7-3
セドとの国境、マリシュたちが目指していたイレムの関が見えてきた。
ザルクルーシュとマリシュが毒矢使いの一団に襲撃されてから、およそ一日半。関の付近には兵士が立ち並び、そこに二人は驚くべき人物を発見した。
リュウナとアドルはもちろんのこと、セド国王ル=セルア王その人が立っていたのだ。
「マリシュ!」
リュウナは喜びの声を上げると真っ先にマリシュに駆け寄った。マリシュはクポから降り立ち、腕の中にリュウナを迎える。二人はしっかりと抱き合っていた。
「よかった、無事で」
喜びを全身で表すリュウナとは裏腹に、マリシュの表情は昏く沈んでいた。
「シャラは?」
笑顔で尋ねるリュウナに、マリシュが離れてついて来るザルクルーシュとクポをそっと示した。そのクポの背にうつ伏せに乗っているシャイラーンを認めて、リュウナは短い悲鳴を上げた。
「シャラっ!」
マリシュから離れてクポに駆け寄る。外套を着せ掛けられたシャイラーンを見上げて、それから隣に立ち尽くすザルクルーシュを見た。
「ザッシュ……?」
リュウナは笑顔を浮かべたままだった。いや、表情が笑顔のまま固まってしまった、と言う表現がより的確だった。ザルクルーシュはリュウナと視線を合わせようとはしなかった。
「……シャラ?」
クポに近寄り、恐る恐る外套を払った。ばさり、と重々しい音を立て、外套は落ちる。その下に露になったシャイラーンの顔は、恐ろしいほど白く透き通っていた。リュウナはそっとシャイラーンの頬に触れた。
指から伝わるその感触を、リュウナは知らない。
――いや、まさにこの瞬間に、生まれて初めて体感した。
「シャラ? どうしたの? 返事を、して?」
膝がかくかくと小刻みに震える。瞳を開いてにっこり笑って、そうして、いつものようにやさしい声で。
よくがんばったね。それでこそ、僕の愛するリュウナだよ――。
そう言って――抱きしめて欲しかった。全身でシャイラーンを感じたかったのに。
「どうして……?」
リュウナはただ呆けたようにその言葉だけを繰り返す。ザルクルーシュは何度も口を開きかけ、しかしそれがたとえどんな言葉であろうと、リュウナの耳には届かないだろうことを悟っていた。離れた場所からリュウナの背を見つめるアドルにも、何もできることはなかった。ただ、最後の夜にシャイラーンと交わした言葉を、思い返す。
自分の身に何かが起こることを、シャイラーンは視て、そして知っていたのか。だからあんなことを言って、おれに約束させたのか。それよりも――どうしてリュウナとの約束を最優先にしなかったのか――。
しかし一方で、最優先にできない事情があったことも察せられた。おそらくシャイラーンは全力でマリシュを護ったのだ。そしてその結果が――。アドルは自らの心にも大きくて深い空虚が生まれたのを感じていた。この空虚は、きっと二度と埋まることはないだろう……。
マリシュはリュウナの背中に送っていた視線を、セド王ル=セルアに向け、その場で深く礼を見せてから、ゆっくりと、しかし確実な足取りで一歩一歩前に進んだ。立ち尽くすアドルと視線を交わし、頷き合って、セルアの前に跪いた。先に声をあげたのはセルアだった。
「長い道程をよくぞ参られた。我が国は貴女を歓迎いたします。ガゼッタ王国マリシュ=セウ=ガゼートニア陛下」
セルアは確かに陛下、と言った。驚きに目を上げたマリシュに柔らかく微笑み、自らも膝をついてその手を差し出す。
「貴国がラディラフの属国になったとの報を受け、拭い去れない不信感を抱いておりました。陛下からの親書を読み、私の不信は確信へと変わった。裏に何らかの工作があったこと、各国ともに疑ってはいた。その証拠がないため手をこまねいていたが、それももう過去のこと。まずはこの地域の領主の館に落ち着き、詳しいことの次第を直接伺いたいのだが」
マリシュは深く頭を垂れた。
「お申し出、ありがたく拝受いたします。私は私の知る全てを、語る心積もりです」
マリシュの答えにセルアは満足げに頷いた。セルアは立ち上がると早速車に乗った。同乗しないかと誘われたが、マリシュはすぐに返事が出来なかった。
「時にあちらの方は……?」
立ち尽くし動こうとしないリュウナ、ザルクルーシュを見やりながら、臣下の一人、ネディアロがマリシュに尋ねた。
「……私の大切な同志なのですが、志半ばにして刺客の毒矢に――」
それ以上は言えなかった。ネディアロは察したように深く頷いた。
「哀悼の意を捧げます。皆さんも領主の館へご案内いたしましょう。ご尊体をお預かりさせていただきたいと存じますが」
その申し出を即座に断ったのはアドルだった。
「その必要はありません。共に領主の館に運び込む許可さえいただければ、おれが」
「解りました」
アドルとはもう馴染みになっていたネディアロは、静かに頷いた。それから隣に立つマリシュに車に載るように促した。マリシュは心配そうな視線を背後に揺らめかせた。
「アドル――、お願いできて?」
「……もちろん。ああ、そうだ。ザッシュ!」
アドルの声にザルクルーシュが手を上げて応じた。
「お前は車に載って行けよ! おれはクポで後から行くから!」
アドルの言葉に応じ、ザルクルーシュは早足で車に近寄ってきた。途中すれ違い様にアドルに問う。
「リュウナはどうする?」
「おれと同じクポに乗せていくよ。領主の館はそれほど遠くない、大丈夫だよ」
数日滞在していたんだ、とアドルは言った。
「解った。頼む」
ザルクルーシュは短く言い、待ってくれていた車に載り込んだ。車がゆるゆると動き始めるのを確かめてから、アドルはリュウナの背にそっと手を添えた。
「どうして……どうして?」
リュウナは定まらない視線のままでぶつぶつと繰り返している。アドルはぐっとリュウナの腰に右腕を回し、そのまま肩に担いだ。それでもなおリュウナは我を失っているようだった。マリシュが乗っていたクポにリュウナを乗せ、自らもひらりと跨り、左手で器用にシャイラーンが乗るクポの手綱を引く。
リュウナの表情を間近に見て、アドルは暗い気持ちになった。
こんな状態になったリュウナの、どうして力になることができる?
自らの前に座り、ゆらりゆらりとクポに揺られるリュウナを、アドルはそっと後ろから抱きしめていた。いつものリュウナならなんと言うだろう?――アドルったら、何してるの? 大丈夫だってば? どうしたの――? アドルはそのままリュウナの肩に顔を埋めた。リュウナの髪の感触までもが、大きな喪失感に支配されているのを感じた。そしてそれは、アドルとしても同じことだった。
微かにぴくりと、リュウナの肩が震えた気配に、アドルはそっと顔を上げた。
「シャイラーン――」
リュウナの声が風に乗り、アドルの耳朶を揺らす。どこか幸福そうなその呟きは、リュウナがすでに正気を手放している証拠のように感じられて、アドルは知らず、リュウナを抱きしめる腕に力を込めていた。
「リュウナ」
そっと耳元に囁きかける。
「だめだ。戻って来い。それまでおれは――」
リュウナがそれに応えることはなかった。耳に入っていないだろうと、アドルにも解っていた。だからこそ、その先は言葉にできなかった。自ら何も告げずに離れてしまったのに、こんなことになって今更その想いを告げるのは、重大な禁忌。アドルはそっと、シャイラーンに語りかけていた。
お前との約束、何としてもおれは守ってみせるから――、と。
一足先に領主ハンザの館に到着したマリシュは、広い応接間に通されていた。下座の椅子に落ち着いたセルアを認めてから、やっとマリシュは勧められた椅子に腰掛けた。マリシュは長旅の疲れを微塵も感じさせることはなく、しっかりと背筋を伸ばして浅く椅子に掛けていた。応接間にはセルア以下、臣下や外交に携わる大臣などが集い、マリシュの申し立てを聞く準備が整った。
「前国王がご在位の時に開かれた会合の際に、お姿を拝見したことがあったが、面影が残っておられますなあ」
セルアはマリシュの顔を食い入るように見つめている。
「貴女の身分が正統であることは承知しているが、記録を取る手続き上、身の証を立てていただきたい。ガゼッタの正統後継者に授けられると言う印を、見せていただけるだろうか?」
その言葉を合図にしたように、一人の臣下がマリシュに皮紙を差し出した。マリシュはそれを恭しく受け取ると、臣下に問うた。
「それでは、失礼いたします」
マリシュは懐刀を静かに取り出すと、白い刃先を自らの小指に押し当て、血が滲んだ指を皮紙に押し付ける。そこにくっきりと、小さな花の蕾様の印が残されていた。
「これを」
傍に控えていた臣下が受け取り、セルアに献上した。セルアは少し目を細め、印影を確かめた。
「確かにこれは、先に受け取った親書の印と同じ印影ですな」
頷いて見せて、セルアは再びマリシュに視線を転じた。
「では、事の顛末を詳しく語って下さいますかな?」
「仰せのままに」
マリシュは深々と頭を下げ、次に顔を上げたときには、その瞳には強い光が宿っていた。




