狼と鴉亭-2
~アリサ~
イングウェイさんの工房を後にした私は、午後からの仕事のために、冒険者ギルドに急いでいた。
指輪の呪いについては、正直なところあまり期待はしていない。だめで元々というやつだ。それよりも、マリアさんと仲良くなれたのが嬉しかったかな。
スターキーについても、「ボクもお店に行ってみるよ。また今度、相談しよう」と言ってもらえた。イングウェイさんは、モテモテな上に、男性だ。こういう相談はやっぱり女の子同士じゃないとねえ。うまくいくといいなあ。
「お疲れ様でーす。遅くなってすみませーん」
「おうアリサちゃん、今日も可愛いねえ」
ぞわわっ。
「ひゃっ!?」
「ん、どうした?」
「あ、いえ、何でもありません……」
びっくりした。急に耳の奥にぞわっとした感覚があって、なんだったんだろう、今の。
気を取り直して仕事モードに頭を切り替える。
「あ、こんにちは、トニーさん。先日の依頼報酬の計算が終わってますよ。すぐ持ってきますね」
「おう、ありがとう。いつも助かるぜ」
ぞわわわっ。
「あひゃあっ!」
なにこれ、絶対おかしい! なんで?
この耳の奥をくすぐられているような感覚。くすぐったくて、気持ちよくて。
…ちょっと癖になりそう。
「おう、アリサちゃん、この書類たのむぜ」
「それ終わったら、こっちもな」
「はーい、すぐいきまーす」
いけない、今は仕事に集中しなくちゃ。
でも、でもっ!
「きゃっ」「いやぁん」「あはんっ」
だんだんと気持ちよくなってきている私。鼓動は激しくなるし、息は荒いし、なんだか汗までかいちゃって。
これじゃまるで、痴女じゃない!
へろへろになりながら書類棚につかまり、分厚い書類の山を手に取る。とそのとき、私の体は完全にバランスを失っていた。
「あっっ!」
がしっ!
「ん、どうした、危ないぞ」
ふらつく私の肩を抱き、支えてくれたのはギルド長だった。
「ギ、ギルド長ぉ~」
「大丈夫か、アリサ。無理だけはするなよ。このギルドは君で持っているようなものだからな。はっはっは」
その日一番の衝撃が、私を襲った。
「あひぃ、ひゃぅぅ、ああん…っ」
なぜ気づかなかったのだろう。こんなにも私に優しくしてくれる人がすぐ近くにいたというのに。
◇◇◇◇
「うわー、ギルド長、えぐいタイミングで手を出しちゃったなー。アリサ、とろけちゃってるじゃん」
「うむ、うまくいったようだな。ギルド長に根回しして、アリサファンの冒険者たちを集めておいてもらったのが役に立ったようだ」
ジャニ・アランには申し訳ないが、アリサの愛はしっかり受け止めてもらおう。
俺にアリサをぶん投げたんだ、ぶん投げ返されても文句はなかろう。
「そういえば聞いてなかったけどさ、なんでそもそもアリサの恋愛相談に乗ることになったの?」
「ああ、実はかくかくしかじか」
「ふむふむ。じゃあ、その魔術書のページってのは、まだ手に入れてないんだ?」
「そういえばそうなるな」
しまった。途中から恋愛相談に脱線したため、目的を完全に忘れていた。
「別に女子トイレの魔術書を回収するだけなんでしょ? ボクが代わりにいってあげるよ。『狼と鴉亭』だっけ?」
「いいのか? 助かる」
「気にしないで。ボクだってたまにはいい思いしたいしねー」
「いい思い、とは?」
「あっ、気にしないで。こっちのことだから」
その夜、俺は『鴉と狼亭』の近くの公園でマリアを待っていた。
同じ家に住んでいるのだから一緒に家を出ればいいのだが、マリアには何やら用事があるらしい。やけに強く拒否されてしまった。
「お待たせ―、イングウェイ。待たせちゃった?」
「いや、気にするな。今来たところだ。……マリアか、君は?」
「へへー、そうだよ。似合ってる?」
マリアが身に着けていたのは、深い紺色のワンピースだった。彼女はいつも服装に気を遣わないイメージがあったので、スカート姿を見たのは初めてかもしれない。彼女のゾンビ色の肌も、ドレスに映えて白く輝いていた。
「あ、ああ。珍しいな、そんな服で来るなんて」
「えへへ、たまにはね。ほら、早く行こうよ」
マリアが腕を組んでくる。いつもの死臭ではなく、花のような香水の香りがした。
店に入るとあいかわらずやかましい演奏が鳴り響いていた。スターキーのバンドは、本日は来ていないようだ。
「ねえ、たまにはおしゃれなカクテルが飲みたいなー。インギー、何かいいの知らない?」
「ん、悪いな。こういう店にはそんなに詳しくないのだ」
「じゃあいいよ、いつも飲んでるやつで」
こんなところで飲むのにふさわしいかはわからなかったが、俺たちのリクエストはウイスキーのロックだ。相変わらずの。
グラスを軽く合わせる。マリアはステージを見ながら、ゆっくりと飲んでいた。横顔を見ていると、血も涙も流れていないはずのマリアの頬が、うっすらとピンク色に染まっているように見えた。
不意にマリアと目が合った。
「もう酔ったの? 顔、赤くなってるよ?」
「あ、いや、そういうわけではないのだが」
いや、酔っているのかもしれない。少しだけ鼓動が早くなっているのに、自分でも気づいていた。
「ねえ、魔術書を回収したら、すぐ帰っちゃう?」
「いや、せっかくだから少し飲んでいこう」
「やったー、インギー、大好きー」
抱き着いてくるマリアの心臓は、本当に動いていないのだろうか。動いていないとすれば、この激しい鼓動は、本当に俺一人が生み出したものなのだろうか。酔いのせいにするには、まだ少し酒が足りなかった。
「ふー、今日はたくさん飲んだなあ。インギー、付き合ってくれてありがとうね」
「かまわないさ。マリアはいつも工房にこもりっきりだからな。たまには外に出るのもいいものだろ」
「うん。 あ、これ、魔術書ね。さっきトイレに行ったとき、ついでに回収しておいたよ」
「すまない。あとで確認しておこう」
「今じゃなくていいの? 外れかもしれないよ」
「君のドレス姿を見られたんだ、今日は幸運な日に決まっている」
「やだなあ、もう。恥ずかしいよ――あ… イン…… 」
ちょうどそのとき、ステージ上の演奏が激しさを増し、マリアの声を遮った。
すまない、もう一度言ってくれ。だが、俺の言葉も届いているかわからない。
マリアが身振りで、耳を貸せと訴えたのがわかった。
俺は身をかがめる。マリアは、俺の耳元でやさしく囁いた。
「大好きだよ、インギー」




