5:アストラル
――魔術。
私にとっては体に染み付いた最大の武器であったはずなのにいつの間にかそんなものが使えることすら覚えていなかった。
もしかしたら平和ボケしてしまったのかもしれない。「氷結の悪魔」とまで言われた魔術は今でも前と変わりなく使えるのだろうか。
また今度試してみる必要がありそう。
「……助けてくれてありがとう。その、魔術師さん……?」
漠然とそんなことを考えているといじめられていた子が隣にいた。
そもそもこの子を探しに来るのが目的だったのに、何を呆けていたんだろう。
先ほど発生させた氷壁を霧散させて男の子の方を向く。
……まだ幼いけれどよく整った顔立ちをしていた。
茶色い髪の毛、真紅の瞳。まだ少し頼りない雰囲気を出しているけど決して意志が弱いわけじゃなさそう。
「えーとね、私は魔術師じゃなくてあなたのお父様にここへ呼ばれたの。名前はラビーナ・ブリュンヒルデ。ブリュンヒルデ家の長女よ」
「父上に呼ばれたの? ……ああ、そういえば父上はそんなことを言ってた気がするなぁ」
うーん、と口元に手を当てて考え込む男の子。
伯爵はちゃんと伝えてあるって言っていたけど、この様子からすると聞いていなかったのかもしれない。
……そういえば、メル夫人はこの子が伯爵の言うことをあまり聞かないって言っていたような。
「あ、自己紹介忘れてたな。僕はアストラル・アルトリア。みんなはアスト、って呼ぶよ。助けてくれてありがとう、ラビーナ」
「そう、アストって言うのね。よろしくね」
「宜しく! あ、そうだ。さっきのこと、父上や母上には言わないでおくれよ。あんな目にあったなんて、恥ずかしくてさ」
アストはどこか悔しそうに目線をそらした。
男って言うのはいつでも負けず嫌いだ。それは同い年の男の子でも変わらないみたい。
「それはかまわないけれど……どうしてあんなことになっていたの? あいつらは何しにきていたの?」
さっきまでアストをいじめていた集団は何なのだろう?
思い出すとまた気分が悪くなって、少し語尾を荒げて聞いてしまった。
「え、ああ。あいつらうちよりも地位が高い貴族で、僕の家のことを見下してくるんだ。だっていうのにこの庭にはあいつらの家にない花があって、それが気に食わないみたいなんだ。それでたびたびその花をよこせって……ここは母上が大事にしてる庭なのに……」
しゅん、とまた目線を落とすアスト。
母親思いのいい子だな。男の子にしては気が弱いけれど、きっと根はいい子なんだ。
「そうなの……。最低な人たちね。私、自分より立場の弱い人を虐げる人、一番嫌いなの」
「し、しいたげる……? 僕だって嫌いだけど、僕より立場は上なんだし、ラビーナみたいに魔術使えないし……」
「魔術なんて関係ないでしょ。立場だって、あの子達が自由にその立場を使えるんならお花くらい勝手に奪っていくはずよ。だからそんなことは気にせずに、追い返せばいいの。魔術使えなくたって声は出せるでしょう?」
そうだね、とつぶやくアストは少しずつ視線を上げていく。
「僕、次からは勇気を出して追い返してみるよ。ありがとう!」
はっきりと強く私にそう告げるとアストはさっきまでの沈んだ表情とは違って、キラキラとした笑顔になっていた。
そうなってくれるのはうれしいんだけど、私は一体何をしているんだろう……。
初対面の男の子にこんなお説教して、しかも外見的には同年代。
端から見れば痛い子よね、この状況。
「ラビーナはなんだか母上みたいだ。見た目は僕と同じくらいだけど」
うっ、と思わずうめき声を上げてしまう。
確かに精神年齢だけではメル夫人と同い年くらいになるのかもしれない。
実は同年代じゃないの、とは言うわけにもいかず、アストの冗談は放って置く事にした。
「あ、そうだ。伯爵やメルさんには黙っておくから、私からもひとつお願いしてもいい?」
「何? 助けてもらったから聞いてあげるよ」
「えっとね、私が魔術を使ったことは内緒にしておいて欲しいの」
それを聞いたアストはなんで? と言う顔をしている。
まだ小さい彼からすれば私がこの年齢で魔術を使えることはなんとも思えないことなんだろう。
もちろん、魔術はこの世界ではごく当たり前のように使われているものだ。
魔術師って言う存在はそんなに珍しくないし、魔術を使えるって言うだけの人ならもっと珍しくない。
ただ、最大の問題は今の私のような六歳の子どもが簡単に使ってしまうことにある。
そもそも魔術を御するのには最低でも一年の修行が必要だ。
魔力を自在に操り、自分の思うとおりに魔術を使えるようになるまでに時間がかかる。
さらに言えば私は今まで全く魔術に関する修行や練習をブリュンヒルデの家に生まれてから行ったことがなかった。もしかすると書斎には魔術に関する本があるかもしれないけど
前世の記憶を完全に持っている以上造作もないことなのだけど、そんなことを知らない人から見れば私は間違いなく異端だ。
「魔術はみんなを驚かせるために特訓してるから、周りの人に言っちゃったらだめでしょう?」
「うーん、それもそうだね。分かった。黙っておくよ」
小さい子は物分りが良くて助かる。
一通り話し終えた私たちはここで一息ついていた。
私も自分でおもっていたより饒舌になっていたし、アストも楽しそうに話してくれた。
もしかすると、両親のように変に気を使う必要がない分喋りやすいのかも。
「そういえばラビーナは何しにここまで来たの? 外庭の端っこなんてほとんど何もないのに……」
やがて、妙な沈黙に耐えられなかったアストが口を開いた。
「あなたを探しに来たの。本当は伯爵が探しにいくって言っていたのだけどね」
「父上が? ……ラビーナで良かったよ。あんな姿見られたらきっと怒られただろうし」
心底安心した、と言う風にほっとするアスト。
あの温和そうな伯爵が子どもに怖がられるほど怒ったりするのだろうか? それも自分の子どもがいじめられていたなんて理由で。
「アルトリア伯爵って、そんなに怖いの? 優しそうに見えたのだけど」
「父上は、僕のことあまり好きじゃないんだ。家は兄上が継ぐし、僕は次男だから……構ってくれない」
アストは悲しげにそういうとまた俯いてしまった。
次男、と言うことは確かに家を継ぐことはないんだと思う。長男のほうが優遇されても仕方がない。
でも、それだけのことで親が子どものことを嫌ったりするものなの?
「伯爵も、アストのことを嫌っているようには見えなかったけど……」
「でも、すぐに怒るんだよ! 父上は兄上のことはすぐに褒めるのに、僕のことは……」
「私は子どもだから、伯爵の考えることは分からないけど……」
私には親の気持ちが分からない。
そこは同じ年代の子と一緒で、前世でも子どもがいたことなんてなかったんだから。
「でも、自分の子どもがあんなことされてたら守ってくれると思うな」
「……そうかな。もしそうだったら父上に来て欲しかったかも」
アストの表情は少し明るみを帯びてきた。ころころと表情が変わるのは子ども故かもしれない。
「本当はメルさんに外庭で遊んでおいで、って言われたのだけどいったん戻りましょう? お母様にアストを会わせたいわ」
「ラビーナの母上って、どんな人なんだろう。気になるや」
屋敷のほうへアストと向かう。
その道中、私はアストと伯爵の仲が気になって仕方なかった。