ウェブ・アレルギー
~新福岡~
床に描かれた直径3メートルはあろうかという多重魔法陣は、イングウェイの魔力に呼応してゆっくりと不規則な明滅を続けていく。
「いいわ、そのままゆっくり続けて。こちらも合わせるから」
ドロシーも空に複数の魔法陣を描き、同時に起動させていく。緻密な制御が必要な作業を、顔色一つ変えずにこなしていく。
魔法陣の中心に立つイングウェイは、目を閉じたまま作業を続ける。ドロシーの魔術の腕を信じ切って任せているのだ。
不自然に、壁の一部がうねった。空間が歪んでいるのだ。ぼんやりとした歪みは徐々にはっきりした溝になる。ドロシーはざわつく胸を抑え、慎重に魔法陣に魔力を注いでいった。
パキッと硬い破裂音がして、空間に鋭いヒビが入った。が、一瞬だけだ。すぐに風に吹かれる砂のように消えていく。
同時に、魔法陣を包む魔力光も消失した。
「はあ、また失敗ね」
失敗にいちいち落ち込んでいた時期はとうに過ぎた。それでも、イングウェイと二人でならという淡い期待はあった。
いや、何をばかな。まだ始めたばかり、試していないことはたくさんある。これからなのだ。
なかなかうまくいかないドロシーの焦りとは裏腹に、イングウェイは心地よいものを感じていた。
魔術の分野において、かつて彼は世界の頂点だった。戦闘で近いレベルのものと競い合ったことはあっても、安心して他者に背中を預けられるというのは、彼にとって初めての経験だった。
彼は幸せを感じていたのだ。
だからこそ、彼女の願いをかなえたいという気持ちも本物だった。
身を犠牲にして彼女の願いが叶うなら、それでもいいと思うくらいに。
「おそらく、根本的に魔力量が不足しているのよ」
多数の次元が重なり合う多元宇宙だが、それぞれの次元の位相は強い力で反発しあい、重なり合うことはない。そうでなければ、次元同士の衝突という事故がもっと頻繁に起こっているはずだ。
つまり、各次元の壁を超えるには、その強い力を超えるエネルギーが必要にになる。
彼女の次元跳躍の術の理論の一部であり、今現在一番のネックとなっている部分だ。
「すまない、俺の力不足で」
「違うわよ。個人でどうこうできるレベルじゃない、文字通り桁違いの量が必要なの。これを解決できるやつがいたら、そいつは神か悪魔ね」
実際に次元の壁にヒビが入りかけたという事実自体、恐るべきことなのだが。彼女の目的には、それだけでは程遠い。
「機械の力を借りるというのは? 膨大な電力を使用できるなら、空間の固定化の段階まで進めるかも」
「ダメよ、絶対に」
「しかし、他に方法はないだろう?」
ドロシーはうつむいてしばらく考えていた。
「精神世界からなら、可能かもしれない。それは前から考えていたのよ。ただ肉体が持っていけないのが問題なんだけど」
「もう一つ問題がある。俺はダイヴマシンに弾かれるぞ」
イングウェイは、”穴”を持っていない。
ドロシーの夢を経由してダイヴすることはできるが、それはあくまでドロシーの精神の範囲内での行動、いわばオフラインの状態だ。
外部に接続しようとすると、ダイヴシステムから弾かれてしまう。
ドロシーは『ウェブ・アレルギー』と呼んでいた。
「いっそ、俺も”穴”を開けたらどうだ?」
「だめよ!! 絶対にだめ! それだけはさせないわ」
「しかし、他に方法が」
「……ないこともないのよ。お酒を使って、その上で私のダイヴに相乗りさせるの。それでウェブアレルギーが回避できるはずよ」
「酒だと? 何のために?」
「何のためにですって? あなた、お酒が何のためにあるか知っている?」
質問を逆に返されたイングウェイは戸惑い、答えに詰まった。
「人類ははるか昔から、魔力や知能を働かせ、進化や変革を起こしてきた。そしてそれには、強い直観や閃き、魔力反応。意志の力。様々なものが必要なの。それらが混ざり合い、引っ掻き回し、飲み干して消化してやっぱり吐き出して。そうしてやっと、一握りの力の本質が残るの」
理解はできる。自分も力を求めるときは、いつも死と隣り合わせのギリギリの戦いの中だった。
血にまみれ、血を吐き、痛みを酒で紛らわせていた。
「わかる? そのために、酩酊状態が必要なの。酔いは、精神を一段階上の世界へと引き上げるわ。お酒は、精神世界に至るために、神が用意したアイテムなのよ」




