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「お世話になりました」
リュウナはぺこりとお辞儀をした。シェドが満足げに頷き返す。
「まだまだこれからだ。頑張れよ」
シェドはリュウナの肩をぽんと叩いて、それからリュウナの手をしっかりと握った。
「はい!」
リュウナはいつかのようにきらきらと瞳を煌かせた。
厳しい寒さの峠も越えて、昼間には往来の雪が溶けてぬかるむ季節がやってきた。どこの農家でも種まきに向けて、畑に灰や粉墨を撒き始めた頃に、リュウナの許に真っ白な上質の羊皮紙で作られた合格証書が届けられた。リュウナはそれを手に、シェドの自宅を訪れていた。
「長かったな」
シェドがしみじみと言った。
養成所の試験は年が改まる前に行われた。それから採点と評議が行われて、結果が出るまでに二か月ほどかかる。何しろ受験者数が多い上に、一人ずつ実技試験もあるのだから、全員の試験が終わるのにさえまるまる一ヶ月を要するのだ。メルリ村のような国都から離れた所だと、郵便が届くまでに五日はかかるのに、冬だとその倍は覚悟しておかねばならない。試験のためにリュウナとアドルがガゼルアに行き、三日間の日程を終えて村に戻ってから、三か月近い月日が経っていたのだった。試験の際に付き添いとして共にガゼルアに赴いたシェドにとっても、長い月日だった。
「アドルはどうだったんだ?」
ガゼルアからの郵便物が届いたのだから、アドルへの通知も既に届いているに違いない――そう思い、シェドは尋ねた。
「……それが」
リュウナはやや大げさとも思えるくらいに、大きく肩を落として見せた。シェドは黙って妻のミカルが運んできた茶を啜った。そこでミカルは力なく俯いているリュウナの横顔を見ると、くすっと笑った。
「――何がおかしいんだ?」
咎めるような口調でシェドがミカルを振り返る。なおもミカルは笑っている。リュウナは俯いたまま肩を小刻みに震わせていた。
「リュウナの気持ちも考えて――」
「あはははは……!」
シェドの言葉をさえぎるほどの大声でリュウナが笑い出したのを見て、シェドはやっと気がついた。
「お前――」
なおも笑い続けているリュウナを横目に、ミカルが言った。
「リュウナの顔を見て、おかしいと思わなかったの? わたし、すぐに解ったわよ」
「ごめんなさい、師匠。ちょっと悪戯してみたかったの」
リュウナは舌を出して見せた。
「アドルも合格しました。補欠だけど。今ごろはディグナム師匠のお家に伺っているはずです」
「まったく。くだらない悪戯をして」
それでもシェドは機嫌よく笑っていた。とにかく、二人とも試験に通ったと言う事実がシェドを陽気にさせたのだ。しばらく三人は試験のことやこれからのこと、くだらない世間話などをしていたが、ミカルが茶のお代わりを淹れようかと立ち上がりかけたところで、リュウナが暇乞いをした。
「これから準備もあるので、そろそろ帰ります」
ミカルはリュウナを引き止めたようとしたが、無理強いはできなかった。養成所に入学するのはもう来月。寄宿舎に入ることになるとはいえ――故郷が遠い者たちのために、専用の寄宿舎が用意されているのだ――、準備と、それから国都までの旅程を考えると、四、五日中にも出発しなくてはならないのが、ミカルにも解っていたからだ。
「それじゃ。本当にいろいろとありがとうございました」
リュウナは戸口で、もう一度深々とお辞儀をした。それから決意のこもった眼差しでシェドを見つめた。
「あたし、絶対姫様の護衛になります。頑張ります」
シェドは黙って頷いただけだった。
「ミカルさん、いろいろとお世話になりました」
「いいえ。何度も遊びに来てくれて、楽しかったわ。頑張ってね」
「はい」
リュウナはそう言うと、シェドの家を出た。途中何度か振り返って、大きく手を振った。リュウナを見送ってしまうと、ミカルは寂しげに呟いた。
「受かってよかったけど、寂しくなるわ。あんなにわたしを慕ってくれたの、あの子が初めてだったもの」
「そうだな……」
シェドももうそれ以上は言葉もなく、静かに奥に入っていった。
「これからはくだらん冗談なんか言ってるヒマはないんだからな。しっかりやるんだぞ」
「はーい」
気の抜けた返事をされて、ディグナムは苦笑せざるを得なかった。
「でも、何で解っちゃったの?」
アドルが問うと、ディグナムは軽くアドルを睨みつけた。
「今まで何度お前の嘘や冗談や悪戯に付き合わされたと思ってるんだ。解らないはずないだろう?……それにな、お前はともかく、リュウナが落ちる訳がない」
先ほど、アドルはディグナムにリュウナの結果を問われ、がっくりと肩を落として見せた。リュウナがシェドにして見せたように。が、ディグナムには通用せず、ばかな悪戯はよせ、の一言で終わってしまったのだった。
「そっか……おれ、悪戯ばっかしてたもんなぁ」
アドルはしみじみとそう言うと、ふざけて腕を上げるディグナムに笑い返した。
「とにかく、補欠でも何でも受かった者勝ちだからな。でも、補欠合格はこれからが大変だぞ」
「――そうだよね」
アドルは急にしゅんとなった。補欠合格と言うことは、何か一つでも問題を起こせば除名処分になってしまう、と言うことだった。成績はもちろんのこと、素行や態度も厳しく問われ、一つでも基準に満たない点があれば、容赦なく処分されてしまうのだ。
「いっそ落ちてた方が楽だったかな……?」
「ばか言うな」
アドルが呟くのをたしなめて、それでもディグナムは笑っていた。ディグナムは嬉しかったし、ほっとしていたのだ。
「除名処分なんぞにならんように、せいぜい頑張れよ」
「うん。それじゃ」
ディグナムはもう一度アドルに励ましの言葉をかけた。アドルは素直に頷くと、ディグナムの許を去ろうとしたが、何かを思い出したように立ち止まり、振り返ると、真直ぐにディグナムに向き直った。
「忘れてた。――ありがとうございました、師匠。こんな出来の悪い弟子で、師匠も大変だったろ?」
「……ナマイキなこと言ってると殴るぞ」
「でも、ほんと見捨てられなくてよかったって、ちょっと思ってるよ。本当に、ありがとうございました」
それまでふざけた調子だったアドルは、きちんと頭を下げた。ディグナムはばーか、と一言返し、さよなら、と言い残して去って行くアドルに、手を上げて応じただけだった。
「――似合わないしおらしい真似しやがって。あのばかが」
アドルの後ろ姿を見ながらそう呟いて、ディグナムは俯いた。そして俯いたまま部屋へと戻って行った。
旅立ちの日は、気持ちよく晴れていた。
春を前に最後であろうと思われるほど冷え込んだが、リュウナは上機嫌だった。日の出には起き出し、最後にもう一度だけ荷物を確認した。荷物といっても、生活に必要な最低限のものは寄宿舎に用意されている。服や下着も支給制だ。リュウナが持って行くものは、国都までの路銀、武道学校の修了証書、養成所の合格証書、それから読み書きの科で使った本一冊。姫様と護衛の話が載っている本だ。それからしっかりとした鞘のついた懐刀と手鏡、母が用意してくれたハンカチ数枚。それらの全てをリュックから取り出し、一つずつ確認してからもう一度丁寧に詰め込んだ。
「おはよう、リュウナ」
「おはよう、母さん。――いい天気でよかった」
リュウナが窓から昇ったばかりの朝日を見ながら言った。リュウナの朝食を用意していたノルゼは、晴れやかな表情の娘をしみじみと見つめていた。ガゼルアに行ってしまったら、次はいつ帰ってくるのかも解らない。リュウナの望みが叶い、任用試験に及第することになれば、それこそこちらからガゼルアに出向きでもしない限り、会うことはないだろう。ノルゼは身を裂かれるような思いだった。
「もう一度よく顔を見せて」
ノルゼは自分の背を僅かに追い越したリュウナの前に立つと、リュウナの左手を取りながら話し出した。
「あんたは小さい頃から普通とはちょっと違うと思っていたけど、まさか養成所に行くことになるとはね。女の子なのにお料理一つ覚えずに、武術ばっかりやるから……ほら、こんなに手も節くれだって……。女の子はちょっとふっくらしてるくらいがいいのにねぇ、全然太りもしないで、こんなにがりがりで……」
ノルゼが涙ぐむ様子に、リュウナはかけるべき言葉を見つけられなかった。
「――でもね、リュウナ。あんたが決めたことだから、もう母さんは何も言わない。自分が思うとおりに、頑張りなさいね」
リュウナは黙って頷いて、傍を離れたノルゼの背中を見つめていた。
「ほら。ちょっと早いけど、おあがりなさいな。乗合馬車に酔ったら大変だから」
リュウナは麦芽パンと暖めた山羊の乳で作ったスープと、やはり山羊の乳から作ったチーズで、軽い食事をした。そのうちに父のギリナムと兄のロウダも起き出して、途端ににぎやかな食卓になった。
「まぁ、父さんと母さんのことは心配するな。俺がついてるから」
「うん」
「身体に気をつけろよ」
「うん」
リュウナが食事をしている最中にも、父と兄がリュウナに声をかけるので、リュウナは苦笑いをしながらパンをかじり、スープを飲み、チーズを口に放り込んだ。
「……それじゃ、そろそろ行くね」
食事を済ませ身支度を整え、リュックを持ち、リュウナは戸口で家族に向かって言った。
「見送りはしないでね。……ここで、いいから」
なんだか寂しくなっちゃうし、リュウナはそう言って笑って見せた。ギリナムもノルゼも、そしてロウダまでもが神妙な面持ちで戸口からリュウナを見送る。
「今まで、育ててくれてありがとう。お世話になりました」
リュウナが真顔で頭を下げると、ギリナムがそれを笑い飛ばした。
「嫁に行く娘の挨拶じゃあるまいし!」
「……そうだね」
「リュウナ。これ、お弁当に持ってお行き」
ノルゼがハムとチーズを挟んだ麦芽パンの包みを渡してくれた。
「ありがと」
「まぁ……頑張れや」
ロウダがぶっきらぼうに言った。リュウナは笑いながら頷き返す。
「それじゃあ……行って来ます!」
リュウナは大きな声で言うと、駆け出した。家族が見送る中、わざと振り向きもせずに。涙が出そうになったけれど、必死になって堪えながら、乗合馬車の待合所までひたすら走った。冷え込んだ朝の空気が身を裂くように感じられて、それでもただ、走る。それしか方法がないかのように。
待合所が見える所までやってきて、初めてリュウナは走るのを止めた。さすがに息が切れて苦しかった。胸を撫でさすりながら待合所に滑り込むと、アドルが既に来ており、丸めたマントを両手で抱え込んで、俯いたまま静かに座っていた。近所に待合所を管理している人がいて、ストーブで薪が焚かれていた。おかげで待合室の中はのぼせるような暑さだった。
「――おはよ」
まだ乱れた呼吸のままで、リュウナはアドルに言う。
「おう」
アドルはちらっとリュウナを見ると、また俯いてしまった。リュウナはマントを取って両手に抱えると、椅子に腰掛けた。やっと乱れた呼吸も収まり、リュウナはゆっくりと話し始めた。
「早いじゃん」
「おう」
「ゴハン、ちゃんと食べてきた?」
「ああ……母ちゃんが用意してくれたから」
「お弁当は?」
「姉ちゃんが」
「そっか……」
それきり二人は黙りこくって、ただ乗合馬車を待っていた。昼夜を問わず馬車を乗り継いで、七日から十日がかりでガゼルアまで行くことになる。夏場なら五日から七日と言うところだが、今は雪解けの季節なので、自然とかかる時間も長くなる。試験のときもそれだけの時間をかけてガゼルアまでを往復したのだが、リュウナにはその旅が楽しいものに感じられた。もっとも試験を受けに行ったときは、馬車は貸切、シェドにも付き添ってもらっての旅で、こまごましたことに気を遣う必要もなかった。試験への緊張もあったのかもしれない。
今は、とにかく不安だった。
見知らぬ土地での寄宿舎生活。同室になるのも、見知らぬ誰か。それに一人っきり。一人と言うことは、何でも自分でやっていかなければならないと言うことだ。表現しようもない大きな不安が、リュウナの心に広がっていた。
「オマエさー」
僅かに鼻を鳴らして、アドルが話し始めた。相変わらず俯いたままだった。
「心細いんだろ」
いつもだったら、リュウナは躍起になって否定していたに違いない。でも、今はそれが出来なかった。リュウナが何も答えないことを肯定の意味に取ったアドルは、大げさに鼻を啜りながら顔を上げた。リュウナはじっと俯いていた。
「ウチの母ちゃんなんかさぁ、ぐしゃぐしゃに泣いちゃって大変だったぜ。もう……こっちが恥ずかしいくらいでさ……父ちゃんと兄ちゃんたちは頑張れよ、って笑って送り出してくれたんだけど、母ちゃんと姉ちゃんたちは大変だった。お互いに抱き合って泣いたりなんかして。――オマエんとこはどうだった?」
「母さんが、ちょっと泣いてた。父さんは普段通りで――兄さんなんか、神妙な顔つきしちゃってておかしかったよ」
「家族に泣かれたらたまんないよな。一応これでも門出なのによ」
「ほんとだよね」
二人は、二人きりの待合室の中で、何故だがひっそりと喋っていた。誰に聞かれる心配もない、広いとはいえない待合室の閉じた空間で、ひっそり、ひっそりと。薪のはぜる音が大きく聞こえるほどだった。
二人とも黙って俯いていた。やがて遠くから乗合馬車の鈴の音が聞こえてきた。
「ほら。来たよ」
「おう」
二人はやっぱりひそひそ声で言い合って、立ち上がるとしっかりとマントを巻いた。荷物も忘れないように持って、待合所の外で馬車を待った。
「二人ともお客さんかい?」
御者が着膨れした外套の中から、首を伸ばして二人を見やった。二人は黙って頷くと、アドルが声を張り上げた。
「おれたち二人とも、ガゼルアに行くんだ。切符は持ってない。金で払うよ」
「それじゃ、ギルナまでの運賃を頂くよ」
大きな街や都の間では、切符を買って乗るのが当たり前なのだが、メルリ村では切符を売る代理店もないのだった。
「ガゼルアまでって……そうするとお前たち、養成所に行くのかい?」
二人から受け取った運賃を数えながら、御者は舐めるようにじっくりと二人を見た。
「とても信じられんがねぇ」
ポツリと御者が漏らした言葉に、リュウナが反応した。
「……証書をお見せしましょうか?」
リュウナのきっとした眼差しに御者はぎくりとした。養成所の試験に通ると言うことは、それなりに腕の立つ人間だと言うことに思い至ったらしい。御者は運賃を内ポケットにしっかりとしまいこむと、二人に向かって愛想笑いを浮かべた。
「いや、悪気があったんじゃないのさ。こんな小さな農村からでも、養成所に行く若者がいるなんて、ちょっと驚いただけさ。さぁ、早く乗った乗った。道がぬかるむ前に、出来るだけ距離を稼いでおきたいんでね」
二人は無言で扉を開けると、客車の中に躍り込んだ。二頭立ての乗合馬車は、大人が八人ほど乗れるが、とても快適とは言いがたい。ベンチシートが三列並び、それぞれの足下に小さな行火が置いてある。幌で囲んであるので寒いと言うほどではないが、決して暖かくはなかった。二人はしっかりとマントを身体に巻きつけるようにして、一番後ろのシートに身を寄せ合って座った。
二人の他に、客はたった一人だけ。この乗合馬車は、メルリ村の峠向こうのシュゼルドと言う街からやってくる。途中宿場で御者と馬とを交代しながら、ギルナと言う商業街まで行く。ガゼルアを目指す者はそこからさらに馬車を乗り継ぐことになる。シュゼルドとギルナの間は雪深い地域なので、峠が雪に覆われる頃には乗合馬車は走らない。だからこの時期はやっと運行を再開したばかりと言うことになる。客が少ないのも当然といえば当然だった。
リュウナもアドルも馬車に揺られながら、ぼんやりとしていた。アドルは窓の外を眺め、リュウナはじっと俯いていた。御者の失礼な物言いへの怒りが収まってくると、またにわかに不安が膨れ上がって来た。リュウナは必死に歯を食いしばっていたが、限界が近付いていた。ぽたり、と一粒涙がマントに零れ落ちた。アドルが窓の外を眺めやりながら、そっとリュウナに言った。
「おれだって泣いたよ……。母ちゃんや姉ちゃんたちに泣かれたら、おれも悲しくなってきてさ――。かっこわりぃけど、しょうがねぇもんな」
そしてリュウナを振り返った。
リュウナとアドルは、その日初めてお互いの顔を見た。
瞳いっぱいに涙を溜めて、それが零れ落ちないように瞳を見開いているリュウナ。
泣きはらした真っ赤なまぶたで、それでもちょっと笑って見せるアドル。そして瞳にはやはり涙が浮かんでいた。
「そう、だね……」
リュウナはやっとそれだけ言うと、後はもう声にならなかった。肩を震わせて、嗚咽を漏らし始めた。見知らぬ客がいなければ、号泣していたかもしれない。アドルもやはり歯を食いしばって、静かに涙を流した。
初めて経験する旅立ちの心細さ、寂しさ、そして不安が、涙となって流れていった。どれくらい泣いていたのかは、リュウナにもアドルにも解らなかった。それでも二人は、しばらく旅立ちの涙を流し続けていた。
やっと涙が乾いたときには、リュウナもアドルも、ほんの少しだけ大人に近づいた気がしたのだった――。




