Blank Brain
濁った空気が錆とコンクリートで覆われていた。鳥の巣が散らばっていた。
ドロシーが転生したのは、新・福岡。ドロシーの不幸は、転生したときに記憶をすっかり失っていたこと。
彼女が転生前の記憶を、そして魔術を取り戻したのも、不幸にも『ダイヴ』の中だった。
ごらんよ、これが火喰い鳥の去った後の世界だ! 誰かが大声で叫んだ。
別にその程度のことで、誰も足は止めやしない。皆重苦しく、地面を見ながら歩いている。
『太陽の価値は、すでに失われた! 神は死んだ、その次は太陽なのだ! だが君たちは、それでよいのか!』
やかましいメガホンが、腐った汁のような声を垂れ流す。
「よいわけねえだろ、カスめ」
唾を吐きながらドロシーは言った。
閃光教団とかいう名前の、腐った新興宗教だ。
何がむかつくかって、奴らの教祖はおそらく転生者だ。
会ったことも聞いたこともないが、やつらの教義や主張を聞いていれば、ピンときた。
『太陽とともに、我々は魔の力を失った! おお、アーキテクチャの悪魔が我を殺しつつある。短剣はゆっくりと、確実に肉を裂いている』
一息つき、音量を一つあげて、叫び声。
『いま、まさに!!』
火球をぶつけたくなる衝動を必死に抑え、心臓を握縮してやりたくなる衝動を必死に抑え、氷柱で脊椎を二本に増やしてやりたくなる衝動を必死に抑え、硫酸をぶっかけてやりたくなる衝動も抑えたころで、
ドロシーはやっと声が届かないところまで歩きつく。
暗い裏路地を歩く女に声をかけてくるのは、電脳中毒者しかいない。
「おう、姉ちゃん、揉ませろよ。あれだあれ、ダイヴよりも気持ちよくしてやるよ。ほら、俺のジャックは根元がいかれちまってんだ、相手してくれたっていいよなあ?」
ドロシーは一瞥もせずに、『昏倒』の術をかける。巻き添えを食った哀れな中毒者数人がぶっ倒れる。
この世界の人間の魔術的抵抗力はゼロだ。これでも十二分に手加減はしてやっている。
彼女が向かっているのは、ここから三百メートル先の公園だ。
待ちに待った魔力反応。高ぶる心を抑えてはいたが、それでもその足が早まるのを止められなかった。
期待外れの可能性は? もちろんあるさ。なんせ始めてから10年近く待って、反応したのは初めてだ。大丈夫、あのときのジェリー・エーマンよりは落ち着いてる。きっと。
このクソ世界でこれを感知したのは何人いるだろうか。いるはずがない? そんな馬鹿な。
希望は持つな、この世界にきて何度裏切られたか思い出せ。
魔力を感知するものがいなくても、電波の乱れなどの痕跡はのこるかもしれない。
もっと言えば、クソカメラどもが一匹の蟻の労働状況まで監視しているのだから。
それでも、辺りをがれきの山に火の海にしたとしても、ドロシーは彼を手に入れるつもりだ。
手に入れて見せる、やっと見つけた転生の手掛かりだ。
公園の端の茂みで、赤毛の男が倒れていた。
ぼろ布のようなくそったれな外套を身に着けて。
「ふふっ、ついに見つけた」
外套だとよ、くそったれの女神よ。
ざまあみろ、私は見つけたぞ。いつかてめえの顔を腐った豆みたいなゾンビ色にしてやるわ。
女は高笑いを押さえるのに必死だった。
ドロシーは男に声をかけた。
揺さぶり、叩き起こした。
男はうめき声をあげるのみで、なかなか覚醒はしなかった。
迷いもせず、魔術で脳と記憶をリンクさせる。泥水の中に魚の腸を落とすのだ。ドロシーの記憶も彼に流れ込むことになるが、気にもしない。
荒っぽいのは承知の上だが、ここで彼をゆっくりと説得するほど暢気ではない。
彼の記憶は空白に支配されていた。空白があるのではない、空虚が支配するのだ。
きっと私の脳髄も、最初はこうだったのだ。勘で決めつけてしまうが、外れとも思えない。
ドロシーはゆっくりとあたりを見回し、自分を見ているものがないかを確かめる。
力がいる。魔力をゆっくり体に巡らせる。別にこの程度の男を抱え上げるくらい、造作ない。
男に肩を貸すと、ぼろ布に詰まった小麦を持ち上げるように、丁寧に、引きずる。
現実的ではない。彼をこのまま、私の家に連れていくのは。
安宿はすぐだ。ちょうどいいだろう、どうせ傍から見れば中毒者と娼婦だ。立ち寄るにはちょうどいい。
ここが新・福岡の大都市ということも幸いした。肉体的接触者に誰も気にも留めないのだから。




