見覚え
――あの男……あいつ……あいつは……!
電車の中、その男の顔を見た瞬間、肌が粟立った。気のせいなんかじゃない。あの男、確実に見覚えがある。
けれど、どれだけ記憶を探っても、その輪郭はぼやけ、霧の奥に隠れるように掴めない。でも、どこかで会ったことがあるのは間違いないのだ。
男が電車を降りた瞬間、僕の身体は勝手に動き出していた。気づけば改札を抜け、その背中を追っていた。
しかし、どうしようか――駅を出たところで、少し冷静さが戻ってきた。
本当に見覚えがあったのか? ただの記憶違いじゃないのか? 声をかける前に回り込んで、もう一度ちゃんと顔を確かめるべきか……。いや、そもそも見覚えがあったとして、なんて声をかければ――あっ。
男がふいに振り返った。僕は息を呑み、立ちすくむ。
どうやら向こうもこちらに見覚えがあったらしい。目が合った瞬間、男の表情が一瞬にして強張ったのだ。そして――逃げ出した。男は踵を返して走り出し、僕もまた反射的に駆け出した。
人混みを突き抜け、周りの視線も構わず追い続け、狭い路地裏へと追い詰めた。
「見つけたぞ!」
肩で息をしながら言うと、男は振り返り、ぎこちない笑みを浮かべた。
「な、なあ、人違いじゃないか……?」
「いや、あんただ……。それに、もしそうならなんで逃げた?」
「そんなの……そっちがいきなり追ってきたからだろ……」
「いいや、違うね。あんたは、ぼ……おれの顔を見て、先に逃げたんだ」
言葉にしていくうちに、確信がじわじわと腹の奥に根を張っていく。だが――
「本当にそうか? そっちの勘違いじゃないのか?」
「む、無駄ですよ。ごまかさないでください。確かに、あなたは私から逃げたんです」
……ダメだ。どうもしっくりこない。
「じゃあ、俺が何をしたか言ってみろ」
男がニヤリと笑った。僕は言葉に詰まった。今、一番言われたくないことだった。何があったのか、どうしても思い出せないのだ。
知っているのは確かなのに、その先が何も見えてこない。
「どうしたんだ? なあ?」
「うるさい……ちょっと待ってくれ」
焦りと苛立ちが渦巻くばかりで、頭の中はくすんだ白に染まっていく。記憶のページは破れ、文字は滲んでいた。
「まったく、言いがかりはやめてくれよな。迷惑なんだよ」
男が歩き出す。このまま行かせたら、一生わからないままだ。待ってくれ、待ってください、待てよ……おい……。
「じゃあな」
「待て……待てって言ってんだろうが! 殺すぞ!」
おれの声に、男の身体がビクリと跳ねた。背筋を伸ばし、凍りついたように立ち止まる。振り返ったその顔には、明らかな恐怖が刻まれていた。
おれだ、おれ……。やはり、こいつはおれに何かしやがったんだ。あの目、あの顔。間違いない。だいたい、人の顔を見て逃げるようなやつは、何かやましいことがあるに決まってんだろうが。あとは、そいつがなんだったかだが……。
「お前、おれから奪っただろ……」
おれは当てずっぽうに言った。心当たりはないが、『奪った』という言葉は万能だ。金か女か、地位か、あるいは何かを壊したとか、何にでも通じる。
すると、案の定だ。男の目が見開かれ、顔が引きつった。
「な、何を……? 何を奪ったってんだ?」
往生際の悪い野郎だ。苦し紛れに言ったんだろう。だが、またニヤリと笑いやがった。ああ、思い出せていないのが、おれの顔に出てやがったのか。クソッ、何で思い出せねえんだよ。イライラする。
「ふふっ、じゃあな」
男が背を向けた。行っちまう。この男がおれから何かを奪ったことは間違いねえのに……いや、そうか……ああ、そうだよ。これしかねえ。あああ、許さねえ、許さねえ。返せ、おれの――
「……それで、二人には面識があったって?」
「はい、刑事。被害者は、容疑者が入院していた病院の看護師だったそうです」
「『あの男がおれの記憶を奪った』……か。容疑者は入院時点ですでに記憶障害を発症していたんだろう?」
「ええ。意識も混濁していて、自分の一人称すらわからなかったそうです」
「じゃあ、奪われたってのも勘違い、いや記憶違いか。……だが、それならなぜ被害者は逃げたんだ?」
「ええ、被害者はどうも、患者の金品を盗んでいた手癖の悪いやつのようでして……」