ウージー
紫の靄を使用して、新福岡の安アパートへと至る。ドロシーの頭蓋骨を経由しているとはいえ、現実との壁を越えられるのは、精神体だからだ。
隣の部屋ではドロシーがまだまどろんでいた。彼女の朝を待つことなく、俺は教えられていた扉をすり抜ける。
部屋は、せまく薄暗く、うすら寒かった。
ただ、排ガスにまみれた世界の中で、その部屋の空気だけは澄み切っていた。
かつての俺の肉体は、ベッドに大切に寝かせられていた。
横たわる体には、魔術的な封印が幾重にも重ねられており、腐敗や浸食から守られている。
手を伸ばすと。実体のない右手は手ごたえもなく肉体を透過する。
温かい。
それは肉体の熱ではなく、魔力の鼓動だ。かつて手にしていた力の残骸で、これから戦うための燃料であり武器だ。
古びた書物を紐解いていくような慎重さで、肉体に残った魔力を探しあて、同調させていく。
ドロシーの残した魔術的な封印は、よく使われる類のものだ。順番に解除していき、肉体に入り込む。
最後の手順だ。瞳を開ける。指を、手を、足を動かし、ゆっくりと魔力の流れを感じ取っていく。
大丈夫だと判断して、ようやく体を起こす。
そこで初めて、ドロシーが部屋の入り口から自分を見ていることに気付いた。
「おかえりなさい、イングウェイ。待ってたわ」
「ああ、ただいま、ドロシー」
ドロシーに差し出された水を飲む。カルキ臭い、懐かしい味だ。アサルセニアでは、この不味い水は味わえなかったから。
ドロシーは言った。「さっさと始めるわよ。いくつか気になる問題について、あなたの用意した答えを聞かせてもらうわ。当然、用意してきたんでしょうね」
俺は一体どんな表情をしていたのだろうか。ドロシーは怪訝な顔で「どうしたの?」と聞いてきた。
「や、俺はてっきり君が泣くものだと思っていたから。慰めの言葉も考えていたのに」
ドロシーは薄く笑った。
「それならさっき済ませてきたわ。時間がないんでしょ? 早くするわよ」
彼女は強かった。俺はそんなこともすっかり忘れていたのだ。
俺は聞いた。
「インベントリの所有権は移せるか?」
ドロシーは首を横にふる。
「わからない、自信がないわ。私の血からはもうすでに、かなりの魔力が失われているの」
「ならばそのままでかまわない。想定の範囲内だ」
多くの魔術契約には、血が使用される。血液は純度の高い魔力を含んでいるから。
この世界の人間たちは、搾りカスのような魔力しか持っていない。濁った空気と錆に覆われたこの世界では、ろくに魔力を得ることができないから。
魔術師ドロシーですら、世界の理には抗えなかったということだろう。
「作戦自体は単純さ。君がインベントリを開き、俺がその入り口を固定する。そのまま君はダイヴして、肉体との絆を完全に断ったうえで、精神世界からアサルセニアへと移動する」
「で、あなたは抜け殻になった私の体をインベントリに突っ込んでから、一緒に戻ってくるってわけね」
「ああ、そうだ」
ドロシーは俺にも聞こえるほどの大きさで、ため息をついた。
「あなた、私がなんでこれだけ悩んでいるか知らないわけじゃないでしょう? ジャックのせいで、私は精神体まで汚染されてる」
「リーインベッツィの協力を取り付けた」
「え? リーインの?」
ドロシーは意味が分からないようだ。
「彼女は吸血鬼だろう。彼女の吸血のスキルには、対象を自分の眷属にする効果がある。それを利用して、一時的にでも、この世界からの汚染を薄められないか?」
「それは、……できる、かもしれない。でも、リーインは血が苦手なのよ」
「説得した。君さえ準備ができれば、紫の靄ですぐに来てくれる」
「そうなの。あのリーインが、ねえ。確かにやってみる価値はありそうだわ」
「じゃあ、そのあとは? 精神体のままでアサルセニアへ行ったところで、体がないと、インベントリは開けないわ」
「それも解決済みだ。レイチェルという死霊術師がいただろう。彼女のほうで、精神体を入れるためのゾンビーを用意している」
「えー、私、ゾンビになるの?」
「一時的にだ。インベントリさえ開ければ、すぐに肉体が取り戻せる」
「それでも、やだなあ。ちゃんと若い女の子でしょうね? 男の体になんて、絶対に入らないわよ。それならこのまま死んだ方がましだもの」
「まったく、そんなことにこだわっている場合ではないだろう」
ドロシーはにやりと笑った。
「でも、用意してんでしょ? とっておきの死体を」
「ああ、そうだな。とっておきだ」




