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 男は立っていた。無音の部屋の中で立っていた。白い、丸い、何もない部屋。あるのは下へ下へと続く、手すりのついた螺旋階段。男は階段へ近づいた。

男は階段を降りていく。1段ずつ丁寧に。不思議と足音はしなかった。一寸先は不自然に暗く、一寸後も不自然に暗く、むしろ男の周りが明るいほうが不自然なほど、ただ暗闇に包まれていた。

 男は驚いた。何かを踏んだ感触がした。男は足元を確認する。そこには薄汚れた小さな服があった。今の自分には入りそうもない、小さな小さな小さな服。ところどころに穴が空いていて、何をされるでもなく放置されている。男は服を投げ捨てた。服はここから消えていった。辺りが少し暗くなった。


 男は階段を降りていく。歩き始めて数分経ったが、足は疲れていなかった。ただ男は飽きていた。このあまりにも単調で無機質な景色に。それでも男は降り続けた。それ以外には何もなかった。

 男は何かを見つけた。壁にいくつかノートが貼ってあった。黒いインクで汚されて、内容がわからないだけの普通のノート。1つを剥がしてよく見てみた。うっすらと、インク越しに足し算や引き算の式が見えた。もう1つ剥がしてよく見てみた。今度は歪な漢字が見えた。もう1つ、もう1つ。全部簡単な勉強だった。男はノートを投げ捨てた。ノートはここから消えていった。辺りが少し暗くなった。


 男は階段を降りていく。暗くなったのに目が慣れなくて、降りる速度は落ちていた。いつの間にか、階段には穴が空いていた。男の足より小さな穴は、ただそこに存在しているだけだった。

男は何かを倒した。それはゴミ箱だった。いくつも紙が入っていたようで、半分以上がこぼれている。丸められた紙の1つを拾い、広げてみた。沢山のバツ印の中に、ただ1つだけ丸があった。他の紙も広げてみた。たまにバツ印が減り、丸が増えたものもあったが、ほとんどが最初の紙と一緒だった。男は紙をゴミ箱に戻し、ゴミ箱ごと投げ捨てた。ゴミ箱と紙はここから消えていった。辺りが少し暗くなった。


 男は階段を降りていく。辺りがだいぶ暗くなって、男は何度が階段を踏み外しそうになった。穴は少しずつ大きくなり、いつの間にか男の足と同じ大きさになっていた。それはただそこに存在しているだけでなく、男が注意を払う対象として十分になった。

男は何かを蹴り飛ばした。それはタバコの箱だった。あやうく穴に落ちそうなそれを拾い上げると、周りにいくつもそれがあることに気がついた。拾い上げた箱をよく見てみると、それには銘柄が書かれていなかった。その代わりにあるべき場所に4文字のひらがなが書いてあった。他の箱も見てみると、同じように書いてあった。箱の模様はまったく同じで色だけが違うものや、よくよく見なければ同じにしか見えないものもあった。男はタバコの箱を投げ捨てた。タバコの箱はここから消えていった。辺りが完全に暗くなった。


 男は階段を降りていく。穴はもはや男を堕とすには十分な大きさになっていた。目をよく凝らさなければ周りが見えず、男は何度も立ち止まった。穴に右足を突っ込んで、堕ちまいと必死に引き抜いた。穴に左足を突っ込んで、堕ちまいと必死に引き抜いた。男の周りとそれ以外には、もう差はほとんどなくなっていた。

 男は完全に立ち止まった。足を動かすことなく数十秒間停止した。男は手すりに腰掛けた。どこまで続くかわからない、先の見えない穴を向いて。そして男は足を動かし蹴った。さもそれが当たり前であるかのように、男は身体を宙へ投げ出した。


 男は堕ちていった。重力に従って頭から。暗闇の中、感じる空気抵抗だけが男が墜ちていることを証明していた。何秒、何分、何時間。何日、何週間、何ヶ月、何年。長い長い時間が経った。突然周りが明るくなった。男は頭から地面に激突した。全身のあらゆる関節が、あらゆる方向にひん曲がった。それでも男は生きていた。ひん曲がった足で立っていた。

 蛍光灯で照らされた、白い、丸い、狭い部屋。その中に唯一、色のついたものがあった。1つの花弁は2センチほどの、薄い紫色の花。本物にしてはあまりに粗雑で、偽物にしては精巧だった。男はその花に近づいた。右へ左へふらつきながら、異様なそれへと迫っていった。そして男はじっと見つめた。茎を、葉を、花弁を、その全てをじっと見つめた。

 男は足を動かした。ひん曲がった足で踏み潰した。花は簡単に潰れた。蛍光灯が危険信号のように点滅し始めた。それでも男は踏み潰した。何度も、何度も、何度も、何度も。辺りが次第にぼやけていく。それでも男は踏み潰した。何度も、何度も、何度も、何度も。辺りが次第に歪んでいく。それでも男は踏み潰した。何度も、何度も、何度も、何度も。蛍光灯の明かりが消えていく。それでも男は踏み潰した。何度も、何度も、何度も、何度も。辺りは闇に包まれた。花はここから消えていった。

 世界が次第に戻ってきた。薄暗い、汚い、物に溢れた部屋。1つも光はありはしなかった。どこにも光は当たっていなかった。

男は立っていた。無音の部屋の中で立っていた。そして男は足を動かし蹴った。さもそれが当たり前であるかのように、男は身体を宙へ投げ出した。

男は二度と、地面に足をつけることはなかった。

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