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Badlands

 ヤニ臭い部屋だった。カビ臭い布団に振りかける消毒薬はなかった。

 男をベッドに投げるように横たわらせ、その上に跨った。

 まるで吸血鬼が噛みつくかのように、男のうなじをあさっていく。



 ない。

 ない。


 ない。


 ”(ジャック)”は、存在しない。


 あるのはただの(フレッシュ)だ、金属(メタル)ではない。



 ドロシーは喜びに叫びたくなるのを押さえ、彼に優しく呪文を振りかけていく。

 金粉の粉が舞い、彼の頬に薄く積もる。


 彼女の開発した『金の鱗粉(フェアリー・パウダー)』は、体力やケガではなく、精神を癒す術だ。


 空虚なる精神に水を注ぎ、斧の突き立てられた大樹の幹にコーキング材を流し込むのだ。

 ドロシーは先ほどまでと打って変わり、優しく彼を癒した。細心の注意を払い、優しく。


 男のまどろみはゆっくりと薄れていき、やがて目を覚ます。

 彼の目に最初に入ってきたのは、自身に馬乗りになる妖艶な美女。肉感的なふくらみは重力に抗う気はないようで、彼の胸にずしりとした感触を与えていた。


 君は誰だ、と彼は聞きたかった。が、思考の中で単語がつながることはなかった。

 彼が自分を取り戻すまでには、まだいくばくかの時間が必要だった。


 それでも、

 沈黙のあと、たっぷりと見つめあったあとで、彼は目の前の女の名前を発した。


「ど、ろ、しぃ」


 ドロシーは、優しく微笑んだ。

「いらっしゃい、イングウェイ。ようこそ、このクソったれな地(バッドランズ)へ」


 イングウェイがドロシーの名を知っていたのは、記憶の混濁のせいだった。

 ドロシーが彼の記憶を、脳内を覗き見たときに、彼の脳内に彼女の記憶も移ったからだ。

 かといって、イングウェイが彼女の苦しみを、この世界の成り立ちや社会の仕組みをそれだけで知れるほど、交錯は長くはなかった。


「きみは、 だれ、だ」


 息も絶え絶えの老人のような声で、イングウェイは尋ねた。

 ドロシーは言う。

「魔術師よ、あなたと同じ」


 ドロシーとイングウェイの故郷はまるで別の世界だったが、魔術があるという一点において、共通していた。

 彼は彼女に強い共感を抱いたし、彼女は彼を必要としていた。


 何から話すか――当然ドロシーは決めていた。何度も何度も頭の中で繰り返(リピート)した手順だ。


「よく聞いて。”(ジャック)”は開けてはいけない。ダイヴシステムは、あなたの力を失わせる」


 ジャックとは。ダイヴとは。それらの説明なく、ドロシーは述べた。それが一番大切なところだからだ。


「現実を見据えなさい。あなたは、この世界の異物(ミスフィッツ)なの」


「……酒を、くれ」

 イングウェイは言った。

 鉛のように重たい体は、いまだ見知らぬ女に組み伏せられたままだった。

 渇き。そうだ、まずは喉を湿らせる。それからだ。

 カラカラに干からびた喉、埃っぽい空気はイングウェイを咳きこませる。

 女は唾がかかるのを気にもしていないようで、じっとイングウェイの瞳から目を離さなかった。瞬きの一瞬すら惜しいと言わんばかりに、瞳の奥にある脳髄を透かしてみようとするように。


 ドロシーは、冷たく言い放った。

「この世界に、酒は存在しないわ」

 その言葉は理解に時間がかかる。比喩か? 何の比喩だ。聞き間違いか、それとも彼女の勘違いか。


 そして彼女はもう一度、言い直した。

「いい? 私は、ここ数年、酒を飲んでいない。酒がないから、飲むことができない」


「誰が飲み干したんだ?」


 ようやくイングウェイから、まともな返答がやってくる。


「ちがうわ。生存競争に負けたのよ。世の中の大抵の娯楽は、ダイヴマシンに駆逐されたのよ」


「セックスもか?」


「したいの? 別にいいわよ。ただ、穴だけは開けさせないわ」


 イングウェイは彼女の柔らかな体を優しく押しのけると、ベッドの上で座り込んだ。

 頭をふるが、思考の靄は消える気配はない。


「俺は、どうした? 死んだんじゃなかったのか」

「あなたは転生(リインカネイト)したのよ。転生術、聞いたことは? オクローヌの魔導書は読んだ? 生命波動(ライフストリーム)を利用した魔術の使用経験は? あなたの世界の魔術構築法がわからないけれど、話してくれたら、理解できるかも。私も魔術には自信があるの」

「うるさい、一気に喋らないでくれ。頭が割れそうなんだ」

「あ、……ごめんなさい、私、夢中で」


「話してみろ、この世界のことを。いや、まずは水だな。喉が渇いて仕方ない。水くらいはあるんだろ?」


 泣きそうになっていたドロシーの顔が、少しだけ明るくなった。

 この男は希望だ。だが、希望を生み出すための単なる苗床ではない。はっきりとした意志があるのだ。

 そのことがわかり、安心した。


「ありがとう。素敵ね、あなた」


「別に、なんてことはないさ。昔から厄介ごとを持ってこられるのには慣れてるんでね」


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