幸福の空間
「き、貴様、何をした? ……くそっ、頭がドロドロで溶けそうだ、呪いか?」
トルピードはこちらをにらんだものの、そのまま力尽きて講壇にもたれかかる。
信者たちががやがやと騒ぎ始めた。まずい、これではまるで俺たちのせいではないか。
トルピードは顔を伏せ、ふらふらと体を揺すっている。
何やらうめいているようだが、信者たちのざわつきで聞こえやしない。
「まずいな、逃げるか」
「え、ちょっと、イングウェイさん?」
俺はレイチェルの手を引き、後方にある扉へと小走りで駆け抜ける。
信者たちの座る椅子が並ぶ、細い通路だ。伸びた足をいくつか蹴飛ばし、邪魔だときつくにらみつけてやる。顔をしかめる信者を無視して先を急ぐ。
ムダに威圧感のある大きな扉。とても重たい。ぐっと肩に力を入れて押し込むと、ゆっくりと光の筋が差し込んでくる。
外に出ると、事情を知らない数名の職員が駆け寄ってきた。
「どうしたんです、まだ説法中では?」
「中に戻りませんか? さあ、一緒に行きましょう」
「うるさい、どけ!」
俺は寄ってきた信者たちを突き飛ばし、むりやり入り口へと向かう。
「ちょっと、イングウェイさん、はぁ、はぁ。早いです、足が。ひぅぅ、ちょっと待って」
「バカ言うな、ここで人に囲まれたら、それこそ逃げられなくなるぞ」
袖をつかんでくる信者を振りほどく。一般人だろう。力もないのだが、人数がそこそこ多い。まるでゾンビだな。
「めんどくさいな。仕方ない、≪撹乱≫×3」
追ってくる信者数名に、バレない程度の軽い撹乱の魔法をかける。
たたらを踏んだ先頭の数名が、回りを巻き込んですっころぶ。
俺とレイチェルは、今のうちに逃げ出した。
俺たちは少し離れた公園で、冷えたリンゴ酒を飲みながら休んでいた。
「はー、楽しかったー。でも、任務失敗ですね、途中で逃げちゃったし」
「まあ仕方ない、あの状況ではどうしようもなかったからな。しかし、わかったこともある。奴ら、やはりアレを使っている」
「あー、禁止薬物ですか」
俺はこくりと頷いた。あの甘い匂いで信者たちの判断力を奪い、自身の教えを染み込ませているのだろう。あたかもトーストにはちみつを垂らすように。
「どうするんですか?」
レイチェルは聞いてきた。
中毒性のある薬物を使って判断力を奪い、信仰を広める。
王からの依頼など関係なく、見過ごせるものではない。早めに何とかしなければ、悲劇が広がるだけだ。
「何とかしないとな。しかし、手が思いつかん。ことはそう単純ではない」
「えーと、警察とか? 王様からの依頼なら、そのまま報告すれば何とかしてくれるんじゃないんですか?」
「まあ、個人での犯罪ならそうだろうさ。けど、今回は規模が大きい。関わっている人間もな。そして相手が宗教団体ならば、強硬策はかえって信者の反発をまねく。弾圧だなんだといってな。
それに、問題は信者だ。頭を捕まえたところで、いきなり投げ出された信者たちはどうなる? 彼らは真剣にキャンポーテラ様とやらを信じているんだ。下手をすると、もっと悪い奴らに騙されるきっかけを作ることになるかもしれない」
そうだ。だいたい力で簡単に解決することならば、わざわざ俺みたいな人間に頼むこともしないだろう。
アサルセニア王も苦労しているようだな。
「うー、そうですね。……でも」
レイチェルは暗い顔をしていた。
「……イングウェイさんは、優しすぎます。そんなの、全員救えるわけないじゃないですか。一人で難しいことばっか抱え込んでたら、倒れちゃいますよ。私たちだっているんですから、そりゃ頼りないかもしれないけど、たまには頼ってくれませんか?」
彼女は膝の上で、固くこぶしを握りしめていた。ぷるぷると震える小さい手の上に、ぽとりと涙のしずくが落ちた。
――『まったくあんたは、何でも一人でやろうとする悪い癖があるんだから。もっとあたしたちを頼りなさいよ!』
はるか昔、仲間に言われた言葉を唐突に思い出してしまった。
やれやれ、その癖はまだ治っていなかったらしい。
「すまなかったな、今度からもう少しお前たちのことも考えるよ」
俺はレイチェルの頭をわしわしと撫でる。
「もう、子ども扱いして! そんなところがダメって言ってるんですよう」
レイチェルは涙を拭くと、とびっきりの笑顔でそう言った。なんだ、喜んでるじゃないか。
 




