6-2
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出発の前日と言うことで、皆早々に部屋に戻っていた。アドルは首領のお気に入りと言うこともあって、首領の館の一角に私室を与えられている。シャイラーン、リュウナ、マリシュは館の南側にある、客用の離れに部屋を用意されていた。
少し話がしたい、そう言ってシャイラーンがアドルの私室を訪ねて来た。アドルは寄宿舎にいた頃、同室のシャイラーンと数え切れないほど夜遅くまで語り合ったことを思い出した。アドルが寄宿舎から出る前の晩もそうだった。
「ガゼッタから持ってきた最高級のお茶だよ。ポットはある?」
アドルの部屋に入るなり、シャイラーンは笑顔で言った。それは寄宿舎にいた頃とちっとも変わっていなくて、アドルは心の底からほっとしている自分を見つけた。
「何でも好きに使ってくれよ」
「へぇ――。随分と質のいいものが揃っているね。でもあまり高価過ぎないのは、砂漠の民の美点かな」
シャイラーンは言いながら、手際よくポットとカップを用意した。素焼きの水差しを眺めながら、アドルに問う。
「……ところで、お湯ってどうやって沸かすのかな?」
「ああ。それをそのまま暖房の上に載せてくれ。少し時間がかかるけど――」
「ふうん」
心なしかシャイラーンは楽しげだった。水差しを恐る恐る暖房に載せると、改めてアドルに向き直った。
「まぁ座れよ」
「うん」
アドルは改めてシャイラーンを見た。華奢な身体つきには違いないが、少し逞しくなったように思った。いつもたっぷりと布を多めに使った服を着ているから気づき難いが、相当訓練を積んでいる、と感じた。
「……逞しくなったな」
「アドルほどじゃないよ。でもほら、いつ何が起こってもいいように、って、準備だけはしておいたから」
静かな微笑みを浮かべながら答える。それからシャイラーンは寄宿舎で続けてきた学術のこと、未来視としての能力は磨きようがなかったにも関わらず、視えたことはなんに限らず書き留めておいたこと、そして稀に視る夢のように抽象的な事柄でも、自分なりに解釈を与えられるようになったことなどを相変わらずのおっとりとした口調で語った。
「それじゃ、ここでおれと会う、ってのも解ってたってこと?」
アドルの問いにシャイラーンは曖昧に頷いた。
「助けてくれる人がいて、いい方向に向かうことは何となく解ってた。だけど――直前までアドルだって解らなかった。だから、驚いたよ、とっても」
「ふうん」
アドルは旅路にあった時の思い出話を語って聞かせた。セドにも三度ほど商隊に同行して行ったことがある、と言う話をした。関を一歩越えると緑と水に溢れた美しい国だった、と言う科白に、シャイラーンは少しだけ不安そうな表情を見せる。アドルはそれに敏感に反応した。
「どうした?」
シャイラーンは笑っているような、それでいて怒っているような声で言った。
「セドがどんな国なのか、どうしても視えなかったから。そうか、美しい国なんだね――」
シャイラーンが口を噤むと、微かに湯が沸く音がした。
「ああ、お茶を淹れなくちゃ」
その時にはもういつものシャイラーンだった。丁寧にポットに湯を注ぎ、優雅な動作で茶を注ぐ。湯気と共に立ち上る茶葉の香りに安らぎを感じたアドルは、シャイラーンの手許を見つめたままで言った。
「今まで何回もお前に茶を淹れてもらったけど、今日ほど落ち着いた気分になったのは初めてかも」
「そう? きっと知らないうちに神経が昂ぶっているせいだよ」
精神安定の効用があるお茶なんだ――そう続けてシャイラーンはアドルの目の前にカップを差し出した。
「ありがとう」
アドルは素直に礼を言ってそれを啜った。口の中に仄かな甘味が広がって、心がゆったりとしてくるようだった。シャイラーンも茶を口に含んで味わってから呑み下すと、急に真剣な瞳でアドルを見た。
「ねぇ、アドル」
「なんだ?」
アドルもつい身構えてしまう。シャイラーンがそういう瞳で話を切り出すのは、よほど真剣で重要な話をするときだけ。そしてその多くはリュウナに関わることだった。
「リュウナを、頼む」
深く頭を下げるシャイラーンに驚き、アドルは咄嗟に言葉が出なかった。今までも互いにさまざまなことを頼んだり頼まれたりした。だけどこんな風に頭を下げられたのはおそらく初めてだった。
「おいおい何だよ? 改まって」
シャイラーンは薄く微笑んで先を続けた。
「うん。この頃、すごく不安になるんだ。今まではっきり視えていたことさえ、曖昧にしか視えないことが多くて。リュウナの身に何か起きてしまうんじゃないかと思うと、本当は僕がリュウナと一緒に行きたいくらいだ。だけど、それは今の状況から考えて賢い選択じゃないよね。それは解ってる。それに――僕にとって一番の安心は、アドル、君だよ」
「おれ?」
頓狂な声を上げるアドルに、シャイラーンは苦笑を返した。
「だって、アドルならリュウナを危険に晒したりしないだろうから。僕にはちゃんと解ってる。僕にとってもリュウナはかけがえのない人だけど、アドルにだって同じ。だから、アドルに託すんだ」
「シャラ……」
「だからね、アドル」
シャイラーンはきっ、と顔を上げて鋭い視線でアドルを射抜いた。アドルは心臓がびくりと大きく跳ね上がったように感じた。
「リュウナにもしものことがあったら、アドルを決して許さないよ」
男同士の約束だった。アドルもまた真剣な瞳でシャイラーンに頷いた。
「――解った。任せろ」
「うん」
そこで初めてシャイラーンは晴れやかな笑顔を見せた。互いに静かに茶を飲んでいると、ふいにシャイラーンが言った。
「ねぇ、アドル――」
「ん? 何?」
すっかり気楽な調子を取り戻していたアドルは、シャイラーンの暗く沈んだような表情に再び気分を引き締めた。
「もしも――もしも僕の身に何かが起こったら、アドルはどうする?」
「どうする、って……そんな縁起でもないこと言うなよ」
「はぐらかさないでちゃんと答えてよ」
そこでアドルは真剣に考え込んだ。自分の身のまわりにいる誰かに何かが起こった時のことなんて、正直言って考えてみたことなどない。自分も何度か死にそうな目にも遭っているが、もしものときに誰が何を思うかなどと考えてみたことすら、一度もなかった。
「うーん、どうするだろう。すっげぇ悲しむ、と思う」
「うん」
しばしの沈黙。アドルにとってはどこか気まずい沈黙だった。シャイラーンが聞きたいのは、きっとそういうことではない、と解っていたから。ふとあの砂漠での真夜中のひと時に思い当たって、アドルははっとした。もしかしたらシャイラーンは何かを知っているのかもしれない。いや、あのときにはもう、アドルがリュウナに対して何をしようとしていたのか、視ていたのかもしれない。そう思うと急に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。痺れを切らしたように口を開いたのは、シャイラーンが先だった。
「リュウナのこと――。もし、だよ。もしも僕に何かあったら、リュウナを支えてあげてくれないか。リュウナとアドルの間には、アドルと僕、そしてリュウナと僕とは違った信頼関係があるからね。それに――こんなときにこんなことを言うのもなんだけど」
そこでシャイラーンは一旦言葉を切った。その先に何を言おうとしているのか悟ったアドルが先回りをした。
「あれは――! 別にお前たちの仲を裂こうとか、今更リュウナとどうにかなりたいって思ってやった訳じゃなくて――」
焦ったアドルに、シャイラーンは深い微笑みで応えた。
「解っているよ。僕がアドルの立場だったら、あれくらいしていたと思うから。リュウナって何もかも自分で背負い込んじゃって、どうにかそれをこっちに分けてくれないかな、少しは楽になってくれないかな、って思っちゃうんだよね。ここに着くまでの、すごくムリして頑張っているリュウナを見てしまったら、当然の行為だと思ってる。――すごく嫉妬したけれど」
アドルは何も言えずに手の中のカップに視線を落とした。何もかもお見通しだ。シャイラーンには敵わない。
「でもね、アドルだってちょっとは僕に嫉妬するだろう? 同じことだよ。それに自分がまだまだだな、って思う部分もあるし。砂漠でアドルと会った時の、嬉しそうなリュウナの顔を見た? 本当に嫉妬したよ。リュウナの心にはちゃんとアドルの居場所があって、もちろん僕の居場所もあるけれど、それを全部僕で埋め尽くしてしまうことは、きっと一生かかっても無理なんだろうな、って思い知らされたから」
アドルは顔を上げてシャイラーンを見た。ちゃんと笑顔を浮かべているつもりだった。
「そんな顔しないでよ。僕がいじめてるみたいだろ?」
シャイラーンは吹っ切れたような清々しい笑顔をしていた。
「……リュウナはとても幸せだよね。僕とアドル、二人の人間にこんなに愛されているんだから」
「――ああ」
アドルもやっと心からの笑顔を浮かべられた気がした。
「ホントに全くあいつは、何にも解っちゃいないんだからな」
アドルの言葉にシャイラーンがうんうんと頷く。それから急に改まったかと思うと、核心の言葉を口にした。
「だからさ、アドル、もしも僕の身に何かが起こったら、僕の分もリュウナを大事にしてよね。リュウナはとても強いけれど――独りではないから強いんだ。おそらくね。自分でもきっとそれを解ってる。今は意識しているかどうか解らないけれど、大事に思っている人間の誰か一人でも欠けてしまったら、あの子はきっと苦しむと思うんだ。そんなときは、ねぇ、アドル。ちゃんとあの子の傍にいて、そうして支えてあげてよね」
どう答えたらいいのか、アドルは迷った。迷った末に、やっと言った。
「……おれに何かあったときはもちろん、おまえがその役を買って出てくれる、ってことだよな?」
シャイラーンはしっかりと頷く。それでアドルもやっと頷くことができた。
「約束だよ」
………………




