最初の一歩
吉良茜。
いわゆる幼馴染というやつであり、幼少のころには仲良く一緒に遊んだ。とはいえ、二人は何か特別な縁を持っていたとは思われない。仲が良かったのは、家が近所だったことが一番の理由で、たぶん、ご近所さんが別の人で、そこに悠と同い年の子供がいたりしたら、その子と仲良くなっていたのだろう。それくらい、二人の関係には、特別な何かを感じていない。近くにいたから、一緒にいた。それだけ。
それでも、友達になるには、それだけの縁があるということで十分なのだろう。二人は仲良く幼児期を過ごし、小学校に入学。それから三年間、二人は同じクラスだった。その頃はまだ普通に仲が良くて、これからもずっと同じクラスなのではないかなぁ、とぼんやり思っていた。もしかしたら将来はケッコンするのではないだろうか、なんて、無邪気に考えた事もある。
けれど、小四のとき、見事に二人のクラスは別れた。本当に仲の良く、離れがたいほどにお互いのことを大事に思っていたのなら、それでも縁は続いていたのかもしれない。しかし、ただ近くにいただけ、という二人は、それを機に、ほぼ絶縁状態。仲が悪くなったわけでもないけれど、そのころには男子は男子同士、女子は女子同士、でつるむ雰囲気も出ていたし、無理に関係を継続しようとする意志も生まれなかった。
それでも、もしまた同じクラスになったなら、二人はまた仲良くなることもあったのかもしれない。しかし、それから、小学校の残りの三年間と、中学の三年間。同じ学校に在籍していたにも関わらず、常に別々のクラスに配属された。よって、二人は何の接点も持たないまま、高校まで来てしまった。
悠としては、もはや茜と縁ができることはないのだと思っていた。誰に言われたわけでもないのだけれど、根拠なんてものは一切ないけれど、それが自分たちの運命なのだと、直感的に確信していた。
だから、茜が再び悠の前に現れたのには、心底驚いた。
実のところ、悠は、茜の姿を見かけるとなんとなく目で追ってしまうというくらいには、茜のことを意識し続けていた。視界に茜の姿があって、いつも通りそこにいたら、なんとなく気分が落ち着いた。いつもはどこかふわふわ浮いているような気分で生きているのに、ストンと地に足がつくような、不思議な気分だった。
恋愛感情では、ないと思う。そこにトキメキとか、ドキドキとかはなかった。じゃあ何かと問われても、答えられない。自分の気持ちを表す言葉を、悠は知らなかった。
馴染んでいない幼馴染。
幼少のころ、一時的に縁があっただけの女の子。
もう交わることのない、遠い人。
そんな風に思っていたのに、それが覆されて、悠は、世界の物理法則にでも、裏切られた気分だ。重力が無くなって、ふわりとすべてのものが浮き上がり始めたかのよう。でも、その感覚は、決して悪いものではなかった。
とはいえ。
その後、悠と茜との関係に、さほど変化はなかった。あいさつを交わしたり、たまに事務的な会話をしたりすることはあれど、積極的に会話をすることもない。こうなったら何か大きな進展でもあるのかな、と期待混じりに思っていた悠は、拍子抜けする思いだった。
しかし、四月もすでに半ばを過ぎた、とある日。二人の関係に、転機が訪れた。意外なところから、であるにも関わらず、やっぱりこういうところからなのか、と納得するような事柄が、きっかけになって。
それは、
「なあ、お前って、吉良さんの幼馴染なんだって?」
という、友人の一言から始まった。
彼がその話を持ち出したのは、食堂で食事を摂っているときだ。悠はカレーを、久賀はうどんを食べていた。
悠たちの、五つ先の席には、話題の吉良茜が、友人と食事を摂っていた。周りはうるさいので、おそらくこちらの声は聞こえていない。彼女の姿をぼんやりと視界に入れつつ、
「……どこから仕入れて来たんだよその情報。知ってるのなんて、ほんとごく少数だろ」
半ば呆れながら、悠はぼやく。
バレー部で知り合った、谷村ってやつから聞いたんだ、あいつ、お前のこと、小学生の時から知ってるんだってな。
得意げにそう言っているこの友人の名前は、久賀隆。
身長は、百八十センチくらいだろうか。確かに背が高い部類に入る。それだけだと、なるほどバレー部か、と納得だが、スポーツマンとしてはやや細い体格で、筋力面でまだ問題がありそうだ。性格は、悪く言えば軽率。良く言えば程よく明るい。人懐っこく、しかもなんだかんだで悪いことをできない奴なので、別に悪い印象はない。髪は男子にしては長めで、光の加減で染めているのがかすかにわかる。
いや、そんなことは、この際どうでもいい。一番重要なのは、こいつが、悠の前の席にいるやつだ、ということだ。
つまりは、ただ前の席になっただけで、友達になった男。
後に、こんなところから変化があるんだな、と意外にも思ったし、あるいは、やっぱり自分の生活はこういうところから変わっていくんだな、と納得もした。そんな奴。
「……で、俺が吉良さんの幼馴染で、それがなんだって?」
「お前、吉良さんのこと、結構詳しい?」
「は……? いや、詳しくない。まあ、小学校の頃好きだったアニメのキャラとかは知ってるけど、知りたいか?」
「いや、流石にそれはどうでもいい。最近のことはさっぱり?」
「まあ、うん」
「家もすごい近いんだろ? っていうか、実はこっそり付き合ってるんじゃないのか?」
「それはない。俺たち、もうずっと、まともな会話してない。ってか、お前、まさか、吉良のこと、好きなの?」
「なんだ、まさかって。そんな意外でもないだろ。可愛いし、性格もいい。ちょっと変わってるかもだけどさ。俺は惚れた」
「ああ……そうなんだ」
意外だ、と、何故か思ってしまう。いや、客観的に見れば、吉良が可愛いのは確かだ。学年で何番、とかそういう囁かれ方をする絶世の美少女ではないけれど、普通に可愛い、といって差し支えない。幼少期の記憶が先だって、あのやんちゃな女の子がモテている? という疑問が先立つのでなければ、それが自然なことに映ったのかもしれない。
「そうなんだ、ってな。ちょっと反応薄くね? 友達が、自分の恋を告白してるんだぞ? もっと驚いたり、はしゃいだりしたらどうだ」
「中学生じゃねーんだし、誰々が好き、くらいではしゃぐかよ。しかも、そんな重大な話だと思ってるなら、こんなところでするな。雰囲気ってもんが大事だろうが」
「まあ、そうだな。それはさておき、本題はここからだ」
「……一応聞いてやる。何?」
久賀隆は、そこで若干ばつが悪そうに、
「あー、お前、ちょっと吉良さんを、デートに誘ってきてくれね? 久賀と一緒に遊び行きませんか? って」
悠は、その発言に、茫然。見た目ちゃらい高校生。女子なんて軽く誘えます、みたいなノリで生きているくせに、少なくとも、そうだと思わせるようにしているくせに、意外と小心者だった。
「は? 俺が? っていうか、なんだその初な発言。一人じゃ女も誘えないのか」
「お前は誘えるのか?」
「いや、まあ、無理だけど」
「だろ? なら、ちょっと誘ってきてくれ。友達だろ?」
両手を合わせて、目いっぱい頭を下げての嘆願。そこまで言うなら、と思わないでもないけれど。
「……友達だからこそ、あえて言わせてもらう。今時、そういうのを人にやってもらうのは印象が悪い。なよっちい奴だなんて思われたくないだろ? 自分で行け」
「ぐ……正論を……」
ぐぬぬ、と悩ましげに呻く久賀を見つつ、悠は、出会った当初から思っていた疑問を口にする。
「ってかさぁ……お前って、もしかして、高校デビューした口か?」
すると、久賀がびくりと震え、口元が不格好な笑みに引きつる。どうやら図星らしい。
「ななな、何を根拠にそんな、俺は昔っからこんなだぜ」
「……別に、隠したいならそういうものとして接してやるが?」
「くっ、俺をそんな憐れむような目で見るな! ああ、そうだ、高校デビューをたくらんだ口だ! 何か文句あるか!」
すでに涙目。そこまで必死にならなくても。
「いや、文句とかはないけど。それに、高校デビューって、結構すごいことだと思うぞ? 自分の何かを変えるのって、すごく大変だ。そういう意志を持って、変えようとしてるだけで、誇っていいことじゃないかな」
「……本当にそう思うか?」
「ああ、思ってる。俺は……何かを変えようとさえ、していないからなぁ」
そもそも、変わりたい、という意志を、持っていない気がする。現状に満足しているわけでもないのに、今の自分が好きというわけでもないのに、変わることを恐れている。
「まあ、それはさておき。高校デビューするんだろ? なら、こんなとこで半端なことをしてちゃダメだろ。一人で行ってこい。心配するな。玉砕しても、骨くらいは拾ってやる」
数秒、探るような目で悠を見つめていた久賀だったが、ついに覚悟を決めたらしい。
「……ち、しかし、お前の言うことも確かだ。仕方ない、俺が行ってきてやる。感謝しろ」
「俺に恩を売るような発言すんな。当然のことをしているだけのくせに」
久賀は、宣言通り、茜のところへと向かう。よく聞こえないが、何やら少々話をしつつ、落ち込んだかと思えば急にぱっと顔を輝かせたりした後、嬉しそうにこちらに戻ってくる。まさかオーケーされたのか、と、何故か心配になりながら待つと、
「二人でのお出かけは無理だけど、四人くらいでならいいってさ。吉良さんも友達連れてくるから、俺は倉橋を連れて来いって」
「え、俺?」
茜を見ると、彼女もこちらを見ていた。そこにある感情を正確に読めるほどに人間観察力はないけれど、なんとなく、期待しているような気がした。あるいは、そう思いたかっただけかもしれないけれど。
「……まあ、いいよ。俺だって、高校では女子とお近づきになりたいと思っていたところだ」
「ち、便乗犯め。やっぱりお前も一緒に話に行くべきだったんだ」
「いや、それは違うだろ。その辺、始めから、みんなで遊びに行かない? っていうのと、二人で遊びに行こうって言うのとでは、だいぶ印象が違う。そして、後者の方が、男としてのポイントは高い。……断られる可能性も高いけど」
「お前、わざわざ断られやすい方をやらせたのか……協力する気ねぇな。……いや、まあ、いい。ほら、来いよ。どこ行くかとか、そうの決めるんだ」
「わかった」
カレーの皿を持ちながら悠も席を立ち、久賀に続いて茜のいる席へと移る。茜の隣には、たしか教室でその後ろの席にいた、国見小春さんがいた。眼鏡をかけて、髪は肩まで。優しそうな印象で、よく浮かべる朗らかな笑顔が可愛い。確か、バスケ部に入っているのだと話していた気がする。この子がバスケねぇ、と、意外な思いだった。ついでに、二人の前には、そろってAランチが置かれていた。
二人の対面に座る。すると、茜がじっと悠を見つめてきて、少々居心地が悪かった。
「俺、バレー部でさ、日曜日は部活ないんだ。国見さんも、部活は日曜日ないんだよね? なら、遊びに行くのは明々後日の日曜でオッケー?」
久賀の言葉に救われた思いで、悠は彼を見ながら、俺はそれでいい、と返事。前の女子二人もそれに同意した。
「えっと、じゃあ、どこ行く? カラオケとか、ボーリング?」
「まあ、それでいいんじゃないのか? 妥当なところだと思う」
「うん。私もそれでいいと思う」
「あたしも、それでいい」
答える茜は、未だに悠の方を注視している。何がそんなに面白いのか。顔に何か付いているとでもいうのか。
「……そういえば、茜って、倉橋君と幼馴染、何だよね?」
国見さんに尋ねられて、ようやく茜の視線が、悠から逸れる。ほっとしたような、残念なような。しかし、茜ってこんなに表情の読めない奴だったろうか。何をもって自分を観察するように見ていたのか、さっぱりわからない。あるいは、それが六年間の空白のなせる業なのだろうか。
「うん。そうだけど。それが?」
「どうってわけでもないけど……ずっと見てたから。どうかしたのかな、って」
「……別に、たいしたことじゃないよ」
それきり、悠を注視することはなくなった。日曜日の予定を決めていく話し合いに参加し、特に悠に話しかけてくることもなかった。こんな時だし、もう少し話ができるかな、と期待していた悠には期待外れだったが、それなら自分で話しかければいいじゃないか、とも思った。
話し合いも終盤に差し掛かり、そろそろ教室に戻ろうか、という時。茜が唐突に、問いを放つ。
「ところで、先に確認しておきたい。久賀くんはあたしを誘ったけれど、それはどういうつもりで?」
「え? あー、それは、まあ、お近づきになれたらな、って」
茜の率直な問いに、久賀がお茶を濁す。しかし、茜は納得しない。
「率直に、聞かせてほしい。それは友達として、ということ? それとも、恋人として?」
茜が半端な答えを許さないことを察してか、久賀が言葉に詰まる。一度周囲をうかがうように視線をさまよわせたが、最後には覚悟を決めたようだ。高校デビューといったが、もともと、かなり肝の据わった奴だったんじゃないだろうか。
「……もちろん、恋人として。俺、吉良さんが好きだ」
「なるほど」
公開告白を強要した割には、軽い反応。悠は落ち着かなかったし、国見さんも、どうしましょう、と動揺を隠せない様子。
数秒の思案の後、茜が口を開く。
「悪いけど、今のあたしに、あんたと付き合う気はない。そもそも、そういうことを考える段階にないと思ってる。そういうのは、お互いのことをちゃんと知ってから、ちゃんと考えて応えたいと思う。だから、友達から始めよう。それで、いいだろうか?」
その答えに、久賀は何度か目を瞬かせた。
「あ、ああ。もちろん。よろしく、吉良さん」
「うん。よろしく、久賀くん」
何故か握手を交わす二人。友達になるって、こういうものだっけ。
とりあえず、落ち着くところに落ち着いて、悠も国見さんも、一安心。ほっと溜息をついた。