ズボンを泥だらけにしながら、「あと十年もすれば、この子たちが後ろの人を風から守ってくれる」といつも笑っていた。
私と恭平に関する話題はすぐSNSのトレンドに上がった。
初恋との再会だと盛り上がる人もいれば、学生時代の写真を掘り出して、やはりこの二人のほうが似合うと書く人もいた。
私を嫌うアカウントや真帆のファンまでコメント欄へ押し寄せ、早く離婚しろだの、『ポプラの丘』が白石澄花に決まらなくてよかっただの、好き勝手に書いた。
こういう言葉は、十年前にも散々聞いた。
両親を亡くしたあと、私は恭平と結婚した。当時の大学仲間の中には、弱っていた私が恭平を縛りつけたのだと言う人もいた。私さえいなければ、彼はいつか真帆を待ったはずだ、と。
皮肉なことに、その年に私は初めて主演女優賞を取った。
仕事さえうまくいけば、いつか誰も私の結婚に口を出さなくなると思っていた。
そんなものは、まったく別の話だった。
恭平から電話が来たとき、私は由香の家の客室で熱を出していた。
「この前の夜、俺に電話した? ネットの写真は信じるなよ。ゴシップ垢がわざとそう見えるところだけ切り取ってる」
枕にもたれたまま答えた。
「写真はもういい。それより私、たぶん長くないから」
向こうが黙った。
私は彼が問い返す前に続けた。
「明日、お父さんとお母さんのお墓に行く日。覚えてるよね?」
恭平の声が苛立つ。
「澄花、最近どうしたんだよ。そういう冗談は笑えない」
私は電話を切った。
これ以上聞いても、傷つくだけだった。
由香がベッドの横に座り、私の手を布団の中へ戻した。
「SNSなんて見るなって。あっちの二人だって普通に叩かれてるから。澄花ばっかり悪く言われてるわけじゃない」
もうネットの声には、それほど興味がなかった。
恭平の手には、病名の書かれた書類が一度届いていた。それでも、ファイルを開くほどの関心はなかった。
そのことのほうが、ずっと堪えた。
5
翌日、私は一人で墓地へ行った。
東雲市は朝から冷たい雨だった。
両親の墓の前に長く座った。
最初のうちは、仕事は順調だとか、恭平は急に用事が入っただけだとか、そんな話をしていた。けれど時間が経つほど、自分でも何を言っているのかわからなくなった。
墓前で恭平に電話をかけた。
今度はすぐにつながった。
周囲は騒がしく、真帆も近くにいるようだった。
「写真のことで、俺も事務所に呼ばれてる。真帆も今かなり参ってるから、今日はそっちを先に片づけたい。墓参りが終わったら早めに帰れよ。マスコミに見つかると面倒だ」
昨夜の約束などなかったような口調だった。
携帯を握る手に力が入る。
「真帆に何かあったら、必ずそっちへ行くんだね。役が欲しいって言えば推薦する。恭平にとって、今の真帆って何?」
少し間が空いた。
「昨日は一緒に来るって言ったよね。どうして次の日には忘れられるの?」
すぐそばから真帆の声がした。
「私があのとき日本を出なければよかったね。そうしたら、こんなことにはならなかったのに」
恭平は否定しなかった。
何に一番傷つけばいいのか、わからなかった。
「『ポプラの丘』は?」
私は聞いた。
「昨日、話してみるって言ったよね」
電話の向こうで、恭平が少し黙る。
「もう正式契約まで済んでる。今から主演を変えるのは難しい。三枝先生に関係する企画がまたあったら、そのときは俺から――」
墓地を風が抜けていった。
私は雨に濡れた供花を見た。
「もういい」
「何が?」
「これからは、お墓参りも来なくていい」
電話を切った。
ほどなく鼻から血が流れ、手の甲に赤い雫が落ちた。ティッシュを何枚か使って、ようやく止まった。
墓地を出たあと、病院へ向かった。
受付で「御堂さん」と呼ばれ、少し遅れて顔を上げた。仕事では今も白石姓を使っているせいで、病院でそう呼ばれると、ときどき反応が遅れる。
「御堂さん。今の状態で強い治療を続けても、得られる効果はかなり限られます」
「あと、どれくらいですか」
医師は正確な数字を口にしなかった。
治療の目的も、病気を抑えることから、症状を軽くして生活の負担を減らすことへ変わった。
「これからは、治療そのものを増やすより、どこで、どう過ごしたいかを一緒に考えたほうがいいと思います」
診察室の窓の外を眺めた。
病院を出る頃には、妙に落ち着いていた。
墓地での電話を終えた時点で、最後まで恭平にそばにいてもらいたいという気持ちは、もうほとんど残っていなかった。
6
家へ戻ると、宅配ボックスに入っているはずの荷物がなかった。
森林再生センターから届いた十周年の記念品だ。
玄関を開けたところで、リビングから真帆の声がした。
彼女は恭平の前に立ち、腕を肩へ回していた。
「今のあなた、全然幸せそうに見えない。澄花さんっていつもああいう話し方するの? 昔は人に何か決めつけられるの、一番嫌いだったのに」
もう少し顔を近づける。
「あの飲み会で私を庇ってくれたとき、十八歳に戻ったみたいだった」
唇が触れそうになったところで、恭平は顔をそらし、真帆の身体を押し戻した。
真帆は気にした様子もなく、テーブルの上に置かれていた木とガラスのオブジェを手に取った。
「これ何? 森林再生十周年?」
ひっくり返して眺める。
「意外とかわいい。私にちょうだい」
恭平はさっきから壁の時計ばかり見ていて、まともに聞いていない。
真帆に言われるまま、適当に手を振った。
私はそのオブジェを一目で見分けた。
センターから届くはずだった、私宛ての荷物だった。
手にしていたバッグが床に落ちた。
「それ、私の」
二人が振り返った。
私は真帆の前まで歩いていく。
「返して」
恭平は私の顔色を見て、最初は何か言いかけた。けれど私の声が硬いと気づくと、彼のほうも露骨に不機嫌になった。
「澄花、帰ってきていきなりその言い方はないだろ」
真帆は手元のオブジェを見た。
「あ、ごめんなさい。恭平のものだと思ってました」
指が離れる。
ガラスが床へ落ち、いくつかに割れた。
木製の台座が私の足元まで転がってくる。
真帆の口元がほんの一瞬だけ緩んだのを、私は見た。
恭平も眉をひそめたが、先に私へ言った。
「わざとじゃないだろ。記念品なら、また作ってもらえばいい。最近の澄花、映画のことも墓参りのことも、何にでも怒りすぎだ」
私はしゃがんで破片を拾った。
恭平が手を伸ばしてくる。
「触るな。切るぞ。片づけは人に頼めばいい」
そのタイミングで、また鼻血が出た。
顔を伏せたままティッシュで拭う。いつの間にか涙まで手の甲に落ちていた。
「これ、十年前に私たちが植えたポプラだよ」
恭平の手が止まる。
私はひびの入った台座を抱えた。
「最初の参加者に、センターが十周年の記念品を作ってくれたの。あの木、今年で十年なんだよ」
恭平は黙った。
その顔を見れば、十周年を覚えていなかったことだけはわかった。
破片を箱へ戻した。
昔の私なら、どうして覚えていないのかと責めただろう。泣いて、喧嘩して、それでも最後には説明を待ったと思う。
今は、そのどれもが面倒だった。
「恭平。離婚しよう」
7
恭平はすぐには反応しなかった。
「……何?」
「離婚したい」
破片の入った箱を抱えて立ち上がる。
「もう、こんなふうに暮らしたくない」
彼が私の肩をつかんだ。
「十年一緒にいて、それで終わり?」
真帆が私たちの関係をつらいものだったと言ったとき、恭平は否定しなかった。
なのに私が終わらせようとすると、受け入れられないらしい。
彼の手を振りほどく。
「あの木を、私は十年ずっと見てきた。センターから届く写真も全部残してある」
私にとってあのポプラは、恋人同士で植えた思い出だけではない。両親を亡くして泣いた場所でもあり、三枝先生を失ったあと何度も思い出した場所でもあった。
恭平はようやく床の破片に目を落とした。
「知らなかった」
声が低くなる。
「ごめん。もう一度作ってもらう。体調がよくなったら北嶺にも行こう」
真帆もしゃがみ込み、ガラス片を拾い始めた。
「本当にごめんなさい、澄花さん。手が滑っただけなんです」
次の瞬間、真帆が短く息を呑んだ。
細いガラス片が手のひらに食い込み、思ったより深く切れていた。血が指先まで伝っていく。
恭平はすぐにその手を取った。
「動くな」
「大丈夫。これくらいなら――」
「ガラスが残ってるかもしれない。救急で診てもらう」
恭平はコートを取り、私を振り返った。
「真帆の傷だけ診てもらってくる。すぐ戻るから」
私はその場で二人を見た。
ひどく馬鹿馬鹿しくなった。
「恭平」
彼が足を止める。
「私が病気だって言ったの、覚えてる?」
表情がわずかに変わった。
ずっと押し込めてきたものが、その一言で切れた。
「私、もう長くないんだよ!」
リビングが静まり返った。
恭平は私を見たあと、真帆の血の滲んだ手にも目を落とした。
「……すぐ戻る」
ドアが閉まると、私は洗面所へ駆け込んだ。
胃には何もないのに吐き気だけが続き、洗面台につかまって息を整えた。
鏡の中の顔は、自分でも怖いほど白かった。
8
リビングの床に座り、拾える破片を少しずつ箱へ入れた。
割れたものは、接着剤でつなげても痕が残る。
午後になって、森林再生センターの北原所長から電話があった。
「白石さん、記念品、届きましたか?」
箱の中を見た。
「はい。届きました」
声がおかしいことに気づいたのか、配送中に壊れたのなら作り直すと言われた。
私は断った。
すると北原所長は、別の話を思い出したようだった。
「そうそう。古い資料を整理してたら、十年前の植樹の映像が出てきたんですよ。写真も動画も、生育記録もUSBに入れておきました。記念品と一緒に入ってるはずです」
私は開けられた箱を探した。
USBは一番下に残っていた。
「御堂さん、当時わざわざ僕のところに来たんですよ」
北原所長が笑った。
「十周年に何か驚かせたいって。忙しくなっても必ず二人で木を見に戻るって、あの頃はえらく自信満々でね」
私はUSBを握ったまま黙っていた。
「三枝先生が生きてたら、白石さんの今の仕事をきっと喜んだでしょうね」
電話を切って、USBをパソコンに挿した。
最初の映像は十年前だった。
画面の中の私は若く、両親を亡くしたばかりで目がいつも腫れている。
植えたばかりのポプラは小さかった。葉に虫がついたり、枝に鳥が止まったりしている。
ある動画では、ちょうど撮影中に鳥が糞を落とした。
私は泣いていたのに、それを見て笑ってしまっていた。
恭平が涙を拭う。
「泣くなって。十年後、この木が大きくなったら、澄花のこと何て言うと思う?」
若い私は首を振る。
恭平は額にキスをした。
「十年経っても泣き虫だな、って笑われるぞ」
そこで映像を止めた。
あの頃の恭平は、本気で十年後の私たちを思い描いていた。
それを忘れたのも、恭平自身だった。
9
私は家を出た。
新しい住所は由香にしか教えなかった。
以前の家には、離婚届と必要な書類だけを残した。
それからしばらくして、由香から黒田宗一郎監督の奥さんの誕生日会に誘われていると聞いた。
仕事の集まりではなく、親しい人だけの小さな食事会だった。
黒田監督は、私が一番苦しかった時期に大きな役を任せてくれた人だ。体調が許すなら顔だけでも出したかった。
恭平が来る可能性は高かったが、それでも行くことにした。
ホテルの個室へ入って間もなく、予想どおり恭平に捕まった。
「本気なのか?」
腰に触れた手を外す。
「必要なところを書いたら、弁護士から連絡して」
恭平が追ってくる。
「書かない。写真のことは本当にゲームだった。墓参りをすっぽかしたのは俺が悪い。そこは謝る」
私は歩き続ける。
彼は声を落としてついてきた。
「北嶺の記念品だって、作り直せるように俺から頼む」
それでも返事をしない私に、数秒たって映画の話まで持ち出した。
「『ポプラの丘』はもう正式契約が終わってる。今から主演を変えるのは難しい。でも三枝先生に関係する企画がまた出たら――」
ひとつずつ埋めれば、私たちは元の場所へ戻れると思っているようだった。
そこへ真帆が来た。
「澄花さん、本当に誤解です。私と恭平は昔からの友達ってだけで――」
恭平の眉が寄る。
「今、澄花と話してる。真帆は向こう行ってて」
予想していなかったらしく、真帆は数秒黙ってから離れた。
恭平は彼女を見送ったあと、小声で聞いた。
「前から言ってる病気って、何なんだ?」
私は答えなかった。
食事会が始まってから、黒田監督夫妻に挨拶へ行った。
由香から酒は禁止されていたので、私はノンアルコール飲料を手にしていた。キャップが固く、何度か回しても開かない。
横から恭平が取り上げ、何も言わずに開けた。
真帆がそれを見て笑った。
「澄花さんって幸せですね。そういうことまでやってもらえて」
「羨ましいなら、恭平にやってもらえばいいよ」
恭平の顔が曇った。
「そういうこと言うなよ」
私はそれ以上続けなかった。
最近はすぐに疲れる。座っているうちに、まぶたが重くなってきた。
うとうとしていると、黒田監督が私を見て言った。
「澄花、ずいぶん痩せたな」
目は開けなかった。
隣が数秒、静かになったのだけはわかった。
恭平がどんな顔をしていたのかは知らない。
10
目が覚めたとき、恭平に抱かれて駐車場へ向かっていた。
腰も背中も痛くて、少し身じろぎした。
彼がすぐにこちらを見た。
「起きた? 最近、寝てばっかりだな」
私は答えなかった。
恭平がふいに足を止めた。
「澄花……まさか、妊娠してる?」
顔に浮かんだ喜びを、彼は隠しきれていなかった。
私は一年以上前のことを思い出した。
生理が半月ほど遅れ、私も同じように浮かれていた時期があった。
「恭平。もしかしたら、小さいポプラに弟か妹ができるかも」
あのとき恭平は、真帆が帰国するかもしれないというニュースを見ていた。
私の言葉を聞き、
「病院行った? 夜、何食べたい?」
と尋ねた直後、電話が鳴って立ち上がった。
「ごめん。今夜、ちょっと用事できた」
そのまま朝まで帰ってこなかった。
結局、妊娠ではなかった。
体調そのものに問題があり、医師からも当時の身体では妊娠を維持するのは難しいと言われた。
今になって、恭平は本気で仕事の予定や部屋の準備を考え始めている。
しばらく聞いてから、私は彼の腕から降りた。
「妊娠してない」
顔から笑みが消えた。
「だからって、離婚をやめる気もないよ」
車に手をついて立つ。
「離婚届、書いて。これ以上引き延ばされたら、そのうち本当に十年間のこと全部SNSに書くかもしれない。そうなったら、お互い嫌でしょ」
恭平が明らかに動揺した。
私の腕をつかむ。
「澄花、何か誤解があるならちゃんと話そう」
昔なら、彼がここまで必死になるだけで気持ちは揺れたかもしれない。
「離婚はやめよう」
私は彼を見た。
「じゃあ教えて。『若いときの勢いで言ったことを、いつまでも本気にするな』って、どういう意味?」
顔色が変わる。
「あの夜は酔ってた。電話してたなんて知らなかったし、澄花が聞いてるとも思わなかった」
私の腕をつかんだ手に力が入った。
「悪かった。俺は離婚したくない」
少し前なら、その一言を聞けただけで安心したのかもしれない。
今はもう、ほとんど何も感じなかった。
11
その夜、駐車場を出たところで、以前から私をつけ回していた過激なファンに襲われた。
身体が弱っていた私は、少し歩いただけで後ろから強引に引きずられた。
男からは煙草の匂いが強く漂っていた。目つきも普通ではない。
「澄花、御堂なんかやめろよ!」
私の名前を何度も呼ぶ。
「妻がいるのにほかの女ばっかり見てる男だぞ。あいつといて幸せなわけないだろ。俺と行こう?」
振りほどこうとしても、力が入らない。
後になって、恭平がずっと追っていたと知った。
男は私を河川敷まで連れていき、恭平の姿を見るなり激昂した。
「来るな! それ以上近づいたら澄花を落とすぞ!」
恭平が止まる。
男はなおも彼を罵った。
その中には、私自身が何度も心の中で思いながら、口には出せなかった言葉まで混じっていた。
背後の川を見た。
身体も心も疲れすぎていて、怖さすら鈍くなっていた。
男の注意が恭平に向いた隙に、私は一歩後ろへ下がった。
足元がなくなる。
冷たい水が一気に身体を包んだ。
意識が遠のく直前、恭平も川へ飛び込むのが見えた。
目を開けたときは病院だった。
由香がベッドの横に座り、ひどく腫れた目で私を見ていた。
起きたとわかると、腹を立てたように腕を軽く叩く。
「何してるの! 本当に死ぬところだったんだから!」
喉がひどく乾いていた。
「どうせ、そんなに長くないし」
由香は言葉を失った。
しばらくして、赤い目のまま睨まれる。
「そんなこと言わないで」
看護師を呼びに由香が出ていくと、病室は静かになった。
窓際に恭平が立っていた。
ひどい顔をしている。
「……白血病って、どういうことだよ」
医師から聞いたのだろう。
映画の資料だと思って机へ戻したファイルのことも、思い出したはずだ。
椅子に座り、両手で顔を覆った。
長い沈黙のあと、掠れた声がした。
「澄花……俺、何してたんだ」
私は天井を見た。
「悪いと思うなら、離婚届を書いて」
恭平が顔を上げた。
「最後まで『御堂の妻』として見送られるのは嫌なの」
12
恭平はベッドの横まで来た。
髪に触れようとした手が、途中で止まる。
「それ以外なら」
私は彼を見た。
「何?」
「離婚だけは無理だ」
目が赤かった。
「ほかのことなら何でもする」
私は窓のほうへ顔を向けた。
今欲しいものは、その一つしかなかった。
由香に退院の手続きを頼んだ。
残りの時間を全部病院で過ごすつもりはなかった。
ところが家族として恭平が手続きを引き受け、由香は本人の前で怒った。
「今さら何してるの? 最初から手放してくれてたほうが、澄花だってこんなに傷つかなかったよ」
恭平は反論しなかった。
由香は少し間を置き、低い声で続けた。
「十年も期待させてから急に優しくするとか、一番きついでしょ」
恭平は俯いた。
「今からでも、できることはする」
由香は何も返さなかった。
「行きたいところには連れていく。昔約束したことも、少しずつやる」
そのあと、ぽつりと言った。
「澄花が本当にいなくなるなんて、考えたことなかった」
帰りの車で、私は半分眠っていた。
恭平は大学時代のことや、初めて二人で出かけた日のこと、北嶺の話をした。
その記憶なら、私は何度も思い返してきた。たぶん恭平より細かく覚えている。
恭平が携帯を差し出した。
画面には、今のポプラの写真が映っていた。
「少し元気になったら見に行こう。記念品も作り直してもらうから」
私は携帯を返した。
彼はまだ、壊れたところを直せば以前の続きに戻れると思っているようだった。
もう説明する力は残っていなかった。
13
以前の家へ入った瞬間、私は玄関で足を止めた。
恭平はここ数日、病院や仕事場、それに私の新しい部屋を行き来していて、ほとんど家へ戻っていなかったらしい。
結婚式の写真が壁から外され、その場所に十八歳の恭平と真帆が演劇サークルの公演で撮った写真が置かれていた。私が育てていた蘭の隣には、真帆の好きなヒヤシンスまで増えている。
大がかりに部屋を変えたわけではない。
それでも、誰かが勝手に自分の痕跡を置いたことはすぐにわかった。
由香の表情が冷たくなった。
「まだ離婚も成立してないのに、ずいぶん好き勝手するね」
恭平も知らなかったらしい。
写真を外し、ヒヤシンスを脇へよける。
「知らなかった」
私を振り返った。
「澄花、本当に俺は知らない。どうして真帆が勝手に入れるんだ」
私は椅子へ座った。
「その暗証番号、独身の頃から変えてないんでしょ」
恭平が黙る。
「真帆の誕生日だったんだね」
私は今まで数字の意味を考えたこともなかった。
真帆が酔った恭平を連れて帰ってきた日、迷いなく入力するのを見て、あとから気づいた。
恭平はしばらく玄関を見つめたあと、その場で管理会社へ電話した。
「暗証番号、今日中に変える」
私に言い訳するような口調ではなかった。
そのあと、恭平はキッチンへ入った。
マネージャーからの着信も切る。
「何食べたい?」
私はしばらく彼を見た。
「私の好きなもの、覚えてる?」
恭平は少しだけ安心した顔をした。
時間をかけて用意された料理は、どれも昔よく食べていたものだった。
箸を持っても、私はほとんど口にできない。
恭平は私の好みを忘れていたわけではなかった。
だからこそ、最初から何もなかった夫婦ではないとよくわかる。
「食べられない?」
すぐに立ち上がった。
「じゃあ何か買ってくる。何なら食べられそう?」
私が止めるより先に、彼は上着をつかんで家を出た。
急ぎすぎて階段で一度つまずいた。
私は食卓に座ったまま、追いかけなかった。
14
過激なファンに襲われた事件は、数日経ってもネットで話題になっていた。
私を心配する声もあれば、相変わらず罵る人もいる。
由香がSNSを見ながら、携帯をこちらへ向けた。
「真帆、話が進んでたCMを何本か若手に取られたみたい」
鼻で笑う。
「誰かが本気で調べ始めたのかもね。何が出ても私は同情しないけど」
私は一度画面を見ただけだった。
病院から戻ると、マンションの前に真帆がいた。
由香が足を止めた。
「まさか、病院からついてきたの?」
真帆は否定しなかった。
「澄花さんと少し話したいだけです」
由香が断ろうとしたが、私は止めた。
真帆は私を見た。
「病気、本当だったんですね」
表面だけの心配そうな顔が、すぐに消えた。
「正直、ほっとしました」
由香の顔色が変わる。
私は黙って続きを待った。
「十年も恭平と結婚してて、本当にあの人が幸せだったと思います? 私がヨーロッパへ行ったから、澄花さんに順番が回ってきただけでしょう」
真帆は小さく笑った。
「私は、元々自分のところにあったものを取り戻したかっただけです」
人前ではいつも「澄花さん」と丁寧に呼ぶ。
その響きすら、私より先に恭平を知っていたと示すためのものに聞こえた。
由香は今にも怒鳴りそうだった。
私は携帯を取り、恭平へ電話した。
真帆は気づかず、まだ話している。
通話がつながると、一言だけ言った。
「恭平。肉じゃが食べたい。帰りに材料買ってきてくれる?」
真帆の顔色が変わった。
十分ほどして、紙袋を下げた恭平が走ってきた。
真帆を見るなり足を止める。
「何してるんだ」
真帆の声が一気に柔らかくなった。
「恭平、私、澄花さんが心配で――」
「もうやめろ」
声は大きくなかった。
それでも、続きを許さない調子だった。
「ここまで来るな。澄花にも連絡するな」
真帆の目に涙が浮かぶ。
「でも昔、私のことはずっと特別だって――」
「過激なファンの件も警察が調べてる。今はもう、お前の話を聞く気ない」
真帆はしばらく立っていたが、やがて背を向けた。
彼女が去ると、恭平は私の前にしゃがんだ。
私はしばらくその顔を見た。
「今こんなに私を失うのが怖いのって、まだ愛してるからだけじゃない気がする」
彼の表情が強張る。
「真帆が帰ってくるまでは、あなたの中の真帆は十八歳のままだった。実際に戻ってきて、一緒にいるうちに、記憶の中の人とは違うってわかってきたんじゃない?」
恭平は首を振った。
「違う」
その答えを争う気はなかった。
「じゃあ、私を放して」
恭平が膝をついた。
由香まで驚いていた。
「澄花」
声が掠れていた。
「もう一度だけ、やり直させてくれ」
私は返事をしなかった。
彼が私の手を握った。
「本当に失いたくない」
涙が頬を伝う。
「十年一緒にいたんだ。全部なかったことになんてできない」
私はその顔を見た。
以前なら、胸が痛くて仕方なかっただろう。
今はもう、そこまで苦しくなかった。
15
結局、私は新しい部屋へ戻った。
以前の家ではもう落ち着けなかった。
治療の予定を見た恭平は、ほとんど毎日のように来るようになった。果物や食事を持ってくる日もあれば、ただそばに座って本を読むだけの日もある。
「前に好きだった苺、売ってた」
「肩、まだ痛む? 少し揉もうか」
「眠いなら寝てていい。静かにしてるから」
身体はそれでも悪くなる一方だった。
体重が落ち、朝眠ったと思ったら目を開けたときには午後になっている日もある。
恭平が何をしても、以前ほど心が動かなかった。
愛情がすべてなくなったというより、病気が少しずつ外の世界への興味まで奪っているようだった。
うとうとしていると、ベッドの横で恭平が「行かないでくれ」と呟く声を聞くことがある。
昔なら、そんな言葉一つで幸せになれた。
今は遠くから聞こえるだけだった。
私は長い間、両親を失った寂しさや、恭平の機嫌や、ネットでどう見られているかに振り回されてきた。
残された時間くらいは、自分がどうしたいかだけを考えたかった。
真帆について詳しいことを知ったのは、あとで由香からだった。
警察の捜査で、私を襲った男は偶然のストーカーではなかったらしい。
真帆は仲介業者を通し、私を一時的に表舞台から遠ざけるための嫌がらせを頼んでいた。ところが実際に送り込まれた男は、以前から薬物や暴力で何度も問題を起こしていて、計画以上の事件に発展した。
飲み会のキス写真も、真帆が意図的に撮らせて芸能アカウントへ流したものだった。
以前から私を攻撃していた一部の匿名アカウントも、彼女が利用していたSNS運用業者とつながっていたという。
『ポプラの丘』の撮影映像まで流出した。
真帆の演じる三枝先生は、苦労して泣き続けるだけの老人に見えた。
実際の三枝先生を知る人たちが、次々に違和感を指摘した。
映画を巡る空気は変わり、真帆が予定していたいくつかの仕事も保留になった。
それでも私を叩く人はいた。
病気になってまで御堂恭平を縛っている、と書く人もいた。
しばらくして、恭平が自分の公式SNSに短い文章を投稿した。
「澄花を責めるのはやめてください。彼女を傷つけたのは僕です。」
その下には、もう一文だけあった。
「できることなら、苦しい思いをするのも僕のほうでよかった。」
私のファンは納得しなかった。
コメント欄には、今さら近づくなという言葉がいくつも並んでいた。
私は携帯を閉じた。
机の上に新しく買ったファッション誌があった。
何ページかめくるうちに、ワンピースやバッグを買いたくなった。
以前は、欲しいものがあっても「また今度でいい」と思っていた。
今は、欲しいと思えるうちに手に入れてもいい気がした。
顔を上げると、鏡の中の自分は想像以上に痩せていた。
鼻血が雑誌のページに落ちた。
慌ててティッシュで拭いたが、余計に赤く広がった。
物音を聞いた恭平が入ってきたときには、手のひらまで血で汚れていた。
彼がすぐに私を抱き寄せる。
「澄花、もう触るな。医者呼ぶから」
その胸にもたれながら、もう彼と争い続けること自体が疲れていると気づいた。
「恭平」
彼が私を見る。
「離婚届、書いて」
身体が固まった。
私は血のついたティッシュを握った。
「最後くらい、静かに過ごさせて」
16
恭平が離婚届に必要なところを書いたのは、それから数日後だった。
その日、彼は長い間ペンを持ったまま動かなかった。
書き終えると、私の目元の涙を指で拭っただけで、しばらく何も言わなかった。
テーブルには昔の写真が置いてあった。
私が一度切ってしまい、あとから貼り直したせいで、端にはいくつもの折れ跡が残っている。
恭平はしばらくそれを見ていた。
「澄花」
「うん」
「離婚したほうが少しでも楽なら、そうしよう」
手続きが済むと、私は北嶺へ行くことにした。
最後に戻りたい場所が、そこにあった。
空港まで由香が付き添ってくれた。
恭平は少し離れた場所から、私たちが手続きをするのを見ていた。引き止めには来なかった。
由香は家を出たときからずっと泣いていた。
「せっかくここまで育てたのに、勝手に遠く行かないでよ」
私は彼女の肩に寄りかかって笑った。
「由香が年取ってから来たら、日当たりのいい場所取っておく」
「縁起でもないこと言わないで」
怒りながら、また泣いた。
昔、由香は恭平の現場で働く小さなアシスタントだった。
最初に私を見たのは、撮影所の隅で一人唐揚げを食べていたときだったという。
その後、恭平の現場を辞めて芸能事務所へ入り、マネージャー補佐から経験を積んだ。自分で担当を持てるようになって、最初に獲得しようとした女優が私だった。
当時の由香は妙に自信満々だった。
「この子は絶対売れるって思った。主演女優賞、いくつも取れるよ。賞の数なら御堂だって抜くかもね」
今思い出しても笑ってしまう。
搭乗前、由香は長いこと私を抱きしめていた。
「次に生まれるなら、もっと丈夫な身体にして」
少し間を置く。
「恋愛も、もうちょっと自分を大事にしなよ」
私は頷いた。
北嶺へ着いてから、抗白血病治療は終え、症状を和らげる治療に切り替えた。
北原所長の紹介で、森林再生センターの近くにある来訪者用の小さなコテージを借りた。
天気のいい日は外に置いたロッキングチェアへ座り、あのポプラを眺めた。
十年経った木は、とても高くなっていた。
風が吹くと、葉が細かく音を立てる。
USBは由香に預け、あとで恭平へ渡してもらうことにした。
いつ見るのか。
後悔するのか。
もう、それを知りたいとは思わなかった。
その日の午後は、よく晴れていた。
木漏れ日が椅子の横へ落ちている。
私は目を閉じ、しばらく葉の音を聞いていた。
そのまま眠った。
17
御堂恭平
澄花が北嶺へ行ってから、俺もあとを追った。
森林再生センターから少し離れた宿に泊まり、本人には知らせなかった。
もう会いたくないと思われている。
せめて、それくらいは尊重するべきだった。
遠くから澄花を見かけることがあった。
佐伯さんがロッキングチェアをポプラの下へ出すと、澄花はそこで日向ぼっこをしたり、眠ったりしていた。
雲が出ると、薄着じゃないか、雨で体調を崩さないかと、そんなことばかり気にしていた。
昔は全部、澄花のほうが俺にしていたことだった。
十年前は、俺の返信が少し遅いだけで「忙しい?」と聞いてきた。
それが最後には、目の前に俺がいても必要以上のことを話さなくなった。
その変化をずっと見ていたはずなのに、何を意味しているのか考えもしなかった。
澄花が亡くなった日、佐伯さんから電話が来た。
森林再生センターへ着いたときには、もう彼女は運ばれたあとだった。
ポプラの下には、誰も座っていないロッキングチェアだけが残っていた。
死去の発表はすぐにはされなかった。
由香さんと事務所が葬儀や関係者への連絡を終えてから、白石澄花が病気のため亡くなったと正式に発表した。
ネットには、昔の写真や出演作の映像が大量に流れた。
以前彼女を罵っていたアカウントが、過去の投稿を削除しているのも見た。
『ポプラの丘』の製作側も、予定していた宣伝活動を一時停止すると発表した。
俺は途中で画面を閉じた。
葬儀が終わってから、佐伯さんがUSBを渡してきた。
「澄花から」
それだけ言って、すぐに帰った。
一人で、中に入っていた映像を最初から最後まで見た。
最初の動画は、十年前にポプラを植えた日だった。
澄花はまだ若く、泣きすぎて目を真っ赤にしている。
その横で、俺が何度も彼女の涙を拭っていた。
動画の中の俺が、小さな木を指さす。
「十年後、どれくらい大きくなってると思う?」
澄花が聞き返す。
「私たちは?」
俺は彼女を抱き寄せた。
「俺たちも一緒にいるに決まってるだろ」
別の映像には、北原所長を訪ねた俺が映っていた。
若い俺は真面目な顔で尋ねている。
「十周年になったら、何か特別な記念品を作れませんか?」
何がしたいのかと聞かれ、少し考えてから答えた。
「この十年、待っててよかったって思ってもらいたいんです」
そして笑っていた。
「もう泣かせませんから」
動画が終わると、部屋にはパソコンのファンの音だけが残った。
澄花が昔の言葉に執着していたわけじゃない。
言った俺のほうが、先に忘れていた。
翌日、ポプラを見に行った。
北原所長は映像の頃よりずいぶん歳を取っていた。
木の下で俺の顔を見ると、しばらく黙ってから隣に立った。
「十年前、御堂さんは『もう泣かせない』なんて言ってましたね」
俺は木を見上げた。
昔は腰ほどの高さしかなかった苗木が、今はずっと高いところまで枝を伸ばしている。
「……何ひとつ、できませんでした」
北原所長は何も言わなかった。
風が枝の間を抜けていく。
俺は長いこと、その木の下に立っていた。
結婚したのだから、澄花が隣にいるのだから、約束なんていつでも果たせると思っていた。
本当にやろうと思った頃には、彼女はもう何も求めていなかった。
空が暗くなり始めてから、ようやくその場を離れた。
かなり歩いても、風に揺れるポプラの葉の音が聞こえる気がした。
振り返らなかった。
澄花が最後に眠った午後が、穏やかな晴れの日だったことだけを願った。




