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狐の仔の話(前編)


 それは黄昏刻。


 ざあぁああああああああああああ。


 風が走る。

 曇天の北方からやってきた冷たい冬将軍の息吹である。

 身を切るようなその風は、すでに葉が落ち無骨な枝だけの姿となった木々達の隙間を無理やりすり抜け走り去っていく。それは無頼者の剛腕の先にある野太い両の手に等しく、木立の合間に立っていた幼い少女をも脅かした。


「やッ!」


 咄嗟に小さな手を顔にあてる。けれど、遅かった。


 ごぅぅぅっ。

 

 唸るように渦巻き過ぎ去る無慈悲な風は、小さな六花の小さな顔に張りついていた小さな面を、無残にもはぎ取っていった。白地の面に黒墨と朱墨で彩られた狐面。それが無情にも指先を掠め、ぶわっ、と吹き荒ぶ風により遥か彼方に巻き上げられた。


「待って!」


 白い息の塊が大きく吐き出される。くるりと大きな黒い瞳を見開いて回して、その行方を追う。小さな足を爪の先までめいいっぱい伸ばし、短い手の指先を思い切り伸ばす。

 だが飛ばされた面はくるくると回りながら、まるで綿帽子のごとく空の彼方へ向かっていく。必死に伸ばした六花の手に触れることなく、無頼の風と共に見る間に視界からそれは遠のいていった。


「うそっ……」


 面を剥がされ、飛ばされ、行方しれずとなった幼女の顔が大きくこわばる。冬の冷気ではなく不安で、ぶるり、と身を震わせた。


「どうしよう……どうしよう……」


 あの面は大事なものなのだ。決して失くしてはいけないもの。

 形はありふれた狐面であったが、祭りで売られるような他愛のない玩具ではなかった。それを失うかもしれないという恐怖で、六花の頬は、色を失い青ざめていく。


「あれがないと……」


 その後に続く言葉が喉から出ない。言葉にすれば本当にそうなってしまいそうで、恐くて口に出せない。きゅっと口の端が堅く結ばれる。だが、心の中ではその言葉だけで埋められていた。


(――帰れない……帰りたくても帰れない)


 六花にとって、その面は、必要不可欠なものだった。

 なぜなら六花は、人ではなかった。

 人のような姿はしているが、耳は頭上近くに狐のように大きな耳を持ち、尻には、狐のようなふさふさの尻尾がついていた。

 獣ではないが、人でもない。

 六花は、狐のあやかしだった。 

 それゆえに飛ばされた面は、大切なものだった。

 幼い子の脳裏に、執拗に告げられた言葉がよぎる。

 初めて人里へ降りることを許された仔のために、六花の里の長老より授けられた言葉だ。


『良くお聞き、未だ幼い我が眷属――その面を外してはならないよ。ぬしはまだ幼く、我らが眷属といえども力足りず、何よりその身の在り処が定まっておらん。全き脆弱な存在だ。けれどその面は、ぬしの力となり、印となり、導となる。それがぬしの姿を定める唯一の物となる。それさえあれば、ぬしはぬしとして変わりなく、ここへ戻れるだろう。ゆえに、それを決して外してはならんぞ。良いな。我らが眷属たる愛しき仔よ――ゆめゆめ忘るることなかれ』


 刻みつけられた記憶は、ざわりと怪しく胸を掻き乱す。

 狐面は、妖狐の大人達が作ってくれた妖具だ。六花だけでは足りないあやかしの力を補ってくれるもの。だから無くさないように気をつけていたつもりだった。けれど、あまりにも急だったのだ。冬将軍の力はあまりにも強く、自分を襲った風は、瞬く間に大切な物をはぎ取り共に過ぎ去った。

 追い掛けようともしても、未熟な手足では、無頼な風の衆に追いつけるはずもなく、ただ、無念にも大切な面が虚空に吸いこまれる様を見届けるしかなかった。

 もうどこへ行ったのかわからない。姿形は行方しれずだ。


「……どうしよう」


 ぽつり、と一人残された六花は呟く。

 狐面がはぎ取られた後、そこにいるのは小さな幼女。

 白毛の狐耳と白毛の狐尾を生やした人の子に良く似た異形の仔。

 カァカァと無粋な烏が呑気に鳴きながら、お山のねぐらへと迷いなく帰っていく。それを見つめる幼いその顔は途方にくれている。


 面がなければ帰れない。

 帰り道が見つけられない。


 あれは妖狐の幼子にとって、隠れ蓑であり道標であり手形なのだ。面を付けていれば、人の子に見えるし、帰り道が見えるし、同族である証になる。それなのに大事な大事な面を無くしてしまった。

 琥珀色の瞳は、朝露のように濡れていた。

 頭の両脇についた小さなとんがった耳とお尻についた小さなふさふさの尻尾が力を失い、どこまでも垂れていく。


 人として紛れ込むにも、この耳と尻尾が異形になる。

 獣として潜り込むにも、この顔と身体が異質となる。


 大人ならば、面などなくても人にも獣にも如何様にも化けられるものを、幼い自分には人にも獣にもその身を変えられない。

 本性たる狐の姿さえなれないのだ。

 日が沈む。周囲はじわり、と闇に飲まれていく。

 幼い狐の仔は、ただ立ち呆ける。

 その間に、じくり、と足元に暗い影が滲み、這い上がってきた。

 ゆるりと昼夜は逆転し、世は夜となる。秋も終わりをつげ、冬が訪れた山は、あっという間に凍えるような冷気が漂う。吐く息はさらに白く凝り、小さな手の指先は、寒さで白み、かじかみ上手く動かない。


 どうすればいい。

 わからない。


 聡い仔だと、賢い仔だと、里の者にちやほやされてきたのに、同じ年に生まれた仲間の誰よりも早く狐面を与えられ、人の世に顔を出す許可を与えられたというのに、このありさまだ。

 心細さに鼻の奥がツンとする。

 潤む瞳は、そろそろ大きな固まりとなってこぼれ落ちそうなほどである。

 けれど、泣けない。情けなくて泣きたくない。幼い仔とて自尊心はあるのだ。

 それでも不安はますます募る。黄金色の瞳が何度も瞬きを繰り返す。闇に染まらぬ白色の尻尾がひとつ、大きく上下に揺れた。

 これからどうすればいいか、考えなければ。

 幼い小さな胸がドキドキしだす。

 もうすぐ夜が来るのだ。

 それは無防備となってしまった仔にとって、獰猛な獣の牙の前にその身をさらすのと変わらぬほど恐ろしいものだった。

 夜が来る前になんとかしなければいけなかった。

 ここは、人の気配が薄い山中である。人に迫害されずに残っている化け物達が、そこかしこに存在する。夜になれば、それらが力を持って這い出てくる。幼いあやかしの仔が、他の化け物にとっては餌にしかならないことを賢い子供は知っていた。

 それならば、人里に駆け込めばいいだろうか。

 いいや、それもまた、幼いあやかしにとっては、危ういものだった。

 人の子供と見た目がなんら変わらなければ、迷子として庇護してもらえるだろう。暖かな家に一晩泊めてもらえることもあるだろう。だが、六花の耳は、狐と同じ耳があり、六花の尻には、狐と同じ尻尾がある。明らかに異形の姿のそれは、人にまぎれることは出来ない。

 力のないあやかしが、人に捕まればどのような目にあうかは、里の大人達に、こんこんと教えられていた。かつての同胞がどのような目にあってきたか――死よりも惨い辱めや残酷な行為の数々――幼い子供が同じような目にあわなうように、事細かに教えてくれたのだ。


「くしゅん……」


 冷たい風が首筋をくすぐり、六花はくしゃみをする。気付けばあたりは真っ暗になり、冷え込みは一段と厳しくなった。人の子と同じように綿を入れた袷の着物に、母がこの冬に合わせて作ってくれた梅柄の半天を着込み、足下は足袋で覆っている。それでも足先は氷のように冷たくなっている。

 森の中で立ちつくしていても、寒さはしのげない。その上、他の化け物達もぞろりぞろりとねぐらから這い出して来る頃である。

 どうしようかと周囲をめぐらした六花は、ふと視線が一点にとまった。そこには、小さな山が一つあった。


「……きれい」


 今まで全く気がつかなかった。

 初めての町にほんの少しだけ羽目を外し過ぎて、帰る時間が間近に迫っていた。そのために帰り道を辿るのに必死で、それが目に入ってなかったのだ。

 なんでもないどこにでもあるような小山である。里の山にくらべたら、憐れなほど貧相な低い山だ。それでもそれはキラキラと輝いてみえた。中腹辺りに小さな赤い鳥居がぽつんと見えた。その前には階段があり下へと続いている。山の入口は、ここからそう遠くはなさそうである。


(誰が守っているのだろう……)


 あれだけ綺麗な山だ。

 きっと丁寧に祀られている神がいるのだろう。

 清浄な気にすっぽりと覆われている。木々達は、すっかり葉を落としているものの、その逞しい枝は山を守り、神を守っている。


 あの中に入れれば……。


 一晩でいい。

 許可を得て中に入れてもらえれば、獰猛な妖怪の脅威から逃れられる。一晩経てば、里の者も心配して探しに来てくれるだろう。

 一筋の光明。

 幼い狐の仔は、急くように見惚れた山に足を向けた。

 その時――。


 ガサッ。


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