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空白の輪郭に降る雪

作者: 八咫 日本
掲載日:2026/03/12

 私の人生には、常に「正解」の道筋が引かれていた。

両親の期待に応えるための進学、堅実な企業への就職、そして毎朝同じ時刻に起き、アイロンの掛かったブラウスを着て出社する日々。二十代半ばを迎えるまで、私は一度たりともそのレールから足を踏み外したことはなかった。

 2018年の秋。冷たい雨が降る夜だった。

 取引先との懇親会で終電を逃した私は、上司に付き合わされる形で薄暗いバーのカウンターに座っていた。そこでバーテンダーと気怠げに話していたのが、玲司だった。

 彼はフリーランスの映像クリエイターだと名乗った。昼夜逆転の生活、定まらない収入、そして他人の目を一切気にしない傲慢な振る舞い。私が必死に守り続けてきた社会の常識など、彼にとっては鼻で笑うようなものだった。

 絶対に交わるはずのない人間。それなのに、彼がタバコの煙越しに私に向けた、すべてを見透かすような冷ややかな視線に、私はどうしようもなく惹きつけられてしまったのだ。

 関係を持つまでに、時間はかからなかった。

 玲司は気まぐれだった。深夜の三時に突然「今から来い」と呼び出されることもあれば、私が手料理を作って待っていても平気で無断外泊をすることもあった。約束という概念は彼の中には存在しなかった。

 真面目な私は、最初はそれに反発した。自分のペースを乱されることが苦痛だったからだ。しかし、私が怒りをぶつけると、彼は一切の弁解もせず、ただ冷たく私を突き放した。

「なら、もう来なくていい。俺はお前がいなくても何も困らないから」

 その氷のような言葉を聞いた瞬間、私の心に得体の知れない恐怖が走った。見捨てられる恐怖。私のいない世界で、彼が何事もなかったかのように生きていくことへのどうしようもない焦燥。

 私は泣いて謝った。自分が悪かった、もう何も文句は言わないから側に置いてほしいと、床に縋り付いて懇願した。彼が満足そうに私の髪を撫でたあの時が、私の精神が完全に壊れ始めた最初の分岐点だったのだろう。

 2021年。私の生活は、完全に玲司を中心に回るようになっていた。

 有給休暇は彼に合わせるためだけに使い果たし、仕事中も彼からの連絡が気になってミスを連発するようになった。かつては完璧だった私のデスクは書類の山となり、上司からは冷ややかな目を向けられるようになった。

 それでも構わなかった。私にとっての現実リアルは、玲司の暮らすあの薄暗いマンションの一室にしかなかったからだ。

 友人たちは、みるみるうちに痩せ細り、身なりにも構わなくなった私を心配した。

「あの男はやめなよ。紗綾がボロボロになってるじゃない」

 大学時代からの親友だった香織は、泣きながら私を説得しようとした。しかし、その正論は私の耳には届かなかった。むしろ、彼との関係を否定する香織を「私たちの愛を邪魔する敵」だと認識するようになっていた。

 私は彼女の連絡先を消去し、SNSのアカウントもすべて削除した。両親からの着信も無視し続けた。私を縛り付けていた「真面目な娘」「良い友人」という役割を捨て去るたびに、不思議な解放感があった。私は彼のためだけに存在する、純粋な器になれたような気がしたのだ。

 彼の機材代、ギャンブルの借金、家賃。彼が要求する金額は日増しに膨らんでいった。

 私の貯金はとうの昔に底を突き、消費者金融のカードが財布の中に何枚も増えていった。私が金を渡すと、彼はほんのわずかな時間だけ、私に優しい言葉をかけた。その一瞬の温もりが欲しくて、私はさらに身を削った。

 彼が私の好意や従順さをただ搾取しているだけだということは、心のどこかでは分かっていた。愛などという尊いものではない。ただの都合の良いATMであり、感情のゴミ箱。それでも、この地獄から抜け出すことはできなかった。彼を失えば、私の人生にはもはや何の意味も、何の価値も残っていないからだ。

 そして、2026年3月。

 札幌の街は、まだ深く重い雪に覆われていた。

「もう限界なんだわ。お前のその暗い顔、見てるだけで気が狂いそうになる。二度と俺の前に現れるな」

 それが、八年にわたる関係の唐突な結末だった。

 新しい若い女を部屋に連れ込んだ玲司は、私が持っていた合鍵を奪い取り、着の身着のままの私をドアの外へと放り出した。抵抗する気力すら残っていなかった。

 氷点下の夜の街を、私はあてもなく歩いていた。

 スノーブーツを履いていない足元は感覚がなくなり、薄手のコートでは吹き付ける吹雪をしのぐことはできなかった。

 どこへ行けばいいのだろう。

 会社は数ヶ月前に無断欠勤が続いて解雇されていた。アパートの家賃は滞納し、今は鍵が変えられて中に入れない。友人たちとの縁は自ら切り刻み、家族の顔ももう五年以上見ていない。

 帰る場所も、私を呼んでくれる人も、この世界にはもうどこにも存在しなかった。

 すすきののネオン街を抜け、暗く静まり返ったビルの裏路地に迷い込んだ。

 ふと、シャッターの閉まった店舗のガラス窓に、自分の姿が映っているのに気づいた。

 私は、そこに立っている女が誰なのか、一瞬わからなかった。

 手入れされていないボサボサの髪、落ち窪んだ目、土気色の肌。かつて「真面目で綺麗」と言われていた私の面影は、そこには一ミリも残っていなかった。空洞のように黒い瞳だけが、ただうつろにこちらを見つめ返している。

 彼にすべてを捧げれば、彼の中で私の居場所が永遠に保証されると信じていた。

 けれど、私が自分自身を削り取って彼に与え続けた結果、最後に残ったのは、名前も、感情も、帰る場所も持たない「ただの肉の塊」だった。

 雪が静かに降り積もっていく。

 足の感覚はとうに消え失せ、次第に全身を心地よい眠気が包み込み始めていた。

 もう、頑張らなくていい。誰の顔色を伺う必要もない。

 輪郭を失った私が、このまま冷たい雪の中に溶けて消えてしまっても、世界は何一つ変わらずに明日を迎えるのだ。

 私は雪の積もった冷たいアスファルトの上に、ゆっくりと身を横たえた。

 静寂の中で、私が最後に思い出したのは、あの男の顔でも、過ごした日々でもなく、ただただ退屈で、けれど確かに温かかった、遠い昔の自分の部屋の風景だった。

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