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先行するアドルとリュウナの出発は、二日後に決まった。
リュウナは荷造りを進める一方、ザルクルーシュについてラパに乗る訓練をした。一刻でも早くセドに辿り着くために、少しでも腕が上がっていたほうがいいと考え、ザルクルーシュに頼み込んだのだった。
首領のオアシスから少し離れた砂漠の中で、リュウナはラパの手綱を取った。傍で監督するザルクルーシュも、リュウナの勘のよさに舌を巻いた。
「リュウナ、お前、ただの女にしておくのはもったいないな。どうだ、オレの嫁さんにならないか?」
ザルクルーシュが冗談で言っていることくらいは、リュウナにも簡単に解った。解っているからこそ、軽い口調でこう応じる。
「あたしみたいなはねっ返りでよかったら。その前に、シャラに了解を取ってよね?」
「オレがあいつに劣るとでも?」
ザルクルーシュの科白に、リュウナはくすりと笑う。
「ザッシュはシャラのことを知らないからそんなこと言うのよ。あの人、あたしなんかよりよっぽど強い。剣を交えてみたらはっきり解るわ」
「へぇ……?」
ザルクルーシュには、リュウナの言葉は意外すぎた。見るからに優男風で、下手をすると女とも間違えられそうな顔と華奢な身体つき。肌も青く見えるほど白いし、物腰もやわらかく上品。ぱっと見たらリュウナの方が絶対に強そうだ。ザルクルーシュがそう言うと、リュウナはラパの背でぷっと頬を膨らませて、大声で叫んだ。
「ちょっとザッシュ! いくらなんでも、言っていいことと悪いことがあると思うわ。あたしだって、これでも一応女なんだし!」
「女だってことは、解ってるけどさ!」
「けど、何よ!」
ザルクルーシュはしばらく考え込んでから、やっと返事をした。
「シャラの方が、よっぽどキレイだろ!」
「……」
リュウナはそれには何も答えなかった。ザルクルーシュの言っていることが正しい、と言うこと以上に、ちっとも女らしくない自分に、少し哀しくなったのだった。
「……ゴメン! そんなつもりじゃ」
ザルクルーシュが慌てて言うと、ラパで駆け戻ったリュウナは笑っていた。
「びっくりした?――それくらいで傷ついてちゃ、リーシュの護衛なんて務まらないわ!」
それから声高に笑う。全てを吹っ切るような鮮やかで高らかな笑い声に、ザルクルーシュの気持ちも晴れ晴れとしてくるのだった。
その頃マリシュは、分けてもらった上質の羊皮紙にセドへの親書をしたためているところだった。ここに来て初めて、木の枝でできたペンを使っているせいか、文字が微妙に揺らぐ。それでもソールと言う草の繊維でできた紙に下書きを繰り返しているうちに、何とか格好がついてきた。
羊皮紙に丁寧に文字を連ねながら、頭の中では全く違うことを考えている自分がいた。もし、これがうまくいかなかったらどうしよう? 不安に思い出したら、切りがない。
例えば、先行するリュウナの身に何かあったら?
あとからのんびりしているうちに、リュウナに託した親書をラディラフ政府の手の者に奪われ、もみ消されてしまったとしたら? 第一親書の存在が明らかになれば、自らの身も危うい。そうなったら、ガゼッタ王国――いまではラディラフ国ガゼッタ地区と呼ばれているらしい――の民の身も、危ういと同じ。
マリシュはその不吉な考えを頭から追い出した。
何より、自分が無事に国を取り戻し『最後の王』になると、未来視が言ったではないか。過程がどのようなものになろうと、未来視がはっきりと口に出して告げる未来は、恐ろしいほど正確だそうだ。ミレイシュアも言っていたではないか。未来視は不確実な未来については決して語らず、確実な未来のみを自信と共に言の葉に載せるのだと。もしも自分の身に危険が迫ったとしても、リュウナは自分の身の安全を優先させるだろう。そして命を落とすことになっても――自分が本懐を遂げるよう、力を尽くすに違いない。そういう人間だ、リュウナは。
そこまで思うと、勝手に涙が溢れた。
国を取り戻したい、と言う強い思いに負けないくらい、マリシュにとってリュウナは、決して失いたくないと強く願う、特別な存在だった。リュウナがいてくれたおかげで生きてこられた、そう思っている。あの死ぬほど退屈で陰鬱な世界の中に身を置いてさえ。
だから、強くならなくては。
マリシュは涙を拭うと、左手の小指の腹にナイフの刃を当てた。じわり、と血が滲むのを確かめてから、それを署名の後ろに押し付けた。丁寧に封書に収めて、蝋で封緘を施す。それを大切に懐に収めてから、マリシュは首領の待つ部屋へと赴いた。
首領はマリシュの口添えのために、セド国王に親書を書いてくれると請け合ってくれた。それをマリシュの親書と共に、リュウナに託す。そのときには身の証を立てるもうひとつのもの――指輪も託すつもりでいた。それで本当にマリシュの身の証が立てられるのか、本当は今ひとつ自信がないマリシュだったが、今はこうすることが最上の策だと言う自信はあった。あとはセド国王が、誠実な人物であることを祈るだけ。
大きく息を吸い込んで、マリシュは窓から見える空に視線を転じた。
空はどこまでも青く澄んで、白い雲が点々と漂っていた。
まだ夜も明けきらないうちに、リュウナとアドルはオアシスを立つことにした。マリシュはリュウナの手をしっかりと握り締め、そこに指輪を握らせた。
「これを――。お願いね」
リュウナは力強く頷いた。懐にはマリシュの親書と首領の親書。そして指輪。自分たちの最大の武器が全て自らの手中にある。思うと自然に震えが来た。
「気をつけて」
シャイラーンがリュウナに歩み寄り真剣な瞳で言った。リュウナはそれを受け止め、もう一度しっかりと頷きを返した。
「シャラも――」
「僕たちなら大丈夫。リュウナ――」
名をやさしく呼ぶシャイラーンの声に、リュウナはどこかいつもと違う響きを感じ取った。しかしそれを不安のせいだと否定して、笑顔でシャイラーンを見つめる。
「貴女に力を貸してくれる人が、きっと現れるよ。大丈夫。絶対にうまく行くから。僕を信じてくれるね?」
リュウナはもう一度しっかり頷いた。それからシャイラーンは、その腕にきつくリュウナを抱きしめた。人目のあるところではかつて一度もそんなことをしなかったシャイラーンに戸惑いながらも、リュウナもまたシャイラーンを確かめるように抱きしめていた。温かな広い胸。頬に感じる鼓動。息遣い。匂い――全てをきつく。シャイラーンが耳元でやさしく囁く言葉に何度も頷きながら。最後にシャイラーンはそっとリュウナの頬に触れて柔らかく撫でると、そのまま長い指でリュウナの唇の輪郭をなぞった。それからふいに口づけを与えられて、リュウナはかあっとなってしまう。――シャラがシャラじゃないみたい――うっとりとそう思いかけて、今はみんなの前にいることを急に思い出した。さらに頬が熱くなる。リュウナが照れる様子に気がついていて、なおもシャイラーンはリュウナを離さず、もう一度ぎゅっと抱きしめた。
「リュウナ。僕の心には貴女だけが住んでいる。それを、忘れないで。僕はいつでも――貴女と共にいるから」
「うん――」
しっかりと頷いたリュウナを確かめて、シャイラーンは腕の力を緩めた。名残惜しそうに、しかしゆっくりとどちらからともなく身体を離して、二人は互いに頷き合った。
「今生の別れじゃあるまいに。大げさだな」
ザルクルーシュがからかうように口を挟んだ。
「愛し合う二人が離れるんだもの。別れを惜しむのは当たり前のことではなくて?」
マリシュが二人を弁護する。五人は笑った。
「俺たちも明日には出立する。無事にセドで落ち合おう」
ザルクルーシュにアドルが頷いた。アドルとリュウナはラパに飛び乗るように跨る。リュウナがアドルを見た。アドルはうん、と力強く頷いて。
「行こう!」
アドルが先に駆け出した。リュウナもすぐに手綱を繰った。ラパはもうもうと砂を巻き上げて次第に遠ざかる。屋敷に戻るザルクルーシュと、遠くなるリュウナに何かを振り払うように背を向けたマリシュを横目に、シャイラーンはじっと小さくなってゆくリュウナを見つめていた。小さな背中に多くのものを背負って、先に行くリュウナ。
無事で――。
心を込めて願う。祈る。アドルがついているから大丈夫だとは思うけれど――自分が離れている間にもしものことがあったら、自分は生きて行かれない。だからきっと、無事で――。シャイラーンは土煙が見えなくなってしまうまで、その場に立ち尽くす。
シャイラーンはいつの間に自分がこんなにも醜い人間になってしまったのかと自己嫌悪していた。リュウナが愛しいのは紛れもない事実だけれど、それをみんなに知らしめるように――アドルに見せつけるような行動をとってしまった。意趣返し、とも言えるのかもしれない。あの夜の。落ち着かない心を抱えて、それでもやはりシャイラーンが願うのは、リュウナの無事だった。そしてアドルがきっとうまくリュウナを助けてくれることを、強く信じ、願っていた。
ザルクルーシュに教えてもらって大分ラパに慣れたとは言っても、起伏の激しい砂漠では想像以上に体力が必要だった。手綱を握る手にも知らないうちに無駄な力が入るのか、時々ラパはゆらりと進路を変えようとした。その度に慌てて手綱を引くものだから、余計に疲れる。リュウナはラパを乗りこなすザルクルーシュやアドルを、心から尊敬していた。
「大丈夫かっ?」
やや先に行くアドルが心配そうに叫んだ。
「なんとかっ!」
リュウナも叫び返して、それでも必死だった。アドルは少し速度を落として、リュウナのラパに自らのそれを寄せた。
「最初から無理すんな。いくら練習したとは言え、お前はまだまだ初心者なんだから。急いでも一月はかかるんだ。無理がたたって身体を壊したらシャレにもなんねぇよ」
覆い布のせいでくぐもったアドルの声は、別人のようだった。リュウナはそんな小さなことに不安を感じ――それを振り払う。今はそんなことで不安になっているときではない。あたしは――マリシュを護るんだから!
「もう少し行ったところにサイリュが何本か生えてるところがあるんだ。そこで少し休もう」
アドルの申し出にリュウナは強く首を振った。
「大丈夫よ、まだ行けるわ」
するとアドルは真っ直ぐに前を見たままで、鋭い口調で言った。
「これからセドに着くまでは、おれの言うことを聞いてもらうからな。おれが休むっつったら休む! 行くっつったら、死んでも行く! いいな?」
こんな風に強く言うアドルに、リュウナは少し戸惑いを覚えた。だけどアドルの言うことももっともだ。自分は砂漠にはまだ不慣れで、そしてアドルは自分の案内役として同道している。それを忘れちゃいけないんだ。アドルは一緒に寄宿舎で生活していた頃の、どこか頼りないアドルじゃない。実際今は――アドルが何よりの頼りなのだから。
「――解った」
「よし」
リュウナの返事を確かめて、アドルは納得したように頷いた。
アドルは必死になってラパに乗っているリュウナの横顔をそっと見た。心が乱れている原因はよく解っていた。リュウナとシャイラーンの別れを目の当たりにしたからだ。今更何をどうしても、リュウナの隣はシャイラーンの場所なのだ。シャイラーンの腕の中にいたときに見せた、幸せそうなリュウナの表情。あれはアドルには決して見せたことのない、女の顔だった。ついリュウナに厳しくしてしまうのは、自らを戒めるため。
リュウナはシャイラーンを心から愛している。シャイラーンの言っていた通りだ。
疾うからそれを知っていて、なのに何も行動しないままでリュウナの傍から消えた自分には、リュウナに想いを告げる資格はない。今は――想いを告げずに離れてしまったことを、後悔していた。叶わなくてもよかった。リュウナとの関係を壊したくなかった。それは紛れもない事実ではあるけれど、消化しきれない思いにアドルは苦しんでいた。
そしてまた同時に、リュウナの相手がシャイラーンでよかった、と言う思いがあるのも確かだった。シャイラーンに任せておけば安心。それは間違いなかった。方々に飛び散る思いを抱えたアドルの脳裏には、昨夜のシャイラーンの真剣な表情が蘇っていた。




