第三章 4 濡羽とセイ
濡羽……そう自身を呼んだ黒髪の《冒険者》はまるで意識させるかのように胸に手を置いて朗らかに口元を緩めた。セイこと僕はドキッとする。
『魅惑的』という言葉は、きっとこの人のためにあるのだろう……そう思わせるほどの美の造形がそこにはあった。加えて、良い香水を使っているのか、甘く、尚且つ華やかな香りに目を奪われ、思考さえも持って行かれそうになる。
「セイさんというのはあなたでよろしかったのですよね?」
けれど、その前に濡羽自身が危ない誘いを止めてくれた。まるで相手は決めてあると言わんばかりに。
次の瞬間、僕は、はっ、と目を覚ました首を振る。今、僕は何を考えていたんだ……僕は意識を現実に戻して前を向いた。 そう、僕は何にもまして『言うこと』と『聞くこと』があるはずだ。
「あ、あの助けてくださってありがとうございます! でも、……《Plant hwyaden》の方ですよね?」
そう、ここ《神聖皇国ウェストランデ》には《Plant hwyaden》しかいない。正確には《冒険者》の要である施設の一つ……復活を可能とする『大神殿』を買い取り独占しているため、《Plant hwyaden》の加入を余儀なくされていると言った方がいいかもしれない。
実際、濡羽は『仕方なく』や『成り行きで』と言わんばかりに肩をすくめた。だが、《ウェストランデ》の《冒険者》が《Plant hwyaden》であることに変わりはない。
「僕を助けてよかったんですか……?」
僕は冷や汗を流しながら問い詰める。まさかこんな騒ぎが起きていて、僕たちが《ナインテイル》から来た来訪者であることを知らないはずはないだろう。だというのに濡羽は何を目的として僕に近づいたのか。
「それはこれから決めることです」
「……」
僕は押し黙る。だが、濡羽に敵意はないらしく朗らかに微笑み静かに告げる。
「それよりも……私の名前に聞き覚えはありませんか?」
え……僕は首を傾げた。濡羽……何度口ずさんでも聞き覚えがない。すると濡羽は少しだけ呆れた表情で僕をほくそ笑んだ。少し馬鹿にされたような……はたまた、勉強不足を指摘されたような気分になる。
けれど、すぐさま気を取り直すように濡羽はお辞儀をした。
「うふふ……これは失礼を。てっきり、ダリエラから話は通してあるのかと思いまして」
それでやっと合点がいった……濡羽はダリエラが知り合いなのだろう、と。
「ダリエラからあなたたちの力になってほしいと頼まれました」
僕はふとパステルイエローを基調にした《大地人》を想う。ダリエラは僕から見ても、おしとやかでありながら笑顔が絶えない、どこにでもいる女性である。そんな人が、流民キャンプではどこか陰を見せ、濡羽と知り合いだった。ダリエラはいったい何者だろうか……いや、そもそもダリエラは《Plant hwyaden》と関係を持っていたという事にならないか?
謎が深まるばかりの僕に濡羽は自虐的な笑みを浮かべながら、信念、もとい執念を携えているような瞳を向ける。
「とはいえ、一応は《Plant hwyaden》……直接、関わるわけにはいきません」
それはもっともだ。いや、そもそも協力してくれる理由がわからない。濡羽は尚も困惑する僕をくすくすとほくそ笑みながら戯れる。
「ですが答え如何では協力してもかまいません……どうですか? 《Plant hwyaden》を信用できますか?」
僕は黙る。正直相手が何を思っているのかわからない。それこそ戯れにしか過ぎないのかもしれない。僕が以前のままなら……主人公のままなら即答していたのだろう。『誰かを助けるためなら何でも良い』と自分の命もプライドも捨て去るのだろう。
だけど、今の僕には仲間がいる。仲間の命を賭ける事ができるのか……問題はその一点に限ると言ってもいい。
僕もまた自分のプライドを……個性を捨てるつもりはなかった。それは認めてくれた仲間への冒涜になる……。
「何も言わないのですね」
刹那、濡羽がちらりと眉をひそめてこちらに視線を向ける。まるで答え如何で僕たちの敵にも回ると言われたようだった。断ればきっと拘束する気だろう。つまり選択肢はあるようでないようなものだった。それでも濡羽は聞く、なら答えないといけないのだろう……僕は口を開く。
「……正直、ダリエラさんの事は信用できません。あなたも何者で、何が目的なのかわかりませんから信じることはできません」
あら……濡羽は拍子抜けしたように首を傾げた。
「では仲間を見捨てると」
「仲間は見捨てません」
僕たちが窮地にいて、『どうにかしたい』と足掻いているのは本当だ。だから、ダリエラはその声を聞いてくれた。手を差し伸べてくれた。だったら僕たちと見ているものは同じだと想いたい。だから、僕は誠心誠意を表すために頭を下げる。
「お願いします。力はいりません……その代わり『情報』をください!」
え……その瞬間、濡羽が面を食らうように目を丸くした。
当たり前だ。これは自分たちの大事なものはそのままで、都合の良いことを望んでいる。僕たちはまがりなりにも反《Plant hwyaden》だ。敵に力を貸してもらうわけにはいかない。それでも見捨てないでほしい……そんな勝手を僕は頼み込んでいるのだから。
それでも濡羽の瞳には何が映っていたのか、次の瞬間には「ぷっ」と吹き出して、それは女の子らしい可愛らしい笑い声をあげた。まるで頭を下げられる行為を、何十年かぶりに見たかのように。
「ああ、なるほど。シロエ様の気持ちが少しわかったような気がします。自分に至らない者にこうも素直に頭を下げられたら断れないというか、なんというか……」
くすくすと腹を抱える濡羽に僕は目を点にさせる。何か不躾なことをしたのだろうか、と不安になる。
けれども濡羽は仕切り直すように首を横に振ると、笑い声をかみ殺して背筋を伸ばした。
「……ええ、これで救いの手を取らないのなら、私の嫌いなものと一緒になってしまう」
「濡羽さん……?」
その時、僕は濡羽の瞳に確かな輝きが灯るのを知らないまま、ただ呆然と立ち尽くす。
「いいでしょう。その答えに報いるだけのものは貸しましょう」
その嘯き声は一抹の不安を帯びながらも僕は期待に胸を膨らませずにはいられなかった。妖しく微笑む濡羽はとても頼もしかったのだから。
◇
それからしばらくの間、濡羽は《キョウの朱雀門》の前で今の何が起きているのか、地面に簡単な勢力図を描きながら事細かに教えてくれた。中心に《キョウの都》の円を書き、貴族と流民、そして、セイこと僕の小さな円を付け足していく。
「現状、貴族たちはあなたたちを《ナインテイル九商家》を攫った犯人だと決めつけています。では誰がそれをさせたと思いますか?」
えっ……その時の僕は思いがけない言葉に慌てふためいた。その表情を見て、濡羽が新たに《サニルーフ山脈》を表した線と線を挟んだ先に新たな勢力と思われる円を加えた。
まさか……僕が顔を上げると濡羽は肯定するようにそこに《Plant hwyaden》の名前を書き記した。
「犯人はミズファ=トゥルーデという《大地人》。《十席会議》の一人で、リックという流民の子供を唆して手駒にした張本人です」
まるで犯人がわかっているかのような素振りに、少しばかり悪戯っぽさを感じながら、濡羽は街中に視線を向けて答える。
濡羽が言うには、ミズファはリックにあらかじめ用意した筋書きを実行させたらしい。警備の穴をついて……いや、わざわざ穴を作ってナインテイルの人質を脱出させた。物理的にも社会的にも彼女にはそれが可能だった。
ミズファといえば、先ほど流民キャンプの際にも貴族が口にしていた名前だ。旧名、ミスハ。《十席会議》の一人にして、かつては貴族に召し上げられていながら貴族を裏切ったスラムの子。
不思議な事に認識すればするほど、情報を整理すればするほど腑に落ちてしまう。神様がそうさせているかのようだ。
確かに元貴族ならコネクションの一つや二つは持っているだろう。警備に賄賂を渡せばすぐに懐柔させられる。そうでなくても《十席会議》の……《冒険者》と張り合える幹部の一人だ。拳に訴えかけることはできるだろう。
だけど、矢継ぎ早に語る濡羽に僕は待ったをかける。次から次へと露わになる真相にとても頭が追いつけなかった。
そもそもなぜミズファ=トゥルーデが犯人だとわかるのだろうか。すると濡羽は顔を曇らせながら《Plant hwyaden》の実情を口走る。
「《Plant hwyaden》もまた人間ということですよ。《Plant hwyaden》の中でもまた様々な勢力ができていて内部衝突が発生しているのです」
簡単に言えば過激派と急進派が互いにいがみ合っているらしい。それこそミズファは過激派であり、《Plant hwyaden》の動きを戦いに向けさせたかったと言う。
濡羽の言葉は色を持って情景を浮かび上がらせる。実際、僕たちがナインテイルの人質を解放すれば戦いの口実はできてしまう。
「ま、待って……それはこの先、どう転んでも《Plant hwyaden》に都合の良いように進むという事ですか!?」
成功すれば過激派の思うつぼ。失敗すればこのまま何もなく《Plant hwyaden》の優位性は続く。
濡羽は首を縦に振る。その瞬間、僕は掌をぎゅっと握った。
結局、『セイ』なんてそんなものだ。ちっぽけな存在に過ぎない。《お障り禁止》とか《希望の新生》とか言われていようが、それこそ神様がサイコロで決めたように振り回されている。僕はやはりただの一般人……もとい《冒険者》に過ぎないのだと再認識させられる。
「やっぱりやめますか?」
それはたぶん目の前の女性にも言えることだ。濡羽は口に人差し指を添えて微笑む。相変わらず一つ一つの動作が魅惑的で、ここまでくると清々しく想えてくるほどだ。
でも、これはきっと『そうせざるを得ない』のだろう。濡羽の意思ではなく、『個性』であり、『生き方』だったのだろう。
さすがにそれがいいものではない事ぐらいは僕でもわかる。子供でも踏み込んだらいけない心の領域ぐらいは把握できる。なんとなく濡羽を見ていると感じてしまうのだ……きっと僕はこの人を助けることはできないのだろうと。
それでも僕は前を見た。妥協と諦める事は違う……そう信じるために。たとえ変えることはできなくても全てを委ねないように……自分の芯は手放さないように自分の意思で決める。
すると、濡羽は気に入ったように目を細めた。とその時、雑踏が耳をつんざいた。貴族の雇った兵士が詰め寄ってきているのだろう。邪魔されたかのように濡羽の顔が歪む。
「時間があまり残されてないようね……ここは私が抑えますからあなたは行ってください」
行くってどこへ……と言いかけて僕は自分の愚かさに口を噤んだ。僕が行くところは決まっている……この事態を生み出したリックの所へ、しいては仲間を守りに行くのだ。
「リックは今《Plant hwyaden》が押さえているギルドホームのいずれかにいるでしょう……こちらを持っていって」
濡羽はそう言うと懐から本物の『地図』を取り出して渡す。地図には数か所赤い印が打たれていた。なるほど……人質は最低でも九人はいる。昼間にこそこそと移動できる人数ではない。どこかに身を隠しているのが定石だろう。
「それとあなたたちのお仲間……ナガレさんとノエルさんはナカルナードの所に捕まっています。気をつけなさい」
え、どうしてそれを……だが、それを聞く前に雑踏が声をかき消した。と同時に号令が喚き、雑踏が奇声に変わり、大路を埋め尽くすほどの人影が向こうからやってくる。その視界を塞ぐように濡羽が立ちはだかって戦闘態勢に入った。
「行きなさい……今はあなたのすべきことを」
僕は首を縦に振った。今はそれしかできなかった。託された地図を片手に朱雀門の横にある裏路地に入り込む。その先にも兵士はいたが僕と衝突する前にうたた寝するかのように倒れた。
「《アストラルヒュプノ》」
刹那、濡羽の呪文を唱える声が聞こえる。それが《付与術師》が使える技の一つで、催眠効果を相手に与える技だと知るのは、まだしばらく後の事だった。
◇
濡羽は青い空を見上げて清々しい風を感じていた。心がどうとか濡羽にはわからない。だけど、今だけはこの青空と同じ色に染まっている事だけは理解できた。
周りには《キョウの都》の貴族が雇った兵士がたくさん転がっている。
死んではない……ただ眠っている。だが、大路を埋め尽くすほどに敷き詰められたその光景は清々しい青空と違って異様な雰囲気を漂わせた。第三者が見れば、その中でただ一人で平然と立っている濡羽は歪んでいるようにも見えるだろう。それでも濡羽は気持ちがよかった。
その時、濡羽の頭の中で、リンリン、と音が鳴った。《冒険者》の通信手段『念話』がかかってきた証拠だ。
濡羽はウインドウを開く……そこには差出人『カズ彦』の名前があった。
『どこで油を売っている?』
念話を開くと端的に言葉を発する声が聞こえた。見るからに仏頂面をしているのが見てとれる……それも機嫌が悪そうに口を酸っぱくしている表情だ。濡羽は苦笑いしながら答える。
「……悪かったわ。それで《ミナミの街》では本当に《常蛾》が現れたの?」
念話の差出人であるカズ彦は頷く。そう、濡羽が《キョウの都》にいたのは一にも二にも『避難』が目的だった。
実はこの時、《弧状列島ヤマト》の東側……《アキバの街》にも変化があった。その変化に巻き込まれるように西側の《ミナミの街》にも変革を求められていた。
「うふふ……シロエ様から協力要請が来たときはどうしましょうかと思いましたが、本当、何を迷う必要があったのでしょうね」
そう言いながら、濡羽はカズ彦に《ミナミの街》の住民の避難と《常蛾》掃討の指令を出す。
『おまえはどうするんだ?』
「私もすぐに戻ります。それまでの繋ぎは頼みます」
そうして、カズ彦との念話を一方的に切ると濡羽は踵を返して人混みを踏みつけながら来た道を戻り出す。
「気を遣ったら仲間じゃない、ね……さすがに私がダリエラとは見抜けなかったようだけど、面白い子だったわ」
その際中、一度だけ濡羽は振り返る……セイと名乗る《冒険者》の事を考えながら。
けれど、それも一瞬だった。濡羽の黒い瞳に真っ先に映ったのは青い模様の軽装姿ではなく、眼鏡をかけた三白眼の青年なのだから。
濡羽は陽気な声で鼻歌を歌い一人で帰って行く。この邂逅に意味があったかは神のみぞ知るものだった。
濡羽さんが意外と難しかった。