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狐の仔の話(後編)


 後ろの茂みから大きな音がした。

 ハッと振り返る。目に映るのは、大きな黒い影。赤黒く焦げた光を背にしたそれは、覆いかぶさるようにこちらに向って黒い手を伸ばす。

 日はもうほぼ落ちていた。足下には闇が凝っている。


「きみ――」

「っっっ!!」


 夜に目覚めるあやかしが、ひととき早く動きだし自分を捕まえようとしているのか。ひくっと小さな心臓が大きく跳ねる。だが、怯え硬直するよりも先に、幼女は盛大にその足元を蹴りつけた。


「いってぇっ!」


 その瞬間、人のようなその声が静寂に響きわたり、六花は、小さな狐耳を振るわせ、ぱちくりと目を瞬いた。


「ふえっ?」


 これは一体なんなのか?

 目の前には貧弱そうな男が蹲っていた。

 よくよく見れば、自分の背後からやってきたのは、ひょろりと伸びた若木のような人の姿をしたものだった。青年というには、ちょっと年をいってるようだけれど、壮年というにはまだ若い。どこかくたびれた雰囲気がする人だ。

 それが足首あたりを押えて蹲っていた。もちろんそれは自分のせいだ。自分がそれの脛をしたたかに蹴ったために、どうやら痛みのために動けないようである。


「いったぁ……すっごく痛いよ、何これ」


 座り込んだまま、涙目でそう訴えている人の姿をしたそれは、どうやら恐ろしい化け物ではなさそうであった。

 かりに化け物であったとしても、六花でも倒せそうな気がする。

 でも、ちょっと怖いから何かされそうになったら、人のような二本足ではなく、四つ足で一目散に逃げようと決意したところで、うずくまったままの相手がこちらを見上げた。


「ちょっ、君、行き成りなに?」


 幾分か痛みが引いたようで、ようやくこちらに抗議の声を飛ばす。顔をあげてる男の顔は、怒っているのだが六花が震え怖がるほどの迫力はまったくなかった。

 だから、六花は逃げるのはやめた。やめて、その男をキッと睨みつける。


「ごめんなさい。でも、人攫いは間に合ってます」

「攫わないよっ!」


 きっぱりと拒絶すれば、あちらも即座に否定してくる。


「やれやれ、なんなんだよ、もう。もうすぐ夜になるのに小さな仔がいたから、心配して声をかけただけなんだがなぁ」


 腰を落としたまま、脛をさすりながら男はぼやく。

 どうやら彼は親切心で自分に近づいてくれたようであった。


「まあ、いいや。で、君は、どこの仔? こんなところで何をしてるの?」

「……不審者に不用意に自分の情報を与える気はありませんけど」

「いやいや、私は、不審者じゃないし。って、まあ、確かに名乗らないのは悪いよな。うん――私は、春水。で、君の名前は?」

「……六花です」


 名乗ってくれたのなら、こちらも名乗らないわけにはいかない。

 渋々ながら不審な男に名前を教えれば、何が嬉しいのかこちらと視線を合わせて、にっこりと笑みを見せた。


「六花ちゃんか。可愛い名前だね」

「変質者ですか?」

「えっ、ちょっ、違うよ! ただ名前誉めただけでしょっ!?」


 いきなり現れにこにこと笑いかける男に、六花がじっとりと疑いの眼を向ければ、誤解だと必死に否定する。そう言われても、こんな人気のない場所にいて、親しげに近づいてくれば警戒しない方がおかしい。

 先ほどまで不安で心細さで縮こまっていた心は、急に現れた人間にどう対応していいかわからず、ただただ警戒心だけが突きだしてくる。

 だって、おかしいのだ。

 人が、自分の姿を見て驚かないはずがないのだから。

 そう、目の前の人にしか見えない男は、狐耳と狐尻尾を持つ六花を見ても驚くことも怖がることもしていない。

 普通に六花に接してくるのである。 


「そんなに警戒しなくても大丈夫だよ?」


 そう言われても、警戒心が薄れるはずはない。

 毛を逆立てた猫のような様子の六花に、春水は困ったように眉根を寄せるが、視線は六花と合わせたまま優しく尋ねた。


「六花ちゃんは、こんなところでどうしたの?」

 

 怯えさせるつもりはないのだ。春水が六花を見つけたのはたまたまだった。

 今日の風はいつも以上に乱暴者で、周囲をなぎ倒す勢いで駆け回っていたので、何か被害がなかったか心配になって見回りにきていた。そこで、泣きそうな顔をした幼い子供を見つけたのである。

 幼いけれど、綺麗な仔だ。こんなところにいるような仔ではないことが一目でわかるほど、綺麗な毛並みに綺麗な気を放つあやかしの狐の仔だった。

 だから、心配して声をかけたのだ。

 春水が近づかなければ、茂みの闇に隠れて、そっとあの子を覗いていた数多の化け物達が、幼い狐の仔を食べてしまっていただろう。


「なんでもありません」


 けれど、春水の気遣いに対して、六花はツンと顎を突き上げ、素っ気なく返す。

 だって、素直に言いたくない。

 自分の失態で里に帰れなくなった、なんて正直には言えなくて――言ったところで、どうにかなるものでもないし――突き放したような言葉を選ぶ。それに春水と名乗った相手が、口では心配したから声をかけたと言っていても、こんな山にいる時点で怪し過ぎるし、何をされるか分からないから油断は禁物である。


「あなたこそ、こんなところで何をしているんですか。魑魅魍魎のたぐいなら近寄らないでください」

「魑魅魍魎だなんて失敬だな、君は。私は神様だよ。か・み・さ・ま! 君よりずっと偉い存在なんだよっ!」


 未だに地面に直接座ったまま、エヘン、と威張るように胸を張る相手。威厳なんてまったく見当たらない。けれど、その言葉を聞いて、『やはり』と思った。こんなところに人がいるのはおかしい。何より人が狐のあやかしである六花を見て、何も反応しないはずがない。だから、人ではなくて、神と名乗っても納得はする。するけれどもーー。

 六花は、春水を上から下まで観察する。

 彼は、神と自称するが――。


「神様ですか?」

「そうだよ」


 きっぱりと宣言されるが、六花は疑いの眼で春水と名乗った男を見上げる。


「でも、貴方は薄汚いです」

「うっ……それは……」


 ずばりと指摘すれば、春水の眉はへたりと垂れ下がった。

 それは本人も分かっているのだろう。

 春水という神が着ている衣は、どうみても随分と古びた着物だった。

 元々は鮮やかな翡翠色だっただろう着物は、この寒空の下単衣のままで随分とくたびれあせており、抹茶のようなくすんだ緑になっている。袖口のところには綻びまであった。

 六花の知っている神は、いつだって綻びひとつない美しい衣を幾重にも身に纏っていて、綺麗に整われていた。目の前にいるようなボサボサの髪にぼろい衣を着ている神など見たことはない。

 そう指摘すれば、悲しそうに自称神は、しゃがみこんだままの身体を、さらに小さく丸めこんだ。


「仕方ないんだよ。だって私の家ってあんな山の中だからね」


 春水が見上げ指さす先には、すぐ目の前にある小高い山だった。

 とても綺麗な山だと、先ほど見惚れた山だ。いったい誰が住んでいるのだかと思ったら、この男だったとは。

 なんだか、ちょっとだけガッカリしてしまう。


「お山の中に社があるから、冬の今時期は参拝者が少ないんだよね。はぁ〜あ」


 ため息交じりで、ぼやかれる。

 確かに立地が悪過ぎた。

 ここは人里から少し離れている。わざわざここまで参拝するにはかなり骨が折れるはずである。それでも――それでも彼は、神として存在している。その姿を保ち、神域から出れるのも、未だしっかりと祀られている証拠であった。

 事実、多少離れているとはいえ、近隣の里の人たちは春水のことを忘れてはいなかった。頻繁に来れないだけで、山の恵みを存分に与えてくれる神への畏敬の念は薄れてはいない。

 ただ、やはり山の恵みの少ない冬の時期は参拝者の数はぐっと減り祈りの数も少なくなる。それは、春水の姿にも現れてしまっていた。

 だが、春になればまた違う。

 若芽が芽吹く頃になれば、多くの人達が山に入り、多くの恵みを手に春水へ感謝の祈りを捧げてくれる。

 祈りは神の力となり身なりもまた変えていく。だからこんな姿なのもの今だけだよ、と強調する春水にそれでもまだ疑わしそうな視線を向けた六花に、その冷ややかな視線にもめげず春水は立ち上がると、気を取り直したように六花に向かって手を差し出した。


「ま、それはいいとして、私の社においで」


 自分よりも大きな手をちらりと六花は、視線を向ける。キュッと唇を引きしめてから、ぽそっと呟く。


「……かどわかしですか?」

「いや、だからどうして、そんなに私を不審者にしたいわけ? 違うよ。ここは寒いから社の中においでってこと。あったかいお茶を飲もうよ」


 柔らかな声。

 優しい口調。

 別に六花は、もう彼を本気で不審者だとは思ってはいない。話してみれば、彼の態度や表情を見ていれば、自分を気遣っているのだということは良く分かる。けれど、そうして突っ張っていないと、泣きそうだった。そうして今は、大人に保護されるという安寧に泣きそうだった。

 だって、本当はとても恐かったのだ。

 初めての外の世界。初めての町のお散歩。たくさんの初めてを楽しんで浮かれて、ふわふわと膨らんだ気持ちは、けれど狐面を無くした瞬間、パンッと音立てて消え去った。

 小さな子供のように――実際、小さな子供ではあるけれど――ぼろぼろ泣いてしまうなんて恥ずかしいと思ってしまうほど、六花は大人びた子供だった。だからだろう、彼に温かな笑みを向けられると、感情を押し殺そうと唇をキュッと引き締めてしまう。


「お茶飲んだら、どうする気ですか。そんなもので懐柔なんてされてあげませんよ」


 突っ張ったままの六花に、けれど春水は気にせず告げる。


「お茶を飲んだら、君の家まで送ってあげるつもりだよ。いいよね?」

「えっ?」


 思わぬ言葉に六花は驚いたように目をぱちくり、とさせた。

 思わずぼろり、と瞼の縁にたまっていた水がこぼれ落ちる。

 だけど、それを拭うのも忘れて、六花は春水を見上げた。


 家に帰れる?


 あたりはもうすっかり暗くなっている。帰ると約束した時間は、とっくに過ぎていて、きっと里の者も心配しているだろう。早く家に帰らなければいけない。でも、帰りたくても帰れない。道はわからないままなのだ。

 大切な狐面はなくしたまま。迎えが来なければ帰れない。その迎えとて、自分のいる居場所が伝えられないのだから、いつになるのか分からない。

 それなのに春水は、六花に手を差し出したまま気軽げに言う。


「もう暗いからね。お茶で体が温まったら君のお家まで送ってあげる」

「あなたは、道がわかるんですか?」

「これでも私は神様だからね」


 茶目っけたっぷりに片目を瞑る。


「泣いてる迷子の仔狐を送り届けるぐら――いてっ!」


 無言のまま、足の脛を蹴りあげた。もっとも、前よりは随分と軽く蹴っている。手加減してあげた。


「な、なに? 何事!」

「泣いてません」

「えっ、だって……いたっ!」


 反論は許さず、同じ箇所を蹴る。

 一粒耐えきれずに零れ落ちたものの、その後目尻で止まっていた涙は、蹴った瞬間、どこかに消えた。眦釣り上げ、キッと睨む。


「迷子じゃありません」

「いやっ、だって君……いつっ!」


 三度目の蹴り。威力は少しずつ落としてある。


「泣いていないし、迷子でもありませんっ!」


 涙は、目を大きく見開いたから乾いた目を潤すために出たものだし、家に未だ帰ろうとしないのは無くした面を見つけていないからだ。別に泣いても迷っているわけではない……たぶん。だから、そんな風に決めつけられるのは心外である。

 ズキズキ鈍い痛みを放つ脛を腰を折り曲げさすり、春水はふぅ、とため息をつく。どう見ても、目の前の仔は、迷子だし、泣いていたのだけれど、どうやらそれを指摘するのは禁忌のようだ。


「そ、そうなの? それじゃあ、ひとりで帰れ――ううん。やっぱり後で一緒に行こうか」


 言葉の最中で、ギュッと春水の袖を強く握る小さな掌。だから、途中で言葉を変えた。夜道にひとりは、自分でも心細い。この意地っ張りな小さな仔は、それを口にはしないだろうけれど、握られた裾に込められる力が雄弁に語る。

 なんて可愛らしいーーなどと口にしたら、きっと先ほど以上の威力で脛を蹴られるだろうから、その言葉はしっかり飲み込んだ。

 月明かりしかない木々の下。袖の隅を握られた手の上から自分の手を重ね、そのまま包み込めば、安心したように緩む指先の力に、こちらの口元が綻ぶ。


「今日は月が綺麗だからね、私もちょっとさんぽしたい気分だから、後で君も付き合ってよ」


 いつのまにか荒々しい北風が残っていた重たげな雲を吹き払っており、雲ひとつない綺麗な夜空が現れていた。東の空から昇ってきた月は、煌々と輝き辺りを照らしている。散歩には少し寒いけれど、柔らかな月の光に包まれた世界は幻想的で美しい。

 春水は、袖の上から包んだ手を離さないまま繋ぎなおした。それを六花はふりほどかない。


「しょうがないのでしばらく付き合ってあげてもいいですよ」


 ツンとそっぽを向き、いささかぶっきらぼうに告げる言葉に、春水は思わず笑いがこみ上げるが、もちろん笑えばまた脛への攻撃が始まるだろうから、そこはぐっと我慢する。


「うん。お願いするよ」

「仕方ないですね」 


 神の言葉にあやかし狐の仔は、あらぬ方向を見たままそう応える。けれど、その耳はぴくぴくと震え、尻尾は大きく振られている。頬は真っ赤に染まっている。感情が隠しきれてないけれど、それはもうご愛敬だ。春水は、何も見なかったーーそう通すだけ。


「じゃあ、行こう」

「はい」


 だから、そのまま手をつないだままーーさらさらと銀粉落ちる月夜の下で、小さな狐と小さなお山の神は、仲良く並んで歩きだした。



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