01 影色の獣と少女
「ん……ぅ……?」
意識の浮上に身体が反応し、自然と目蓋が開かれる。
深い眠りから覚めるときの、まどろみと覚醒との間で意識が揺れる感覚。
それが覚醒の方へ振り切れるまで、ぼうっと、薄暗い視界を占める緑色を眺めていた。
……ああ、眠っていたのか。
と、思考が回り始めたところで、ようやく違和感を覚え、慌てて体を起こす。
地面に手を着くときに、さわさわとした感触。
見てみると、地面に背の低い緑色の雑草が生えている。
一面に生い茂るそれは、一部分だけ押し潰されていて、そこに自分が今まで横たわっていたのだと分かる。
さらに周囲を見渡すと、暗い色の木々が乱立し自分の周りを囲んでいた。
どれも背が高く、上を見上げると、葉を広く茂らせて日の光を遮っている。
ここはそんな中でわずかに木が少なく開けた場所であるようだ。
……森の中、ということだろうか。
実際に森に入ったことがないので、なんとなく自信がないけれど。
学園の周りはけっこう都会っぽい感じだからなぁ。
……というか。
「……ここ、どこ?」
思考がちょっと脇道に逸れかかったが、そもそも一体ここは何処なのか。
しかも何故こんなところで自分は眠っていたのか。
今自分が置かれている状況に、思考が追い付いていない。
「えっと……?」
額に手を置き、とりあえず何か思い出そうとしてみる。
……が。
「頭がズキズキする……」
記憶を手繰ろうとした途端、頭に鈍い痛みが走る。
気分も悪くなり、軽い吐き気がしてきた。
……どうにも体調があまり良くないようなのだけれど、それでもどうにか思い出すことに注力する。
「たしか、授業を受けようと教室に向かっていたような気がする……」
――そう、それだけは覚えているのだが、その前後のことをどうにも思い出せない。
「でも外にいるってことは、課外活動中だったのかな……?」
学園の外に出るというのはそれ以外ではほとんどないし。
うぅ…なんか混乱してきた……。
あと頭痛い、結構痛い……。
頭痛がさらに酷くなり、思わずその場にしゃがみ込む。
ギチギチと、頭を万力で締め付けるような痛みを、うずくまって耐える。
何も考えないように、出来るだけ無心となってやり過ごす。
……。
……。
……数分後、ようやく痛みが少し引いてくる。
恐る恐る立ち上がるが、軽い立ちくらみを感じた意外は、ひとまずのところは大丈夫そうだ。
「うーん……」
どうやら何か思い出そうとすると、頭痛が酷くなるようである。
「しばらくしたら治るかな……?」
……とりあえず一旦、記憶を辿るのは諦めて、現状の把握をすることにした。
まずは、自身の様子を軽く観察してみる。
着ているものは白いシャツに黒を基調としたブレザーとスカートで、自身が所属する学園の制服である。
まあ教室に向かっていたはずだから当然といえば当然である。
首元には同じく学園から配布されるチョーカーが巻かれている。
「……ん?」
確かめるようにチョーカーに手を当てると、違和感。
「んん?」
さらに様子を確かめるように指で撫で回してみる。
見た目はただの黒色のシックなチョーカーなのだが、位置情報を学園に知らせるなど様々なハイテク機能が備わっている。
……のだが、なんとなくいつもと様子が違うような気がする。
まさか壊れているようなことはないと思うけれど……。
確かめる方法はあるにはあるのだが、あまり良い手段ではないだろう。
特に今の状況では。
「所持品は何も持ってない、か……」
胸元やスカートのポケットを探ってみても、何かを身に着けている様子はない。
まあ、普段から特別何かを携帯する習性がないから、それはいいのだけれど。
「……あれ、そういえばカバンもない?」
いつも教科書を入れているカバンを持っていないことに気づく。
先ほど周りを見回したときも、近くに何かが落ちている様子はなかった。
「うーむ……」
どうにも分からないことだらけで、思考がまとまりそうもない。
何故こんな場所にいるのか。
何故こんなにも記憶があやふやなのか。
頭のもやもやとした感じも晴れる様子はなく、先ほどみたいに酷くはないが、微弱な頭痛が思考を生温く阻害する。
「……まっ、分からないのはしょうがないか」
これ以上悩んでいても大した答えが出そうにないので、ひとまず考えることを止める。
元々、自分が置かれた状況を、あまり深く考えない性格なのだった。
さて、過去のことは一旦置いておくとして。
「これからどうしよう……?」
考えるべきは未来のこと……と、言うより、目下どう行動するかである。
まず自分が今何処にいるのかがまったく分からないのは問題だ。
せめて何かヒントになるものがあれば良いのだけれど……。
「周りは……とても自然に溢れている……」
それ以上でも以下でもなかった。
「流石に日本の何処か……だよね?」
それすらも確信が持てない状況である。
……とすると、どうするか。
学園や他の誰かが探しに来る、という可能性に縋ってここに止まり続けるか。
それとも……。
「進んでみるしかない、のかな?」
正直、このままこの場にいても、状況が変わるとも思えないし。
助けを期待して待つには、分からないことだらけで、どうにも落ち着かない。
「でも、遭難したときに無闇に歩き回るのは危険だって聞いたことがある……」
そもそもこの状況を遭難と呼ぶのかどうなのかは分からないけれど。
理性はそんな常識を思い出すが、心の方は今すぐ動きたくてソワソワしてしまっていた。
こんなに沢山の自然に囲まれるのは初めての経験なので、周りを色々とこの目で確かめてみたい欲求が沸いてくるのを抑えられない。
つまりは、ピクニック気分であった。
……危機感の著しい欠如である。
でもまあ、どちらにしても何かしらの決断は必要なのだ。
……進むか、現状維持か。
うーん……。
……。
……。
……よしっ。
――進んでみよう。
どうせ正解の分からない選択肢ならば、自分の欲求に従った方が後悔も少ないだろう。
……まあ、慎重に歩を進めるべきであることは意識しておいて。
方向を適当に決め、歩き出すことにした。
――本当はかなり深刻な状況なのだとは思うけれど、妙に楽観的ではあった。
いつもとは違う環境に囲まれているからかもしれない。
そういえば友人に「緊張感のないやつ」と言われたことがあったような。
そんな記憶が頭をよぎった。
――鈍い頭痛を伴って。
---
暗い森の中を歩き続ける。
道と呼べるものはなく、木々の間を通り抜けながら進んでいく。
地面は所々木の根が盛り上がっているところがあり、少し歩きにくい。
普段人があまり立ち入らない森なのだろうか。
観光名所とかだったらそれらしい道や看板があると思うし。
森を歩く経験がないこともあり、あまり進むペースは速くない。
体力には自信があるから、今のところ問題はないけれど。
「……痛っ!?」
突然の痛みに振り返ると、木々の隙間を通り抜けるときに、自分の髪が木のささくれに引っかかってしまっていた。
黒い髪を腰の辺りまで伸ばしているため、余計引っかかりやすいのだろう。
「うぅ、気をつけないと……」
引っかかった髪の毛を外して、慎重に歩を進める。
そういえば先生にも言われたことがあったな。
――長く伸ばしていると、課外活動の時に邪魔になるのでは、と。
確かにその通りかもなぁ……とは思ったけれど、長く伸ばしたこの髪は、僕の数少ないこだわりのひとつであるから、切ろうとは思わなかった。
まあ、今までそれで特に問題はなかったので、あまりうるさく言われなかったけれど。
しかし、流石にこんな状況は想定していなかったなぁ……。
そもそも都会の学生である僕が、森の中で活動することを想定することはまずないのである。
と、そういえば何かを思い出しても頭痛がしていない。
けど頭の調子が直った様子はなく、頭はまだ寝ぼけた状態が続いていて、能動的に思い出そうとするとまた痛み出しそうな雰囲気を醸し出している。
……一体どうなっているのだろうか。
医学の知識には疎いので、どうにもよく分からない。
……まあ、いいか。
こうやって少しずつ自然と思い出せてくるだろう。
「それにしても……」
今、僕は、すごく自然に囲まれているんだなぁ……と思った。
……恐ろしく平凡な感想である。
しかも歩き始める前から抱いている感想である。
……でも、僕にはそれが何故か特別なものに感じた。
学園の周りには、それなりに大きい公園もあり、そこにも草木や花があるのだが、この森はそういった整備されたものとは異なる印象を受ける。
草木や土の匂い、そして周りを取り囲む緑色がそれぞれ嗅覚と視覚に強烈に刺激を与えてくる。
意味もなく周りを何度も眺めてみたり、深呼吸を繰り返してみたり。
そのたびに妙な高揚感が湧き上がり、心なしか足取りも軽くなってくる。
……と。
「……あれ?」
突如、前方の視界が明るくなる。
「何かが……光ってる?」
その光はしばらくの間森の中を照らした後、収まっていく。
「今のは……?」
自然現象……なのだろうか?
それとも、人工的な何か?
あるいは。
「……人が、いる?」
そんな可能性も、ゼロではない訳で。
……なんにしても、前方に何かがあるのは確かである。
変化のない森の中(楽しんではいたが)、訪れた変化に、誘われるようにして歩を進める。
まるで光に集る羽虫のようだなぁ、と、ぼんやりした頭で考えながら。
---
「はぁっ、はぁっ……」
――酷く。
――酷く、惨めだった。
転移魔術の負荷による疲労感に苛まれながら、慣れない森の行軍を強いられる。
息は既に上がり、足取りは覚束なく、一歩進むごとに木の根による凹凸に足を取られそうになる。
そんなふらつく足に、どうにか力を入れながら、まるでアンデッドのように見知らぬ森の中を彷徨う。
それだけでも十分、惨めな状況なのだけれど、そんなことが気にならないほどに、胸中を占めるのは――。
(――なんて、理不尽っ!)
この世界の何処にでも当たり前に転がっているソレを、それでも胸の内で呪文のように繰り返してしまうほどには、私は平常心を失っていた。
別段、私がこの国でも指折りの、優れた魔術師である……なんて、自惚れる訳ではないけれど、それでも、『これ』しかなかった私にとって、決して努力を怠ったことはなかった自負はあった。
……それが、まったく通用しなかったという事実。
相手が自分より上位の魔術師だった、ただそれだけならば――勿論、悔しくない訳ではないが――同時に諦めにも似た気持ちも沸くはずだ。
……昔、ソレを目の当たりにした時のように。
なのに、私の胸の内には、私に降りかかった理不尽を咎めようと躍起になっていた。
……なんであれ、自分よりも強い者と対峙して、今ここで生き延びていることは、幸運以外の何物でもなく、不満などいえる立場ではないはずなのに。
だが、あの女の言葉が、呪いの言葉となって私に突き刺さり、再現なく苛立たせていく。
二度と聞きたくもなかったし、聞くこともないと思っていた、あの言葉を。
(……ああっ、もうっ!)
苛立ちを何処かにぶつけようと足を上げようとして、そもそも自分の身体にそんな元気は残っておらず、悪戯に自身をふらつかせるだけだった。
その無様さが更に苛立ちを積み重ねていき、思い浮かぶモノ全てに矛先を向ける。
私を無意味な存在だと証明したあの男。
私を無力な存在だと嘲笑ったあの女。
――そして、奴らにただ苛立ちをぶつけるしかない自分自身にも。
「……っぁっ!?」
出っ張った木の根に足を取られ、踏ん張る力もなく、無様に地面に身を投げ出してしまう。
「痛……っ!」
転がった先に石などの突起物はなかったが、受け身も取れずに全身を地面に打ち付ける。
痛みがじくじくと、全身を包み込んでいく。
(……っ!?)
……痛み。
それは更なる激情を発火させるようにも思えたが。
(…………痛い)
土の匂い、そして冷たさが、痛みと混ざり合って、私の精神を急速に冷やしていく。
痛みを感じる――人にとっては酷く当たり前には違いないけど――それを自覚することで、冷静さが心に戻っていく。
それは、あるいは、魔術以外で、私を構成するもう一つであるかのように、私を自覚させる。
……私の無力さと、無意味さを。
しばらくの間、立つこともできず、その場に横になっていると。
「……ていうか、ここ、どこですか……?」
ふと、我に返り、身を起こす。
そんなことも把握せずに彷徨い歩いていた自分も自分だが。
当たりを見渡してみる。
視界の奥まで続く薄暗い森。
「……アートルマですらない、てことは……ないと思いますけれど……」
転移魔術は、転移先を指定しない場合は、基本的に飛ばされる位置はランダムだが、限界距離は発動に使った魔力量で決まる。
魔術師が行使するのならば、ある程度までの制御が可能であるが、魔術アイテムなどによるランダム転移は基本的に予測がつかないと言う。
ダンジョンや何処かの戦場などのすぐさま危険に晒されるような場所でなかったのが不幸中の幸いだけれど、それでも今の状況が苦しいことに変わりはない。
(何にしても、まずはどうにかして、この森を抜け出さないと……)
少しだけ冷静になり、どうにか今後のことに目を向けられるような精神状態にはなったものの。
位置把握等のスキルや魔術を持っておらず、またそれに準じるアイテムを用意している訳でもなく、つまりは闇雲に歩くしかないというのが、今の私の状況である。
視界に移るのは、乱立した木々と、それらの葉により光の遮られた薄暗い森の様子だけ。
それがこの先どこまで続くのかも分からない。
「とりあえず、進むしかない……の、ですよね」
見知らぬ森の中に転移させられるという、こんな状況で最適な選択肢が思いつくはずもなく。
とにかく愚直に足を進めるしかない……のだろう。
正直、かなり気が滅入るが、せめて体力のあるうちに、なんとか手がかりだけでも掴まないといけない。
……まあ、無力な自分にはお似合いの状況なのでしょう、と自分に皮肉を込めて、再び歩き出そうとしたが。
「……っ!?」
ふらつく足が、地面に生えている木の根につまずき、自身の身体が再び前方に投げ出されるのを、半ば諦めと共に感じていた。
――その時。
ブォンッ!
自身のすぐ真後ろで、鋭利な何かが振り回された音と気配を感じる。
「なっ……!?」
咄嗟に、身体が地面に横たわった瞬間に、そのままの勢いで地面を数回転がる。
何度か身体のそこかしこが木の根にぶつかり痛みが走る。
ザシュゥ!
その間にも、その鋭利な音共に、地面が何者かに抉られていくような音が聞こえる。
(……敵っ!?)
一難去ってまた一難、というやつだろうか。
疲弊した状態でも、それでもどうにか意識を戦闘状態に切り替える。
音が一瞬途切れたところを見計らって、地面に両手をついて、無理やり状態を起こし、恐怖を押し殺しながら、周りを見渡す。
(……何も、いない……っ?)
森の中が暗いことを差し引いても、自分の
ただ、自分のすぐ近くの地面には、確かに、鉤爪のようなもので抉られた痕が残っている。
(どういうこと……っ?)
突然の襲撃に思考が追いつき切れていないが、少なくとも、このまま何もしなければ、何者かの餌食になることだけは確実だろう。
(それはっ、そうでしょうけれど……っ!)
この状況でもどうにか残っていた冷静な自分の意見に、自分で突っ込みを入れてしまう。
先ほどの偶然のようなことは、もう起きない。
次の襲撃で、私はやられるだろう。
その前に、ただ考える。
恐怖を抑え込んで。
――姿の見えない敵。
姿を見せないのは、恐らくスキルだろう。
そしてここは森の中。
――光の届かぬ、暗い、森の中。
僅かではあったが、冒険者をしていたあの時に、そういうモンスターのことを、聞いたことがあった、ような。
「……っ!」
頭の中に、ひとつの閃き。
それが正解かどうかは分からないけれど、これ以上考える時間はない。
すぐに行動に移らなければ、ここで死ぬだけなのだ。
目を瞑る――この状況で視界を暗闇で閉ざすこと自体が恐怖だけど、どうせ相手は見えないのだ――そして、意識を内側に集中する。
自身が習得している魔術の中から、自身の考えを実行するのに適したものを選択する。
それは中級魔術であり、発動のために詠唱が最低でも一小節分必要だ。
無論、唱え始めればあのモンスターはすぐさま襲い掛かってくるだろう。
(だったら……っ!)
自身の内にある、魔術とは別の、力の源を手繰り寄せる。
自身が持つ、魔術に関するスキルのひとつを発動する。
魔術がページを捲るようなイメージに対して、こちらは並べられた石の中からひとつを選んで持ち上げるイメージ。
ほんの一刹那、一秒に満たない時間をかけて、そのスキルを呼び出す。
――詠唱短縮スキル、発動。
本来ならば詠唱により編む必要がある魔術の構成を、即座に展開させるスキル。
目を瞑っているから見えないけれど、目の前には自身が望む魔術が魔力によって魔法陣として構築されていることを指先に感じる。
息を吸う。
その瞬間、獣の息遣いを間近に感じた気がして、全身に緊張が走る。
だが、かまわず、発動のトリガーとしてその魔術の名を叫ぶ。
「フラッシュライトッ!」
瞬間、目の前で爆発するかのように閃光が発せられ、暗い森を強烈に照らし出す。
眼を閉じたままでいたが、それでもその光は、目蓋を貫き視界を真っ白に染め上げるほどの光量を放っていた。
「グゥゥゥッ!?」
そして、すぐ近くで、獣の唸り声。
さらに周辺から同じような声が響くのを、目蓋を閉じながら聞く。
そして魔術の発動が終わり、閃光が収束していくと同時に、眼を開く。
「――っ!?」
視界に捉えたのは、先ほど目前で垣間見た、獣型モンスター。
私のすぐ近くに一体と、私の周囲を囲むように……三体。
私を襲うためであろう、間近に迫っていた一体は、閃光に眼を焼かれたのか、苦悶の唸りを上げながらそのまま後ろに後退していく。
残りは、閃光によりスキルを解除された動揺からか、こちらに近づくことをせず、その場で私を睨み付けている。
動揺をどうにか抑えながら、ようやくはっきりと姿を現した襲撃者達と相対する。
漆黒の体躯に、四足の獣型モンスター。
――それは、シャドウハウンドと呼ばれている、こういった光量の少ない場所を縄張りとするモンスター、らしい。
姿は広く知られた獣型モンスター、ハウンドドッグと酷似しているが、全身の体毛が真っ黒であることが特徴とされている。
基本能力自体はハウンドドッグと同程度で、初級の冒険者でも装備を整えれば倒せるほどだ。
だが、彼らを厄介な存在にしているのが、彼らの持つ固有スキル――シャドウハイディング――である。
自身の気配、姿を隠すスキルであるハイディングの派生スキルであり、基本的な性能はそれと同様だが、一定以下の光量の場所でしか発動できない代わりに、同ランクのハイディングよりも一ランク上の性能を発揮する。
さらに付加効果として、自身の周囲で発する音を消すスキルであるサイレントウォークと同様の効果を得る。
ある程度のランクの探知系スキルを持っていない場合、彼らの襲撃を察知することは困難であり、中級の冒険者でも対策を怠った場合、なすすべもなく彼らの餌食となることもあるようだ。
対策としては、探知系スキルによる察知、または今のように魔術で光源を発生させるなどして、シャドウハイディングを無効化させること。
一定以上の光源に晒され、効果が切れると、一定時間発動が出来なくなる……はずである。
なので、光系の中級魔術、『フラッシュライト』によって、シャドウハウンド達のスキルを無効化することには成功したよう…だけれど。
(四体も……っ!?)
私を囲んでいるシャドウハウンドは、四体。
そのうちの一体は、瞼を強く閉じて蹲っている。
恐らく先ほど私に襲い掛かった一体なのだろう。
しかし、他の三体は、多少ふらついているものの、こちらをしっかりと睨みつけてきていた。
(……撤退する気はない……ですか……っ)
シャドウハウンド達は、スキルを無効化されて警戒しているのか、すぐには攻撃を仕掛けてこず、私を威嚇するように唸り声を上げ、私の周りを取り囲んでいる。
シャドウハウンドの知性がどの程度かは知らないけれど、少なくとも群れを成し、先ほどのように一体ずつ襲い掛かり、また一撃離脱を行うなど、慎重さを備えているモンスターであることは確かだと思われる。
スキルを無効化され、自身の優位性を失えば、そのまま撤退してもおかしくはない……というのは希望的観測なのか。
この一対四の状況が、姿を晒したままでも依然、彼らにとって有利な状況であると、判断しているのかもしれない。
こちらの次の動きをじっくりと観察するかのような、鋭い獣達の視線に晒され、緊張の状態が続く。
相手は、一体は目を眩ませているものの、三体はほぼ健在。
対してこちらは剣や盾などの装備は持たず、自身が習得している魔術が唯一の攻撃手段となる。
だが、シャドウハウンド達全員を巻き込むような中級魔術は、最低でも一、二小節の詠唱が必要。
勿論、詠唱を始めた途端、シャドウハウンド達にその隙を突かれ彼らの餌となる運命が決まる。
つまり、依然として絶望的な状況に変わりはない、ということだった。
そもそも、魔術師としては、数体のモンスターにこれほど近づかれた時点で、かなり厳しい状況なのだ。
詠唱短縮スキルは先ほど使ってしまったため、すぐには使えない。
初級魔術の二重詠唱で、最大で二体は倒せるかもしれないが、その間に他のシャドウハウンドにやられてしまう可能性が高い。
「くっ……っ……!」
次に意を決して彼らが動き出した時が、私の終わり。
せっかく生き延びたばかりだというのに、ただのモンスターの餌になって、終了。
(……ほんとうに……最悪……っ!)
死の恐怖と理不尽への怒りが混ざり合い、思考が自暴自棄に傾きかけた時。
「……?」
シャドウハウンド達の様子に、違和感を覚える。
耳を澄ませて、まるで何か、自分ではない別の存在に意識を向けているような仕草。
そして、私の方でなく、そのやや左側、高い草の茂る方へ視線を向ける。
つられてそちらを向いた時、ようやく私も気づいた。
草をかき分ける音、それが近づいてきていた。
――そして、視線を向けた先の草むらから一人の少女が現れる。
「……なっ!?」
「……あれ?」
突然の乱入者に、私は驚きの声を上げ、少女からは疑問の声が漏れる。
とても印象的な、長く艶やかな黒髪――極東の国ヤマツ出身者の特徴に似ている――と、非常に整った顔立ち。
そして、学舎に通う学生達が身に着けるような制服に似た衣装。
……と、彼女の登場に意識が奪われてしまい、自身が置かれている危機的な状況を一瞬忘れてしまった。
この危機的状況の中で、それは明らかに致命的な空白だった。
はっとしてシャドウハウンドの方を見ると、私を取り囲むシャドウハウンドが、一体減っていることに気づく。
「……逃げてっ!!」
咄嗟にそれだけ叫ぶが、既に遅かった。
こちらに視線を向けたままの少女の、背後に回り込んでいたシャドウハウンドが、そのまま少女に襲い掛かる。
……そこから先は、やけに時間がゆっくりと感じた。
少女が、ようやくシャドウハウンドの方に振り返る。
しかし既に、シャドウハウンドは、少女の間近に迫り、その爪を振り上げ――。
ズグゥッ!!
鋭いモノが肉を引き裂く嫌な音が森に響く。
血飛沫が舞い、どさりと、地面に倒れ伏す音。
そして――。
「おお、ちょっとびっくりした……」
少女の、言葉の割にあまり驚いたように感じない声色。
「へっ……?」
私は、目の前で起きた現実に、理解が追いつかない。
地面に横たわっていたのは、少女に襲い掛かっていたはずのシャドウハウンドだった。
---
「おお、ちょっとびっくりした……」
少女の姿に見とれて反応が若干遅れたものの、咄嗟に左手に形成した『影色』の『爪』で、どうにか襲撃者を迎撃でき、ひとまず安堵する。
(というか、能力を使ってもチョーカーが反応しないということは……)
能力の発動が許可されているということだから――やはり今は課外活動中、ということ、だったのだろうか。
しかし、やはり何かを思い出す訳でもなく、どうにもしっくりこない。
ちなみに発動に制限がかかっていた場合、自分はここでなす術もなく死んでいるという、実は一か八かの状況ではあったのだけれど。
左手に纏った黒い霧のようなモノ――僕はソレを『影色』と呼んでいるが――により形成した『爪』を確認しながら考える。
(それに今の襲撃者は一体……?)
今しがた『爪』で切り裂き、地面に伏したソレを一瞥する。
ぱっと身は犬のようだが、全身が真っ黒い毛で覆われていて、大型犬ほどのサイズに、鋭い爪、牙を持っている。
そして躊躇なく、人に襲い掛かってきた。
(こんなおっかない犬、日本にいたかな……?)
能力者が創り出した使い魔、ということならば、まだ分かるのだけれど。
(それにしては、切り裂いた感触が、かなりナマモノ感に溢れてた気が……)
獣や、良く分からない生物を創り出して、自分の代わりに戦闘を行わせる能力者は、今まで何人も戦ったことがある。
能力者が創り出す存在は、生物の形を取ることが多いものの、結局のところ、能力者の力が生物の形を取っているに過ぎない。
切り裂いた時の感覚も、粘土に腕を突っ込んでいるようなものだし、一定以上の損傷を与えたら、霧のように消えてしまう。
だが、その襲撃者は、血を流しながら今も地面に倒れたままだ。
「グゥゥゥゥッ!!」
「……っと」
考え事をしているうちに、先ほど倒したのと同じ形の獣が、こちらに襲い掛かってくる。
(複数いるのか……)
とりあえず、目の前の動物(?)達の正体については置いておくとして。
僕(と、先ほどの少女)に、危害を加える存在であるならば、迎撃するべきだろう。
左右を周り込むように二体と、正面に一体。
(まずは……)
先に左手側の一体に狙いを定める。
同時にこられると厄介なので、こちらから先に距離を詰めていく。
足に力を込めて、駆ける。
左から襲い掛かろうとしていた一体の目の前まで接近する。
僕の速度が予定外だったのか、相手はこちらの攻撃に反応しきれずにいた。
そこに左手を伸ばし、影色の爪を脳天に叩き込む。
突き刺した部分から脳漿のようなものを噴き出して、ビクビクとしながら、絶命する。
(とりあえず、速度はこちらの方が早いみたい、かな……)
最初の迎撃も後出しで間に合ったし、それほど危険な相手というわけでもないようだ。
素早く引き抜き、右側からすぐ近くまで迫っていたもう一体の爪をかわしながら、爪で胴体を一刀両断する。
「グガァァァッ!」
間近で獣の断末魔。
手に、肉と内臓の生暖かい感触。
真っ二つの状態で地面に放り出される獣の屍骸。
振り返り、先ほど正面にいた一体が、間近で爪を振り上げているのを視界に捕らえる。
それをかわし、側面から首を刎ねる。
血飛沫と獣の首が、森の暗緑の中に浮かんで、そして地面へと落下していく。
(他は……?)
三体を仕留めた後、周りを見渡してみるが、特に他の生物がいるような気配はない。
「……とりあえずは一段落した、のかな?」
形成した『爪』を解除する。
血まみれになった左手を、軽く手を振って血を払う。
そうして、改めて、先ほど見つけた少女の方を見る。
最初に見た時と同じ姿勢で、木に背中を預け、ぼうっとしたような顔をして、地面に座り込んでいた。
僕は、出来るだけ少女を刺激しないように心掛けながら、ゆっくり近づいていく。
(……綺麗だなぁ)
整った顔立ちに、長い銀髪、青い瞳。
(……外人っぽい)
日本人には、外人が特別綺麗に見えるなんて話を聞いたことがあるけれど、それにしても、普通の人とは違う何かを醸し出しているような気がする。
自分が勝手に美化しているだけかもしれないけれど。
(……えっと、どう声をかければいいんだろう……)
---
私に近づいてくる少女が何者で、何故こんな場所にいて、何故私を助けたのか。
疑問が次々と浮かんでは来たものの、それらはすぐに、意識の隅に追いやられていった。
少女が、モンスターと戦っていた様子が、意識にこびりついて、それ以外の思考を許さないからだ。
あの黒い靄――私は何故か『影』というイメージを抱いた――を纏った左手で、モンスター達を次々と屠る姿。
アレを見て、直感と共に奇妙な確信を抱く。
――あれは、この世界の者ではない、と。
――つまりは。
「異世界……転移者……っ!」