第三章 1 固執
翌日。セイこと僕は朝早くに目が覚め、散歩に出た。四月とはいえまだ霜が降りているのか、外気は肌寒く、寒さに耐えかねたのである。
両手を抱えて流民のキャンプを散策する僕。そう、僕たちは昨日のうちに拠点を移して、《キョウの都》の東にある水道橋にいるのだ。散策するだけでも見応えはある。
加えて、周りには誰もいない……まだ誰も起きていないのだ。街の喧騒さえ聞こえてこない。独り占めも同然だった。
だけど、その静けさのせいか、筆が乗る音が聞こえた。どうやら独り占めではないらしい。シャ、シャ、と軽快よく流れる音に誘われて足を進ませると、そこには水道橋を背景にしてキャンバスを構えるユキヒコがいた。おそらく自分の《魔法の鞄》から取り出したであろうスケッチブックに描写する姿は、絵心がない僕でもわかるほど楽しそうだった。
「ユキヒコさん」
そんな彼に僕は声をかける。途端にユキヒコは、びくっ、と肩を震わせて振り返った。同時に描かれていた絵が覗き見える。水道橋とその周りの光の加減を正確に捉えた本物そっくりの絵だった。その水道橋のスケッチに僕は「へー」と感心する。
「いつ見ても上手いですね」
けれど、ユキヒコは「そんな事ないですよ」とスケッチブックを隠した。それは自信のなさの現れでもあった。刹那、僕の脳裏に昨夜のどこか卑下しているユキヒコが浮かび上がる。
『僕もあんな風に頼りにされる存在になれればよかったのに』……そんなことないのに、自分を否定する理由が僕にはわからなかった。わからないなら、聞くしかない。
「ユキヒコさんは画家になりたくないんですか?」
「えっ?」
ミコトがもしこの場にいたならば、きっと僕の行動に頭を抱えてため息をついただろう。ユキヒコも目を丸くする。それほどまでに今の言動は無神経だった。
けれど、さすが最年長というべきか、僕の言いたいことを理解してくれた。ユキヒコを超人だと信じて疑わない……そんな僕の言葉に自嘲気味に微笑む。それは裏を返せば、なりたいに決まっている、と訴えかけているようなものだった。
瞬間、日が昇り、光が反射する。その光に僕は目をすぼめた……眩しくて周りが見えなくなる。
「セイさんは、画家になるために最も必要なものは何だと思いますか?」
そのホワイトアウトの中でユキヒコは呟く……眩しすぎる世界でただ一つのシミのように響く。僕はそのシミに向けて答える。
「技法……とかですか?」
けれど、ユキヒコは首を振った……振った気がした。
実際には見えなくて視認できなかったのだが、次の瞬間ホワイトアウトがいきなり終わりを迎える。ユキヒコが僕の目の前に立って陰を作ってくれたのだ。
やっぱりユキヒコは優しい……だけど、優しいからこそ陰も濃かった。
「『個性』ですよ」
それがユキヒコの抱える問題のすべてだった。
いろんな想いが入り混じれて、歪んでいく。嫉妬、後悔、諦め……けれど何より『自覚していること』がユキヒコにとって一番の重しになっていた。
「『僕の絵には個性がない』……といえば、さすがにわかりますよね」
「それは……」
刹那、僕は黙るしかなかった。そして、理解する。ユキヒコが皆から『地味』と言われていること。僕がいかに無神経なことを口にしていたのか思い知ることになる。
個性がない……それはつまり芸術において『天賦の才がない』と烙印を押されたも同然だった。
ユキヒコは語る。現在美術の世界において、例えば、ユキヒコが『風景画で一流の画家を目指していこう』と考える。そうするにはまず同じような筆裁きで似たような風景画を何枚も描かなければならない。『この作者と言えばこの画風だ』……そう呼ばれて初めて一人前の画家になれるという。
つまりは芸術とは自分のセールスポイントを伝えなければ生きていけない世界なのである。
「けれど、僕はそれができない……できないんですよ」
ユキヒコは静かに歯を食いしばる。
もちろん技法も大切な事だ。だけど、技法は後から身につけることはできる。けれどセンス……いわゆる『個性』は違う。付け焼き刃ではどうにもならない。もとい、ユキヒコは真っ正面から言われたのだろう。実際の現代美術の世界に自分の居場所がないと知った事、絵心の知れる者に『お前には無理だ』と告げられた事。絵に詳しくない僕とは別の誰かに……。
それが誰かはわからないが、ユキヒコが目を曇らせる相手は現役の画家か、もしくは美大の教職しかいない。
「美大生でしたから……って、そういうことだったんですね」
僕は思い出す。確か《ウェストランデ》に来た直後、ユキヒコは苦笑いしながらそう言っていた。
瞬間、ユキヒコは僕の頭を優しく撫でる。それが答えであり、明らかに落ち込んでいる僕を慰めるかのように囁いた。
「セイさんは何も悪くありません。そもそも僕は画家に向いてなかったんです」
そう、ユキヒコは優しい……優しすぎるから『自分を売る』という行為ができない。貪欲になれないのだ。
僕は頭を撫でられながら何も言えずうつむいた。きっとここで『そんなことありません!』と言うのは間違っているのだろう。『貪欲になれない』のはユキヒコの長所でもあり、それをなくせばきっと別人になってしまう……画家になればユキヒコはユキヒコのままでいられないのだ。
だから、声をかけることはしてはいけない。それは無神経を通り越して、相手を棒で殴るようなものだ……それをユキヒコもわかっているから僕の頭を撫でてくれている。
「……だけど、ナガレはそんな僕が許せないんでしょうね」
でも、そんな相手を棒で殴る事をする者がいたらしい。
想わぬところから言葉が入り、僕は顔を向ける。すると、ユキヒコは眉を八の字にしながら心配そうに空を見上げていた。それは自分のことではなく、一人の相方を想っての事だろう。
なぜそこで『ナガレ』が出てくるのだろう……僕は首を傾げた。そんな僕の表情を読んでユキヒコは「ああ」と思い出したように頷いた。
「そういえば、まだきちんと話してませんでしたね」
そして、僕はナガレの抱えている問題を知る。それは自分の抱えている問題をユキヒコに投げつけるかのような内容だった。
◇
そうして少し日は傾いて、都の喧噪がやっと聞こえてきた頃、僕は頭を抱えながら身を屈めていた。なぜこうも僕の周りは問題を抱えている子が多いのだろうか。ため息を通り越して、運命さえも感じてしまう……。
「おはようございます」
その時、背後から声をかけられる。振り返るとボレロを翻し、スカートを少し持ち上げて淑女の挨拶をするダリエラがいた。確か、昨日は僕たちと一緒に流民のキャンプで過ごしたはずだ。毎度のことだがダリエラの用事はいいのだろうか?
そんなことを思っていると、ダリエラはにっこり微笑みながら僕の隣に移動してくる。
「どうしたのですか。しかめっつらになっていますよ」
「いえ、ちょっといろいろな事がありまして……」
「そのいろいろな事であるユキヒコさんは一緒ではないのですね」
うっ……僕はばつが悪い表情で再度ダリエラの顔をみつめる。つまるところ、朝早くに起きたのは僕とユキヒコだけではなかったという事なのだろう。ダリエラもまた朝早くに起きて僕たちを盗み見していたというわけだ。
ついでにユキヒコは冷たい場の空気に耐えかね、先ほど「ミコトさんを起こしてきますね」と場を後にした。だからこそダリエラは出てきたのだろう。
その証拠にダリエラは少し頭を下げながら言う。
「よろしければお話、お聞きしましょうか?」
僕は少し考えながらも肩の荷を降ろすかのように言葉を紡いだ。後になってなぜ話したのかと首を傾げる事になるのだが、その時は何の迷いもなく話してしまっていた。
「そうですか。お仲間の一人にはそのような事情が……」
そして、しばらく事の次第を聞いていたダリエラは眉をひそめながら呟いた。そう、ユキヒコが言うにはナガレには込み入った家庭の事情があるらしい。
――「そういえば、まだきちんと話してませんでしたね」
あの後、そう口火を切ったユキヒコは静かにナガレについて語った。
ナガレはもともと剣道が好きな男の子だったらしい。中学までは好きなことをして、普通の学校生活を過ごしていた……いや、させてもらっていた、というのが正確なのかもしれない。
というのも、ナガレは格式のある名家の出で、高校に上がるに従って、家のしきたりがナガレを束縛し始めた。最初は学校を選ばされ、次は成績を求められた。挙げ句の果てにはナガレが支えにしていた剣道をやめさせられた。それでナガレの不満は爆発した。簡潔に言えばこうだろう。
それからナガレは家を出て、学校も中退した。行き場をなくしたのである。
「まるで流民みたいですね」
その時、聞いていたダリエラがぼそりと呟いた。そう、ナガレの生き様はまさに流民だった。結局、行き場をなくしたナガレはどこにもいけなかったのだ。
ユキヒコ曰く、家を出たナガレはなんとかして剣道を続けようとした。だけど、なんとか部屋を手に入れても、バイトをしても、剣道はできなかったと言う。
――「ただでさえスポーツはお金がかかるのに、竹刀に胴着、面や小手などの防具……剣道は個人で用意する物が多く、車などの送迎は不可欠となる」
そう語ったユキヒコは嫌な現実に目をつむっていた。もちろんそれは子供一人で抱えられるものではない。生活費をどう見積もってもお金は足りなくなる。
なにより練習場所がなかった。踏み込みが基本となる剣道は裸足が基本だ。ゆえにどうしても場所が限定される。体育館や道場、広い敷地が必要だった。ここまで来ればいくら夢を抱こうが無理だと察する。
ナガレが兄に連れられて、ユキヒコのところにやってきたのはその直後だったらしい。兄と交友があった縁で、知り合ったユキヒコはそのまま預かる事になって面倒を見たそうだ。
けれど、その時のナガレはもう夢を追う姿はなかったという。結局、中退したことで家にも見放され、「自分は剣道を選んでしまった」とその後悔だけで過ごす男の子に成り変わっていた。
だから……なのだろうな、と僕は思う。
「ナガレはユキヒコの夢を叶えることに固執した」
僕は今までの経緯を振り返って呟いた。
つまり、最近ナガレの様子がおかしいのは、その時の気持ちを思いだしたせいだ。自分の願望を相手に押しつける事で自分を正当化させたいのである。
そこまで話を整理つけてから、僕は再びダリエラの前で重いため息を吐いた。気持ちがわからないわけではないのだ……むしろ、僕もまた同じ過ちを犯していたので人の事をとやかくいえる立場でもない。
だが、いざ目の前に現れるとアキヅキの頃の僕がいかに身勝手だったのかを思い知らされる。実際、今のナガレは、ユキヒコが願ってもいないのに勝手に夢を叶えようとやきもきしており、それが迷惑極まりないのにナガレに悪意がないから断りにくいという、最凶のコンボ技をきめている。
一言でいえば、ひどい……あまりに見ていられない状況だった。
――まさか僕もああだったのか……だとしたらものすごく迷惑をかけて申し訳ない気分になる。
「それでどうなさるのですか?」
そんな僕を見かねたのか、ダリエラは話を先に進ませようと声をかける。僕はその声に顔をあげてはっきりと答えた。
「そんなの『責任をとらせる』しかないじゃないですか」
刹那、ダリエラは目を丸くする。だが、僕がそうであったように、自分の犯した過ちは自分で解決するしかない。
そうあっさり答えた僕にダリエラは意外そうに呟いた。
「驚きました。私はてっきり『仲間だから』と気を遣うのかと思いました」
「気を遣ったら仲間じゃないですよ」
「……」
ダリエラは口を閉じる。だけど、僕は《アキヅキの街》で学んだんだ……気を遣っても誰も信用しないということを。僕がナガレに同情してもきっと何もできないし、起きない。それなら、信じるしかないのだ……ナガレならどうにかできると思って動くしかない。
するとダリエラは急にクスクスと笑った。その表情はいつもの落ち着きはらったものとは一変していた。まるで自虐的な……いや、違う。それとは別に、僕にはわからない感情が顔に乗っていた。
「……『気を遣ったら仲間じゃない』ですか。なるほど、そうかもしれませんね」
「ダリエラさん?」
そして、僕は困惑する。得体の知れないものが確かにそこにあった。それが近いほど人は恐れを抱く。心臓の鼓動が早くなる。
刹那、僕は思い出す。最初にダリエラに会ったときの印象……普通の《大地人》ではないという感覚を。
ぞくりと背筋が震える。忘れていたわけではない。だけど、一緒にいたから和らいでいた……いつの間にか『腑抜け』にさせられていた。
ダリエラの目が僕をみつめる。見透かすような目が僕を捉える。溶かすように僕の心を掌握しようとしてくる。
「ダリエラさん。あなたはいったい……」
だけど、その先を口にする事はなかった。雑念が……いや、幾重にも重なってくる雑踏がすべてを打ち消したのである。
流民キャンプの入り口方面が騒がしい。少なくとも一人ではない……十数人の足音が一つのリズムとして刻まれていく。
それだけではなく都の喧噪さえも大きくなっていく。まるで都全体が悲鳴を上げているかのようだった。
「暇つぶしになればよしと考えていたのですが、いいことを教えてもらいました……お礼に、こちらも一つ教えましょう」
とその時、ダリエラの笑みが平穏の終わりを告げる。静かに微笑むその表情だが、しかし、その口から出た言葉はとても穏やかなものではなかった。
「いい加減に事を起こさないと、すべて台無しになりますよ」
同時に風が吹く。僕は一瞬目を閉じ、再び瞼をあげた。すると、そこにはもう誰もいなかった。まるで風に乗って消えるかのように、すべてを予言したダリエラは姿を消していた。
そして、矢継ぎ早に「大変だ!」という声が入り口方面から響き渡る。それは様子を見に行った流民の一人の声だった。
「大変だ! 貴族が……貴族が兵士を引き連れてきた!」
その声は火種のように燃え移って、事の急変を流民全体に知らせてきたのだった。