狐の嫁入りの話(後編)
(ああ、覚えてくれていた……)
六花は純粋に驚いていた。
簡単に受け入れてもらえるとは思えなかった。
自分が無謀なことをしていることはわかっていた。『恩返し』なんてもちろん嘘だ。行き成り押しかけ嫁をしてきた自分を、相手が重苦しく思わないための方便だった。それでも、本気で拒否されたら大人しく帰るつもりだった。
あの日、初めて春水と会った時から恋をした。嘘のようだけれど本当の話だ。
狐の里に戻ってからも、なんとなく彼を忘れられなくて、何年もたってから、それが恋なのだと気付いた。
その日から、六花は春水の元へ嫁ぐことを決めて準備を初めた。
一族はこぞって反対したが二十年かけて認めさせたのだ。
彼はきっと知らない。今、幸せで胸がいっぱいで、泣きたくて仕方がないことを。潤む瞳は、角隠しの中でそっと涙となって落ちていく。小さな頃の小さな自尊心は泣くことを許さなかったけれど、今はそれを止められない。
「おいで、六花ちゃん」
春水は、優しく誘うように、手を差し伸べる。
鳥居の中から、外へ。
神の手が、優しく外にいる花嫁に向けられた瞬間、六花の角隠しに隠した耳が震えた。白無垢の打ち掛けに隠した尻尾が大きく振れた。白粉で隠した頬が真っ赤に染まった。表では、それは全て白に隠れて見えないけれど、ただ角隠しの合間から、黄金色に輝く濡れた瞳が春水を見据える。
その目からいくつもの涙がこぼれ落ちていた。昔は、ずっと堪えていた涙は、今は止めどなく流れていく。何か言いたげに唇は動くが、言葉にならないのか、わななくだけ。
けれど、言葉はなくても喜んでくれているのがわかるから、春水は自分の言葉に後悔はしなかった。
期せずして嫁が出来てしまったが、大切にしようと心はもう決まっていた。
伸ばされた春水の手に、ゆるり、と手が伸ばされる。
あの頃の小さな手は、随分と大きくなった。
それをあの頃とほとんど変わらない自分の手が重ねられた。
「いらっしゃい。可愛いお嫁さん」
しゃらん。
漆黒の髪を彩る牡丹を形作った簪が音を立てる。
花嫁は、白無垢の裾を丁寧にさばいて、一歩前に進む。
鳥居は、すんなりと花嫁を通した。
けーん!
先触れを司った狐が鳴く。
花嫁は無事、花婿のところに到着したと数多の眷属達に告げる。
ちりーん。
魔に穢されることなく花嫁を送り届けた鈴も、任務を全うしたことを誇るように、ひときわ高く澄んだ音をあげる。
傘持ちは、もう必要ない。
雨は止み、雲ひとつない紺碧の空に月が顔を出す。
鳥居の中にいるのは、花嫁ひとり。
嫁入り道具などはない。
その身ひとつで嫁に来たのだ。
愛しい夫に手を取られ、花嫁は花のような笑みをこぼす。
これにて狐の嫁入りは大成した。