魔力の雫
イングウェイの転生術を見届けた後、ドロシーはすぐに自分の精神内の古城に戻った。
水晶で象られた大きな鏡の前に立ち、急いで長ったらしい幾つもの呪文を唱えた。
今までにないくらいに頭は冷え切っており、複数の心配事を同時に考えながら、解決策を模索した。
複数の『置換魔術』を重ねた上で『遠隔視』の魔術を唱える。もちろんそれぞれに『二重交差』と『魔力隠遁』を丹念に織り込みながら。
ドロシーの魔力は紅茶に落とされたシロップの雫のように、イングウェイに混ざり込んでいた。それは大海に泳ぎ出す鯨に着けたビーコンだ。いつもより念入りに、深く、魂にまで食い込むほどに刻み付けた。
あらかじめ準備さえしてあれば、自身の魔力をたどることなどドロシーにとって造作もないこと。それがたとえ、高次元の壁があったとしても。
本気になったときのドロシーの魔法技術は、実際のところイングウェイの認識をはるかに超えていた。精神や情報、隠蔽などの技術に関しては特にだ。
イングウェイの計画を聞いたとき、ドロシーの頭に浮かんだ一つの心配。それは、転生時の女神の介入だった。
ふらふらと精神世界をさまようイングウェイを見たとき、女神は素直にそれを見過ごすだろうか。
それはとても楽観的な判断だと言わざるを得ない。
ドロシーは女神に戦いを挑むつもりだった。
もちろん勝算無しに、愛する人を送り出すつもりはない。
彼女はつぶやく。
「神と人との差が魔力量の差だけならば、奴らの宮殿はガラス張りの楼閣だわ」
彼女は二度転生し、女神と邂逅を果たしている。わずかな時間、わずかな会話ではあったが、ドロシーなりにいろいろなことを確認していた。
一つは、女神らの技術レベルについて。魔力量こそ差があれど、魔法技術についてはほとんどが既知の理論を使用したものだ。
例えば別世界への転生時に、自分の肉体が新しく再構築されていることにドロシーは気づいていた。荒唐無稽な話に見えるが、膨大な魔力消費を前提にすれば、ドロシーにも再現できることだった。
そしてもう一つが、いかに女神とはいえ脳内を覗くことまではできないということ。
つまり外部にはつながっていない、彼女の精神の内側であるこの古城の中でのことは、いかに神といえど覗くことはできないのだ。
――「面白いことを考えるものね、人間って。お酒を取り上げたのに、まさか自力でここまで来るとは思わなかったわ」
鏡の中で、忌々しい女神が喋っていた。イングウェイの放つ火球はあっさりとかき消され、女神は話を続けていた。
「ああ、イングウェイ。イングウェイ。すぐ助けるから。もう少しだけ、我慢して」
血が滴るほどに唇を噛み、ドロシーは待った。今出ていけば、すべてがぼろくずのようにダメになる。
イングウェイの決意すらも。
女神は腕を振り、彼の記憶をはがしていく。
ドロシーは、吐きそうになるのを必死でこらえていた。しっかりと目に焼け付けていた。
そして彼の魂が女神の宮殿を離れて精神世界を浮遊し始めたところで、ドロシーは魔術による介入を行った。
目指す地はもちろん、アサルセニアだ。
ドロシーは、イングウェイのことを愛してしまっていた。リーインとの約束は大切で尊いものだったが、いつしかイングウェイはそれ以上の存在になっていた。
リーインの十分の一の時間も過ごしていないというのに、ドロシーの心はすでに、芯まで彼に捧げられていた。
ドロシーは思う。イングウェイは、それをわかっていたのではないかと。
リーインと再び会いたいという気持ちが消えたわけでは無い。ただ、これ以上イングウェイの隣にいると、自分はリーインのことを心の片隅に片づけてしまい、彼とこの新天地での暮らしを選んでしまうだろう。
それをわかっていて、ギリギリ私が踏みとどまれるところで、彼は今回の計画を切り出したのだ。
ドロシーはそう理解していた。
彼の覚悟に全力で答えるのだ。そして、自分がアサルセニアの地に戻ったときには、彼に自分のすべてを捧げようと、ドロシーは強く誓った。
 




