囁き、祈り、詠唱、念じろ
オーランドゥの魔術書、次元魔術の章。
実際に自分の目で見て初めて、なぜそれが不当な評価を受けていたのかを理解した。それは難解な詩なのだ。
次元の成り立ちは哲学書のように抽象的な表現に隠されていた。構築される魔法陣や付随する呪詞は、暗号にまみれていた。わざと回りくどく、文学的な表現が用いられていた。
高度な魔術的理解を持っていることが前提の、複雑な詩集だった。
読めば読むほどに、脳髄の隅々までソーダ水に浸されたように、感覚が冴えていく。
「イングウェイさん、あまり根を詰めると体に毒ですよ。ちょっと休みませんか?」
振り向くと、サクラが二人分の紅茶とシュガーポットを持って立っていた。
「疲れたときは、たっぷりのお砂糖を入れて飲むのがいいって、お母さんが言ってました」
サクラはそういいながら、カップに砂糖を入れ始めた。
あまり甘い飲み物は苦手だったけれど、今夜ばかりは素直に、サクラの母の教えに従った。
甘ったるい紅茶を飲みながら、俺はつぶやいた。「この魔導書は、悪魔が書いたのかもしれない」
「どういうことです?」
聞き返されて、俺は答えにつまった。それは感覚的なものであり、言葉でどう表現すればいいのかがわからなかったのだ。ただ漠然とした恐怖がそこにある。
「自分が自分でなくなる感覚がするんだ」
そう答えるのが精いっぱいだった。
自分の中に、もう一人の自分が構築されていくのだ。恐怖でもあり懐かしくもある「彼」が、すぐそこにいるのだ。
サクラは優しく微笑みながら答えた。
「よくわかんないですけど、イングウェイさんはイングウェイさんですよ。何も変わりませんって」
「しかし……」
「私だって、イングウェイさんに出会って変わりましたよ。前の自分ってなんだったんだろうって思うくらいに。私だけじゃありません、レイチェルだってマリアさんだって、みんな変わりました」
そういう意味ではない。俺は説明したかったけれど、否定の言葉は喉の奥で飲み込んだ。
「そう、なのかもな」
肯定すると心は楽になっていく。
少し道に迷いかけていたのかもしれない。大切なことは何だった? 決まっている、ドロシーを助けることだ。
サクラが言うことは的外れでも、騙されて楽になるのなら――。
そこで、俺はふと思い直した。なぜ、彼女の考えが的外れだと言える? なぜ自分が間違っている可能性を考えない?
そこまで自分はすべてをわかっているのか?
俺は、人より少し魔術が得意なだけの、一人の人間でしかないのだ。
「ありがとう、サクラ。俺は少し傲慢だったかもしれない」
「え? えへへー、褒められてます? わたし?」
「ああ、褒めている」
にへらにへらと笑うサクラ。
その呆けた空気にどれだけ助けられてきたことか。
俺はあらためて決意を固めた。サクラに確認しておきたいことがあった。
「サクラ、君は紫の靄を見たことがあったな?」
「え? ああ、ありますよ。ドロシーさんのところで」
俺は長い呪詛を唱えた後、腕をゆっくりと持ち上げた。両の腕の中に生まれた陰鬱な靄は、バチバチと発光しながらゆっくりと広がっていく。
「こ、これっ! イングウェイさん、これってあの!」
「ああ、そうだ」
「次元魔術って、これのことなんですか? すごっ、もう成功してたんですね!」
「いや、違う。似てはいるがな」
魔術書の次元魔術理論を参考にして、記憶をもとに、ドロシーの使っていた術を真似しただけだ。かすかに残っていた記憶から、あるいは呼び覚まされた記憶から。
微細な魔力振動を押さえながら靄を拡散させるにはコツがいる。よくもまあ彼女は、雑談交じりにこんな操作をしていたものだ。
落ち着きなく発光を続ける霧をぼんやりと眺める。
このまま次元を渡ることができないのは、ドロシーがすでに証明済みだ。精神と肉体に関する制限を取り払うには、このアプローチでは不十分なのだ。
だが、それでも、彼女は紫の靄で一時的な邂逅を果たした。
目標は、かつて暮らした新福岡へ? いいや、そこまでの強欲さはない。
まず目指すべきは、ドロシーの精神の中。かつて過ごした古城だ。
「私も行きたいです!」
「ダメだ」
「でも、ドロシーさんを助けないと!」
「ダメだ、サクラ」
俺は再度否定し、説明した。
今から行くのは、現実世界ではない。ドロシーの精神世界だ。ドロシーの心の内側であり、頭蓋骨の内側だ。
安定など望むべくもなく、万が一の対応には、高度な魔法技術も必要だ。
俺は精神体だけで移動する。万が一に備え、肉体を守ってくれる相手が必要だ。
滔滔とそれらしく並べた理由は真実ではあるものの、ほとんどが言い訳だ。
俺以外の人間が許可なくあの場所に入ることを、ドロシーがよしとするわけがない。
「うー、仕方ないです。じゃあ、ここでお留守番してますー」
「頼むぞ。思ったよりも長い時間、留守にするかもしれない。みんなにはうまく言っておいてくれ」
俺は紫の靄を維持したまま、右手で空中に魔法文字を描いた。
霊体の固定化を補助する術だ。
すべての準備を整えると、俺の精神体は靄へと足を踏み入れた。
 




