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一緒に行こう、あの雲の向こうへ  作者: おぐら あん


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3-1

― 3 ―


 リュウナは緊張でかちこちになっていた。

 シャイラーンがいつか言っていた通り、リュウナは護衛官として働き始めて間もなく、マリシュ姫付きの護衛に任命されたのだった。リュウナの仕事は、城内の侍女たちと共に生活し、常に姫の身の回りにいて、その身を護ると言う大役だった。何故そのような大役が新人のリュウナに申し付けられたかと言うと、他に女性の護衛官がいないためであった。姫の身近に護衛を置きたいと言うのは王の以前からの希望でもあり、リュウナはそのために任用されたと言っても過言ではない。いずれにしても自分の希望が早くも実現したリュウナは、天にも昇る気持ちだった。侍女としての行儀作法を一週間のうちに叩き込まれ、今日、初めて姫と顔を合わせるのだった。

 支給された服は侍女と同じもので、ひらひらした服を着慣れないリュウナにとってはそれが一番の緊張の素だった。裾がひらひらと長すぎて、一歩ごとに踏んで転びそうになる。

「いやねぇ。あんた、今までどういう教育を受けてきたの?」

 マリシュ姫に遣えて二年と半年ちょっとを過ぎたと言う侍女のフーリヤが、くすくすと笑った。

「よく侍女になれたわよね」

 リュウナが姫の護衛官であると言うことは、侍女たちにも知らされていなかった。いつ誰が姫の命を狙っていて、どんなことが起こるかも解らないことからの配慮であった。リュウナ自身の口からも、それを他者に明かすことは固く禁じられており、実際どれほどの人間がリュウナの存在を知っているのかさえ解らないのであった。

 リュウナはフーリヤの言葉に曖昧に笑って見せた。やっとの思いで姫の部屋の前までやってきて、リュウナは大きく深呼吸した。

「姫様。フーリヤでございます」

 ノックをしてから、フーリヤが声を上げる。

「お入り」

 中から短い返事があって、フーリヤと、それに従ってリュウナが部屋に入ってゆく。

 マリシュは、私室の真中に置かれた寝椅子に横になっていた。まだ起きたばかりなのだろうか、不機嫌そうに眉間に皺を寄せて、瞼は閉じられたままだった。

 リュウナはマリシュの姿に、ただ息を呑むばかりだった。

 明るい金の巻き毛が、小さな顔を取り巻いていた。まだ櫛を入れていないせいか、ふんわりと広がっているとはいえ、それは全くだらしなくもみっともなくも見えなかった。筋の通った小さな鼻に、やや小さ目の、ふっくらと柔らかそうな唇。肌は透き通るように白く、リュウナの瞳には病的に映った。お人形みたい、とそっと溜息をついて、リュウナはただマリシュに魅入っていた。

「何なの? いつもよりも早いんじゃなくて?」

 マリシュは明らかに不機嫌な様子で、僅かに身体を起こして侍女を見やった。フーリヤは恭しく頭を下げた。リュウナも従う。

「新しい侍女を紹介に上がりました」

 フーリヤの言葉に、リュウナが半歩前に出た。

「リュウナと申します」

 緊張のあまりリュウナは声が震えそうになったが、何とかそれを抑え、もう一度きちんとお辞儀をしてマリシュの言葉を待った。マリシュはさも面倒そうに瞳を向けた。金色の長い睫に縁取られた、海のように深く透き通る碧の瞳。

「……礼儀を知らない娘ね。そんな風にじろじろと人の顔を見つめるものではなくてよ」

 そう言うと、マリシュはつんと顔を背けてしまった。

「申し訳ありません、姫様。まだ教育を受けて日が浅いものですから」

 フーリヤは慌てて姫に詫びると、リュウナにも詫びるように目配せした。

「申し訳ありません。――あまりに姫様が、お美しいものですから……」

 リュウナはしどろもどろになりながらもやっとの思いでそこまで言うと、深々と頭を垂れる。

「美しいのは当たり前でしょう?」

 マリシュはのんびりとした動作でやっと寝椅子から立ち上がると、鏡台の方へ歩いていった。

「そんなことはよいから、こちらへ来て手伝って頂戴」

 鏡台の前に置かれたスツールに腰掛け、マリシュはリュウナに声をかけた。

「はいっ!……ただいま」

 リュウナが急いで歩き始めようとするところへ、フーリヤがそっと耳打ちした。

「任せたわよ。――しっかりね」

 リュウナはフーリヤにきちんと頷き返し、マリシュの許に歩み寄った。

「……」

 マリシュは興味深げに鏡越しにリュウナを見つめた。リュウナはどぎまぎしながら、ブラシを手にとった。

「えと……御髪に櫛をお入れしても?」

 リュウナが控えめに問いかけると、突然マリシュが弾かれたように笑い出した。

「お父様から聞いていてよ。貴女、護衛官なんですって?」

「……ご存知でいらっしゃったのですか?」

「ご存知も何も……いいわ、櫛を貸して頂戴」

 マリシュはリュウナの手からブラシを奪うと、自分で髪を梳かしながら喋り始めた。

「お父様がね、いつでも身の回りにいられるように、女の護衛官を任用することにしたから、って。どんな子が来るのかと思ったら――、とても侍女に見えやしないわね、貴女」

 なおもくすくす笑いながら、マリシュは言葉を続けた。

「まずは身のこなしを覚えることね。それから……本当に武術の使い手なの? 身体のバランスが悪いったらないわね。それに、なんだか侍女にしては貧相すぎてよ。もう少し身だしなみに気を遣わないと、すぐにばれてしまうわ。言葉遣いだって怪しいところばかりだし、いっそ護衛官だって言ってしまった方がよくないかしら?」

 生き生きと話し始めたマリシュの頬にはほんのりと赤みが差し、息を吹き返したかのようだった。リュウナはただぼんやりと鏡の中のよく喋る姫様を見ていた。

「私、自分の面倒くらい自分で見ることが出来てよ。髪を梳くのは好きなの。髪を梳いて顔を洗ったら、着替えを手伝って頂戴ね。貴女――リュウナ、だったわね? リュウナにだってそれくらいはできるでしょう?」

「も……もちろんですっ」

 リュウナは胸を張って答えると、マリシュの衣装箱に向かった。一気に緊張がほぐれたためか、さっきまであんなに気にしていた裾のことを忘れてしまい、思い切り踏みつけて転んでしまった。派手な音と共に。マリシュが驚いて振り返ると、リュウナはマリシュの面前であることも忘れて、長い裾に思う様悪態をついているところだった。

「全く! 侍女ってどうしてこんなひらひらを着なくちゃならないの! うっとうしいったらないわ!」

「……しばらく退屈しなくてすみそうね。まずは歩き方の練習が必要かしら?」



 リュウナが侍女としてマリシュに遣えるようになってから、もう半年ほどが経っていた。その半年の間は、ごく平穏な毎日の繰り返しだった。リュウナの侍女ぶりもすっかり板につき、マリシュは満足げに頷きながら言ったものだった。

「私が自ら行儀作法を教え込んだのは、貴女が初めてよ、リュウナ。光栄に思うことね」

 そう言われる度にリュウナは、消え入ってしまいたい気持ちになった。

「だってマリシュ、あたしは武術以外のことはなーんにも知らずに生きてきたのよ? ここにいる他の侍女たちのように振舞える訳がないじゃない」

 二人きりでマリシュの私室にいるときは、お互いに友人のように振舞うようになっていた。それを求めたのはマリシュであり、最初こそ恐れ多くて物も言えない、と言う様子だったリュウナも、それが当たり前になってしまったのに自分でも驚いているのだった。他の侍女たちや王宮に仕える者たちは、あまりにリュウナがマリシュと過ごす時間が多いので、非難がましくリュウナに注意を与え、あるいは皮肉な言葉をナイフのように投げかけられたこともあった。

「そんなことへっちゃらよ。あたしはマリシュの護衛官なんですもの。他の侍女といっしょにされる方が迷惑だわ」

 リュウナが心持ち顔をつんと上向けて言うと、マリシュはころころとよく笑った。マリシュには気儘で怒りっぽいところもあり、さっきまで涙を流さんばかりに笑い転げていたかと思うと、急にむっつりと不機嫌に黙り込んでしまうこともあった。

 それでもリュウナは平気だった。マリシュの育った環境を思うと、マリシュは『世界一満ち足りた不幸な姫様』だった。何もかもをそのほっそりとした両の掌に、それこそ溢れるほどに持ち合わせてはいるが、本当にマリシュが求めているものは、その掌には載っていないのだから。

「人間、いざって時には自分を護れるものは自分だけなのよ。武術を学び始めたのは、お父様が自分の身を護る力をつけて欲しいと仰ったからよ。……まだ十にもならない頃にね。師匠は厳しかったけれど、その厳しさが温かかったものよ。――十六になって、それがやっと解ってよ。今でも月に二、三回、お稽古に来ていただくのだけれど、師匠もお歳を召されたせいか、――それとも私が大人になってきたせいか、実際にお手合わせを願うこともすっかり少なくなってしまったわ。……リュウナ、ちょっとお手合わせを願えないかしら?」

 マリシュは静かに立ち上がると、あっと言う間に下着姿になってしまった。少しでも動きやすいようにと思ってのことだ。リュウナも元気よく立ち上がると、同じように下着姿になった。

「/お手柔らかにね、リュウナ」

 マリシュはそう言った瞬間から、真剣な目つきでリュウナを睨みつけ、構えを取った。リュウナは内心でそのバランスのよさに感心しながらも、やはり構える。マリシュが先手を打ってリュウナに躍りかかった。リュウナにはマリシュの切れのいい身のこなしが、昔の自分の姿とだぶって見えた。リュウナも真剣に技を返し、仕掛け、身を躍らせる。

 二人は暫く、掛け声と共に真剣に互いに向かっていた。やがてマリシュが構えを解き、肩で息をしながら笑った。

「リュウナには、かなわないわ。……さすがね」

 一方リュウナはほとんど息を乱すことなく、静かにマリシュに答えた。

「それだけ動ければ、痴漢の四人や五人、簡単に打ち負かすでしょうよ。あたしが保証するわ」

「護衛官様の保証付なら、安心なことね」

 そう言ってマリシュは朗らかに笑った。

「汗をかいてしまったわ。着替えないといけませんわね」

 リュウナはわざと侍女ぶってマリシュに声をかけた。

「その前に簡単な湯浴みの準備をさせますから、姫様はガウンをお召しになって、こちらに掛けてお待ちくださいませね」

 リュウナの侍女ぶりに、マリシュは心からおかしそうに笑った。

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