5-4
隣で寝入ってしまったリュウナを、アドルは複雑な思いで見つめていた。焚き火に照らされた頬に、睫の影が落ちている。アドルは静かに身体を動かして、眠るリュウナに頬を寄せた。脳裏にシャイラーンの笑顔が過ぎって、それがシャイラーンへの――そしてリュウナへの裏切りかもしれないと解っていながら、自分を御することができなかった。
リュウナの震える瞼にひとつ。
小さな鼻の頭にひとつ。
そして温かく滑らかな頬に、ひとつ。
アドルはそっと、口付けを落とす。
奪おうなんて思わない。
護ることも、傍にいることも――できない。それでも。
リュウナを大切に想う気持ちは、誰にも負けていない、と思う。そう、シャイラーンにだって。
最後に微かに皺を寄せたリュウナの眉間にひとつ口付けを落とし、そっと指でなぞる。
「……難しい顔してたって、しょうがないだろ?」
小さく囁くと、アドルの言葉を聞きつけたかのように、リュウナの眉間からふっと力が抜けた。それを見てアドルも口許をほころばせる。
「――いい夢を」
これでいい。
おれはリュウナに何も与えてあげられないから。せめて眠っているときくらい、安らかな気持ちでいてくれ――そう願いながら、アドルは焚き火に新しい枝をくべた。
首領のオアシスに着き、ほっと気持ちをゆるませることが出来たのはほんの数時間のことだった。オアシスに戻った商隊があまり嬉しくない土産話を持ってきたのだ。ラディラフの軽装備軍があちこちの街をうろついていたと言う。そのうちすでにいくつかの隊は砂漠の境にあるオアシスで聞き込み調査をしていた、と言うことだった。調査の対象はもちろん、懸賞首のマリシュだった。
「親父になんて説明しようか?」
三人の身元はアドルの寄宿舎時代の仲間と言うことになっていた。アドルを気に入っている首領はそれを疑いもしなかったようだったが、レギア自治区まで懸賞の話が伝わっている今、マリシュの尋ね書がいつ入って来るかも解らない。何よりラディラフ軍に見つかってしまったら? 一刻も早く先を急ぐ必要があった。
「わたしが直接お話を。首領にお目通りを願えますか?」
背筋を伸ばしたマリシュの声は凛として、威厳に満ちていた。ザルクルーシュも思わず目を瞠るほどに。つい先ほどまでは、慣れない砂漠の長旅に疲れ切った様子だったのに、今や瞳は爛々と熱く燃え、頬は興奮で赤みを帯びていた。
「よし、ちょっと待ってな」
ザルクルーシュはそれだけ言うと、四人を客間に残して席を立った。
「話とは何かね?」
レギア自治区首領、ゼファウリッシュは簡素な造りの椅子にすっと背筋を伸ばして掛けていた。謁見を申し出たマリシュたちを見つめる眼差しには、首領としての威厳と、砂漠で生き抜いてきた力強さが篭っている。瞳には一点の曇りも見られず、シャイラーンはそのことに改めて深く安堵を覚えていた。この人は、信頼できる――。シャイラーンは、それがはっきりとした姿を現していることを知っていた。
「他でもありません。私達は――嘘を申しておりました」
跪いていたマリシュは顔を上げ、じっと首領を見つめる。
「……ほう」
首領は口許に蓄えた髭を一撫でして、微かに身を乗り出す。マリシュは小さく息を吸って、一息に告白した。
「私はガゼッタ王国の正統後継者、マリシュ=セウ=ガゼートニア。訳あって祖国を追われ、流浪の民に身をやつしております」
首領は顔色ひとつ変えず、マリシュの瞳を見つめ返していた。マリシュはその厳しい視線に怯むことなく、言葉を続ける。
「身分を偽ったこと、お詫びの仕様もありませぬ。だた、ひとつだけ首領にお願いがあるのです。私は我が国が誇る未来視の言葉に導かれてこの地にやってまいりました。私の目的は、首領を始めとするレギアの民草に、我が身の保護を求めることではありませぬ。ただ私をお見逃しいただきたいのです。私の目的は、この地を越えてセドまで行くこと。謀略によって奪われた祖国を、我と我が民に取り戻すために――」
真っ直ぐに顔を上げたマリシュを見下ろしていた首領は、重々しい口調で、ゆっくりと尋ねた。
「そなたは美しい瞳をしている。そなたの話、まことと信ずるは容易い。しかしその証を立てることはできようか? 言葉ではなく、表情や瞳で訴えるのではなく、そなたが本当の、ガゼッタ王国の正統後継者である証を、はっきりと示すことはできようか?」
首領の言葉に、マリシュは不敵とも言える笑みで応じた。その笑みはリュウナに、謀略によって命を奪われた前国王を思い起こさせた。誰かと渡り合うとき、王は必ずと言っていいほど、過剰なまでに満ち溢れた自信がそうさせるかのような、不敵な笑みを浮かべたのだ。しかしそれは、リュウナ以外の者の瞳には、ただの整った微笑みに見えていたようであった。何故皆は、あの嚇とした瞳の輝きに気がつかないのか? リュウナは不思議でならなかった。そこまで思うと、何故前国王は、抗う術も持たずに命を取られてしまったのだろう、と言う考えに行き着いた。あるいは前国王は――心中でそっと呟きかけた言葉を、リュウナはくっと呑み下す。
マリシュが懐に差し入れた右手を出して、銀に閃く刃をかざしたのは、まさにそのときだった。ザルクルーシュの顔色がさっと変わった。リュウナもアドルも、その緊張に引きずられるように頬を強ばらせる。一瞬にして凍りついた空気の中で、マリシュと首領だけが平然と見つめ合っていた。
「……どなたか、懐紙をお持ちではありませんでしょうか?」
マリシュが言葉と同時に一同に視線を振り向けた。ザルクルーシュが進み出ると、懐から黄色味の強い紙を取り出し、そのままマリシュに差し出した。
「砂漠では紙は高級品だ。無駄に使ったら許さない」
マリシュはそれを受け取り、今度は王者たる者に相応しい、堂々と晴れやかな笑みを広げた。
「感謝いたします。次期首領」
言うとマリシュは、銀の刃を自らの左手の小指に押し当て、僅かに引いた。眉ひとつ動かすことのないマリシュに代わるように、リュウナは小さく「痛」と呟いて、顔をしかめてしまう。さまざまな修行を積み、鍛錬をしてきたリュウナにも、手ずから身体を傷つけることは考えもよらない。それを平然と遣って退けられるマリシュには、幼い頃より「いよいよの時」の心構えが培われていたのかもしれない。長く平穏が続いた近年では信じられないことだが、遠い過去においては、ガゼッタ王国でも王家に累する人間が、自らの矜持のために敢えて命を絶つことさえ当たり前の時代があったと言う。
リュウナがそんなことを考えている間にも、マリシュはそっと刃を置いて、ザルクルーシュに渡された紙に、小さな指先を押し付けているところであった。マリシュが指を離すと、その紙に、ぽつんと取り残された忘れ物のように、小さな印が残っていた。それは季節を外れ膨らんだ赤い花の蕾にも見えた。
「こちらを」
マリシュは刃を置いたまま、首領に歩み寄り紙を差し出す。首領はそれに視線を落とした。
「……今では、どれくらいの方々がその事実をご存知なのかも、私には解りかねます。亡き父は、たった一度――私がその『細工』を施される前にだけ、それを見せました。古き時代から、我が国の王は我が身を以って身の証を立てたのでございます。それはつまり――指先に、王その人ひとりに与えられた印を施すこと――。印を施された指に酷い怪我を負わない限り、あるいは指を失いでもしない限り、自身であることを証明し続ける。
私はこれがあるからこそ、我が身ひとつで国を出ました。それから――加えてこれを。これが私の全てでございます」
マリシュはさらに懐中から布を取り出し、中から金細工の指輪を出した。紅玉のついた指輪に施された細工は、やはり蕾のような丸みを帯びていた。
「私にはガゼッタを代表する花のひとつ、ファルニナの蕾が印として与えられました。指に施された印のことは心もとない証ではございますが、こちらの細工は、ガゼッタに昔から伝わる古い細工です。おそらく一流の宝石商が見れば、一目でそれと判じましょう」
マリシュは深々と頭を垂れて、それから首領を仰ぎ見た。指輪を受けとり、紙に点じられた赤い染みと、指輪の細工とを見比べている。首領が何を言うのか、リュウナは緊張で全身を堅くした。隣にいるシャイラーンの息遣いだけが、微かにリュウナの耳を打つ。
「……いつのことだったか――、自身の指に印を施す、と言う話は聞いたことがある。どのような技術を持ってそれを行うのか、自ら確かめてみたいと思っていた。――その方法を、教えてはくれまいね?」
僅かに表情を柔らかくして、首領はこんなことを言った。リュウナは拍子抜けして、ただ瞳を丸くして首領を見ていた。マリシュは動じた様子も見せず、ただにっこりして首領に言葉を返す。
「恐れながら、これは我が国に伝わる秘術ですから。他言は無用、そう言い聞かせられておりますゆえ」
「そうか。残念なことだ。でもまぁ、こうして押された印を目に出来ただけ、貴重なことと思わねばなるまい。この指輪の細工は、わたしにもはっきりと知れる。ガゼッタで一番有名な、彫りの技巧がふんだんに用いられた指輪だからな」
指輪を凝視していた首領は、やがて顔を上げた。
「して、どのようにセドまで行かれるのかな? セドは隣国とは言え、まだまだ遠い国。それにそなた自身にも、どうやら更なる追っ手が迫っているようだが」
「その件は私も耳にしております」
マリシュの言葉に、首領は僅かに頷いてみせる。
「のんびりとクポで旅をしている場合では、ないな?」
一瞬、首領の目がきらりと光を放ったように見えた。
「それはそうですが……」
マリシュが返事に詰まるが、首領もそれ以上は何も言わずに、ただマリシュを始め、皆の様子を伺っているようだった。リュウナは内心、それじゃあどうしろって言うのよ? と毒づいていたが、だからといってよい案が浮かんだ訳でもなく、だた成り行きに任せることしか出来ないでいた。
「そこで提案なんだが」
首領は少し身を乗り出した。
「ザッシュ、お前の話をもう一度、ここで聞かせてはもらえまいか?」
「はい、親父殿」
ザルクルーシュは真剣な眼差しで一同を見渡したかと思うと、おもむろに口を開いた。
「早駆けのラパで、短時間でセドを目指せばいかがだろうか? そうすればガゼッタからの刺客がこの地へ着く前に、セドへ辿り着けると思うのだが」
マリシュは表情を変えず、ただリュウナを振り返った。リュウナはひとつ、はっきりと頷き返す。
「大変にありがたいお申し出ではございますが、私達は不案内な身。そのような先を急ぐ旅を、無事に終わらせられますでしょうか、それが心配でございます」
マリシュの言葉を、ザルクルーシュは微かに笑って受け止めた。
「そこでさらに提案するのだが。俺はもちろん、アドもおまえ達と共にセドを目指してはどうだろう? 二手に分かれて」
「二手に分かれる?」
ついにリュウナが声を上げた。リュウナは慌てて口許を押さえたがあとの祭りだった。首領もザルクルーシュも、目を点にしてリュウナを見た。
「よほどマリシュ殿が心配なようだね」
首領は目許を和らげてリュウナを見た。恐縮してただ頷き返すリュウナに、ザルクルーシュがさらに続けた。
「ここまでの旅の中で、マリシュ殿が砂漠の旅に向かない方だと言うことは、よく解っている。それは無理もないこと。マリシュ殿はセドへの親書を認め、それを持ってリュウナとアドが先に行けばいい。俺とシャイラーンが、マリシュ殿を護りながら行く。それでどうか?」
それがこの上なく好意的な申し出だと言うことくらいは、リュウナにもすぐに理解出来た。しかしこれまで片時もマリシュと離れず、マリシュを護ることだけを目的としてきたリュウナには、酷な申し出でもあった。この期に及んで、何故マリシュと別に行かねばならないのか。マリシュとは離れられない。わたし以外に、誰がマリシュを護ると言うのだ――そう考え、それを口に出そうとしたとき、シャイラーンが静かな声で言った。
「いいえ、リュウナ。先に親書を届けることも、リーシュを護る、大事な手段のひとつなのですよ」
「シャラ……?」
シャイラーンはリュウナの瞳をやさしく見つめて、さらに言う。
「貴女は身のこなしも軽いし、ラパにとっても軽い女性を背に走る方が、負担が少なくより早く旅程を進められるのではないでしょうか? アドルが同道してくれれば、道も解るのだし。それに、リーシュの御身は、僕と、それからザルクルーシュ殿のお力をお借りして、必ず護ってみせましょう。それでも、不満ですか?」
最後に不満ですか、と問いかけるあたり、シャイラーンにはリュウナの性格がよくつかめていた、と言わざるを得ない。リュウナはシャイラーンと、それからザルクルーシュを信用していない訳では、決してない。アドルも同道者として、充分に信頼のおけることも解りきっている。ただひとつ、自分がマリシュと共に行けないことが、不満なのだ。
「……」
何も答えないリュウナに、ザルクルーシュがさらに言葉をかけた。
「それに、女がたった一人の男と一緒に先を急いだ、と解れば、追っ手を攪乱することも出来るはずなんだ。マリシュ殿が共の者を一人だけ連れて、焦って先を急いでいるのだ、と思わせることが出来れば、あとから行くマリシュ殿の身は、さらに安全になるだろう?」
リュウナは俯いた。皆の言う通りにする事が、どれだけ自分たちにとって有利に働くのかを考えて、それから自分に言い聞かせた。そうするのがいいんだ、と。マリシュがリュウナに歩み寄って、手を取った。
「ねぇリュウナ。わたし、そんなに簡単に死んだりしないわ。貴女だってそれくらいのこと、解っているでしょう? それに、わたしの一番の目的は、一刻も早くセドに現状を知らせて、国を取り戻すことよ。貴女の力が必要だわ」
マリシュの目は輝いていた。マリシュもまた、リュウナを心から信じてくれている。自分一人の我儘で、マリシュを困らせてはいけない――自分が、マリシュを護るんだ。リュウナはこくり、と頷いた。
「解った。あたし、アドルと先に行く。シャラ、ひとつ聞いても、いい?」
シャイラーンを振り返り、リュウナは固い声のままで尋ねた。
「リーシュは必ず、無事にセドに行けるのよね? 絶対に大丈夫だって、言って」
シャイラーンはリュウナの視線をしっかりと受け止めて、それからそうっと瞼を閉じた。数瞬の沈黙。その場のすべての視線がシャイラーンに集中した。シャイラーンは閉じたときとそっくり同じ早さで瞼を開くと、リュウナの揺れる瞳を見つめた。まずは微笑む。それから。
「もちろんです。リーシュは無事にセドに辿り着き、そして国はリーシュと、民の手に戻ります。そのためにもリュウナ、貴女の役割は重要だよ?」
シャイラーンの微笑みを受けて、リュウナもやっと歯を見せた。
「解った。シャラのこと、信じてるからね」
そのやりとりを横で見ていたザルクルーシュは、眉をひそめてアドルに尋ねた。
「今のは、いったい何なんだ? シャラ、って、どういう人間なんだよ?」
困惑気味のザルクルーシュに、アドルが向けたのは意地悪な笑みだった。
「見たまんまだよ。アイツは、本当にすごいんだ。――本当に」
その言葉を聞いてもなお、ザルクルーシュの困惑は去らなかった。そしてそこに込められたアドルの本当の気持ちに気がついた者は、その場に居合わせた人物の中では誰一人としていなかった。




