カエルの子
今日だったな
中学への通学途中、かすれるような声でそんなつぶやきが聞こえてきた。
僕が顔を上げると、そこには白髪交じりの黒髪、黒縁の眼鏡をかけ、ダボダボのセーターを身に着けた初老の男性がいた。
彼は僕に気づき、こちらに笑顔ではなしかけた。
「きみ、それが気に入ったのかい」
突然のことで何かよくわからなかった。僕はいいえと答える。
「そうじゃないのか。てっきり君はそれをみているものかと思ってね」
そう答えるおじさんの視線の先には、一匹の干からびたカエルがいた。
アスファルトに仰向けでへばりつき、土に還ろうともがいているようにみえた。
「よくあることだからね。気にすることないよ。でも、きみのものじゃないよね。なら」
おじさんは僕にこう言うと、軽やかにそいつを地面と引き離し、ポケットにしまった。そして、自宅らしき立派な門構えをした木造建築の豪邸に静かに入っていった。
なんだったのだろう
その後、僕はおじいさんの事が気になって仕方がなかった。脳内の記憶は今朝の出来事に奪われてしまった。
授業中先生に叱られ、休み時間には友達にはそっぽを向かれた。皆に理由を問われたものの、僕は朝のことを言わなかった。言ってはならない気がしたから。
すっかり日も暮れ、星の輝きが現れた出した午後六時。僕は独りぼっちで自宅へと歩を進めていた。 いつもの通りを右に出ると今朝の家の前まで来てしまっていた。
今日起こったことは何だったのか。
僕はおじさんへの好奇心から家の中を覗き込んだ。しかし、家の電気はついておらず、人の気配もしない。
あの人はいないのだろうか。
淡い失望のなか、もう一度自宅へと歩を向けた。 ゲロッ、ゲロッゲロ
すると、どこからかカエルの鳴き声が聞こえてきた。
僕の足元にいたそいつは、ギョロっとした目をこちらに向ける。
なぜだかわからない。自然と心の中にはそいつへの親近感が生まれていた。
「どうも」
背後から聞き覚えのある声がした。今朝のおじいさんだ。
何かに後押しされたように振り向き、僕は軽く会釈をした。
「おやおや、どうも。今朝よりも元気そうで。きみも同じように… …。いや気にしないでくれ。きみはそれに興味があるようだね」
おじさんはカエルを指さし、さらにこう続けた。「きみにとっていい話があるよ。私はフロッグ教の人間でね、きみを待っていたのだよ。いや怖がることない。中で少し休んでいかないか。もちろんご両親の了解済みさ」
話し終えた次の瞬間、奴は僕の腰にするりと手をまわし強引に中に引き入れようとした。
なにか怪しい勧誘なのだろうか。
身の危険を感じた僕はクルッと体を一回転させ奴のもとを離れた。
「いや、何か気に障ることでもしたかね。わたしはご両親の了解を得ているのだよ。なにも怖がることない。家に帰ってもきみは一人さ。フロッグ教というのは… …」
話続けるおじいさんを無視し、家へ向かって懸命に逃げた。
この場に居ては何をされるかわからない。奴に抱いていた好奇心など、消えていた。もはやこれは悪夢である。
あっという間に着いた。いつもなら母が料理を作っている時間、だが電気はついていなかった。
「ただいま」
誰もいないのだろうか。物音ひとつしない。
暗闇での恐怖を初めて感じた僕の体は、小刻みに震えていた。
恐る恐るリビングへと踏み込み、電気をつけると、テーブルに一枚の付箋が見えた。
さとしへ
お母さんとお父さんは急用で戻ってきません。フロッグ教については知っていると思います。お父さんとお母さんが大変お世話になっているとこです。通学途中の大きなお屋敷、さとしも気づいていることだと思います。そこが私たち、フロッグ教の教会です。そこで大事な会合があります。
さとしは一目散に家を飛び出した。
もちろん向かった先はフロッグ教。
だが彼には、自分がなぜ走っているのかよくわからなかった。
再びあの門の前まで来ると、奴は黙って立っていた。
「やぁどうも。言ったとおりでしょ。まぁそんな怖い顔しないでおくれよ。とりあえず中に入ろう」 さとしは奴を鋭い眼光でにらみつけていたが、目の奥には恐怖や戸惑い、そして謎の好奇心もあった。 彼に願いがあったとするなら、両親を返してほしいということであった。
しかし、この場で冷静な判断ができるはずがない。
フロッグ教はなに。
彼はたった一言、乾いた喉から声を出した。
「あぁ、そのことか。きみはまだ何にも知らないようだね。まず、宗教ではない。勘違いしないでおくれよ。この地域の最後の砦だよ。フロッグつまりカエル様のことだが、この地域は昔一切雨が降らなかったことがあってね。作物が育たなくなり餓死する危険性があったというわけだ。そこで住人たちは雨に現れるとされたカエルという生き物を、遠く離れた地域から連れてきた。すると、翌日から土砂降りさ。これは知っているね」
男は淡々と答えていった。もちろんこの昔話はさとしも学校の授業で知っていたはずだ。
「どこにでもある昔話だからね。ではなぜフロッグ教ができたかだが… …」
男は急に黙り、中に入ることを促した。
さとしは男に促されるように入っていった。
先ほどのように逃げることだってできたはずだ。しかし、彼は両親を人質に取られ、家に帰っても孤独であることを考えればそうするしかなかった。警察に言っても聞いてくれない。そんな気さえしていた。
奴の家は真っ暗だった。ただ、家具の配置記憶しているのか、奴は手際よくリビングにさとしを案内した。そしてゆっくりソファーに座らせた。
奴もさとしの横へ座り、穏やかな口調で話し出した。
「どうもありがとうございます。続きについてですね。雨が降った日からちょうどひと月でしたか。カエルが姿を消しましてね。住民は大騒ぎですよ。雨が止まってしまうってね。しかし、翌日にはまた降ってきましてね。どういうことかわかりますか」 さとしはずっとうつむいており、聞いているのかさえ分からなかった。ソファーに手を置き泣いているようにも見えた。
「まぁ、分からないでしょうから説明します。カエルは人間を食らった。そしてその人間をコピーした。冗談ではありませんよ。本当の話です。その方がフロッグ教の生みの親ですから。それから、毎年カエルが人間に化けるというのが慣習になりましてね。そして五年後『効率よく人間を供給できる組織を』ということで設立されたのです」
奴はそう語ると、お茶を持ってくると言ってその場を離れた。
相変わらず、さとしはうつむいたままだった。静かに目を閉じ、どことなく笑っているようにも見えた。
「おまたせ。これおいしいから。そうそう、食われる人間には決まりがあってね。まず十代であること。これは『親』の好みだろうね。あとはカエルの血を持つもののであること。これはフロッグ教ができてからの追加事項だね。これは選びやすいからかな。
フロッグ教の皆会員はカエルの血を持っているんだ。そろそろ分かっただろう」
コップを手に取ったさとしを奴はじっと見つめ、大きくうなずいた。
さとしの両親は二人ともカエルの血を持っていた。しかも、二人とも食われた身であった。
フロッグ教にとって、カエルの純血は初めてであった。
さとしの誕生後、本人は知らなかったが、連日議会が開かれていた。生贄として捧げるべきかどうかである。
賛成していたのはもちろん彼の両親であった。息子も同じ種族になってほしかった、ただそれだけのことではあるが。
以外にも反対していたのは目の前にいる奴であった。
彼は伝統を重んじるタイプであったため、破天荒なことが起きてしまうと、大きな災いを生むのではないかと恐れていたのだ。
両親と奴の議論には幹部たちも加わり盛り上がりを見せていた。
そんな中、終止符を打ったのは一枚の絵であった。 さとしが小学六年生の時、夏休みの宿題で一匹のヒキガエルを描いたのだ。
両親に褒められさとしはとてもうれしかったが、彼らは別のことで喜んでいたのである。
反対していた奴も、その絵で力尽きてしまった。 ちょうど一か月前、さとしの捕獲計画案がまとまった。
さとしは静かに眠っていた。
奴のお茶が効いたのだ。
もう息はしていない。
彼は奴の話の半分も聞いていなかった。これから何が起こるのか何も知らないのである。 生まれてから十三年。フロッグ教に入るとは思っていなかっただろう。
私のフロッグ教の総裁の就任は、幹部会ですでに決まっていた。
無垢な少年が両親に褒められたい一心で、庭の草木に見え隠れする私を描いたことなど大人たちは知らないのである。
同時に、その時から私がずっと見張っていたことを彼は知らなかっただろう。
私は彼を食べることを躊躇していた。
ただ、食べないと奴は私をほかのものと変えてしまうだろう。
やはり彼は私しかいない。食っていいのは私だけだ。
彼の肩から動かずに止まっていると、奴は目で催促した。
舌で彼の頬を一度舐めた。
あたたかかった。
大きく口を開け彼の耳からわたしは食べ始めた。さとしとの一年を思い出しながら。
計画通り門の前で彼を待ちかまえていた時とても怖かった。彼の結末を知っているのだから。
顔はもう食べ終わってしまった。
下校時、わたしと再び出会った彼はあの時のことを思い出してくれたのだろうか。
こうなってしまったのはわたしのせいではない。 食べ終わった彼の腰には、奴の手のにおいがまだ残っている。
彼が走り出す直前、タイミングが合い飛び乗った。その時右肩はかすかに震えていた。
もうすぐ終わる。足先にはまだ汗が残っている。 付箋を読んでいる彼はひどく悲しい目をしていた。
運命について気付いていたのだろうか。こうするしかなかった。もう、後には引けなかった。
彼は跡形もなく消えてしまった。
残ったのはわたしのコピーした彼。
サトシであった。