Artemis
それは、山岸 亮《リョウ》が二十歳を過ぎ、彼の母親のいう『インコのような色の頭』をしていた頃。幾人目かの彼女に振られた原口 朔矢《サク》とバンドの練習後にサシで飲んでいた日のこと。
リョウのアパートの部屋で飲んでいた二人は、少々妙な酔い方をしたようで、普段しないような話になった。
「リョウってさ、何でそんなにジンが中学生だった頃のことにこだわるわけ?」
ヴォーカルのジンとは中学で同級生だったサクが、以前から気になっていたことを尋ねた。
「こだわってるか? 俺」
「自覚無いのかよ。大体、今日の飲みだってあれだろ?」
「どれだよ」
ビールの缶に口をつけながら、リョウが尋ね返す。
「オレが振られた話から、ジンが『中学校の頃の色々で、ケバイ女の子が苦手』って言ったから、事情聴取だろ?」
「事情聴取じゃなくって、ただの好奇心」
「んなわけ、あるか。大体、高校で初めて逢ったとき、すげぇ目つきだったぞ。『お前ら中学の同級生がジンの声を封印していた』つって」
「言ったな。そういえば」
少し考えたリョウは、つまみのピーナッツの袋を新しく開けながら、答えた。
「なんつうか、過保護じゃねぇ?」
「あれは……過保護って言うより、罪滅ぼし?」
「なんだそりゃ」
「聞きたいか? 長いぞ」
立ち上がったリョウは、長くなる話のお供に冷蔵庫からもう2本ずつビールを出して、テーブルに置いた。
****
俺な、幼稚園の頃から、好きな子が居たんだよ。
ませてる? そうかな。
一緒のスイミングに行ってて、どんどん進級していく子でさ。俺より一回り体が大きくって。
大女じゃないかって? その子が大きかったわけじゃない。俺が小さかったんだよ。うそじゃないって。小学校の頃は、俺、クラスで前から十番目くらいだぜ、背の順。
幼稚園は違うところだったけど、小学校は一緒の学校で。俺より大きいから、足も長くって、走るのがすっげぇ速い子だった。
運動会でリレーをするだろ? 毎年、彼女がアンカーだった。一着でバトンを貰ったら、絶対抜かされないし、そうじゃなかったら、絶対抜かす。もう、ぶっちぎりの速さだった。ドッヂボールとか球技もうまかったなぁ。
小学校三年くらいの頃かな。図書室の本でギリシャ神話の本を読んでさ。アルテミスが出てきたわけ。『あ、彼女だ』って思って。俺にとったらもう、それからアルテミス。オリオンの初恋がアルテミスってできすぎってか。ほっとけ。
で、小学校の四年生の音楽会で俺、ピアノをすることになって。彼女にかっこいいところを見せようって、ちょっとスケベ心を出したんだけど、えらい目にあってな。
うん? 弾くのはちゃんと弾いたさ。彼女も『お母さんがほめてた』って言い方だったけど、ほめてくれたと思うし。
えらい目っつうのは練習よ。分散和音が一オクターブ以上にわたってて、『これ、小学四年にムリだろ』って代物で。毎日、昼休みと放課後と俺だけ特別練習。
練習中にさ、クラスの連中が運動場で遊んでいる声が音楽室まで聞こえんだよ。子供の声って高くって、通るからさ。彼女の名前を呼ぶクラスメイトの声とか聞こえて……。
『俺、何やってんだろ?』だぜ、全く。
懲りたかって? もう、懲りた懲りた。二度とやんねぇってくらい。なのに、次の年も先生に泣き落としかけられてよ。彼女がピアノの横のマリンバだったから、『まぁやってやるか』ってな。指揮を見るふりをして彼女の横顔を見ていたこともあったな。
ムッツリだぁ? 小学生だから仕方ねぇだろうがよ。
そしたら、ある日、練習中に彼女が倒れてな。
本当に、顔色って真っ白になるんだな。あれは驚いたぜ。
『あの顔はヤバイ』って思ったけど、彼女までの距離が俺には遠かった。隣の楽器なのにな。先生を呼ぶのが精一杯だった。
なんだろ。あの時、俺だけぽつんと一人離れて立っている感じがしたんだ。学年のみんなと離れて。すっげぇ、寂しかったよ。
次の日に元気に学校に来た彼女に『ありがとう』って、先生を呼んだお礼を言ってもらえたのがせめてもの救いだったな。
それから? 六年のときにな、振られた。告白もなんもしてないんだぜ? 俺は。
なんだったか……卒業前の行事の企画の話で放課後に職員室行ってて、教室に戻ったら彼女が男子と話しててな。そいつが彼女に『山岸がお前のこと好きらしいぜ』って余計なことを言ってくれて、彼女の返事が『私よりチビじゃない。迷惑だわ』って。
ひっでぇ話だろ? 泣かずにランドセルとって帰った俺って偉いよな?
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「確かに、えらいよ。でも、それとジンと何の関係があるんだよ」
「まだ、前振り。あーでも、思い出したら、泣けてきた」
眼鏡をはずして、目をこするリョウにサクが冷たく言う。
「これだけ、詳しく話せるってことは、しょっちゅう思い出して泣いてんだろうが」
「うん。自分がこの後やったことを忘れないために」
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中学校になってさ、背を伸ばすためにバレーを始めたんだ。彼女はやっぱりと言うか陸上をしていた。楽しそうに走っているのを見たら、めちゃくちゃ腹が立った。
”かわいさ余って憎さが百倍”って、まさにあれ。今に見てろ、お前よりでかくなってやるって、夢中で練習したからかな。それなりに上手になったら、こっちも楽しくなったから儲けモンだったけどな。
気が付いたら、俺にも成長期ってヤツが来て背が伸び始めた。成長痛も経験したくらいな。逆に、彼女のほうが成長が止まったらしくって、廊下ですれ違ったら、あれ? ってことになってきた。
意識? めちゃめちゃしてたさ。あんなことがあっても。っていうかな、彼女が忘れさせてくれなかった。
とにかく、規格外なんだよ。走るのは専門に磨き上げているから、体育祭のエースだろ? その上に、勉強がな。理科が常に学年トップ。数学もトップ3ぐらいには入ってたんじゃないかな。
男子の中では『理科娘』ってあだ名が付いていたくらい。総合もトップ10から落ちたこと無いだろうな。『高校はきっと、柳原西の理数に行くんだろうな』って、勝手に周りは思っていたな。そう、ジンが、英語コースだったろ? あれの理数コースな。
俺? 社会でなんとか稼いで、かろうじて彼女の成績についていってたくらいだったよ。
中三のときにさ、また、要らんことを言ったヤツが居て。最悪に要らんこと言ったのは俺なんだけど。
俺が教室の窓を開けてもたれてたら、彼女がすぐ横の渡り廊下を歩いてたんだ。タイミングの悪いことに、クラスメイトの一人が彼女が俺のことを好きなんじゃないか、って言い出してな。聞こえたらしい彼女と目があっちまった。
彼女を見てたんじゃないかって? 見てたさ。彼女にばれないように、見続けていたのは俺のほう。
で、な。
『あんな、男女。誰が好かれてうれしいかよ』って。
そう。言ってしまったんだよ。それも、彼女を見つめたままで。最悪だろ?
言っている間にも、彼女の顔がどんどん引きつっていくんだよ。それでも、言葉を止められなかった。
追い討ちのように、そのクラスメイトが彼女をけなした。彼女の走りと、勉強とを。
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「おまえ、ばか?」
「うん。大馬鹿だとおもう」
リョウは、半分に減った缶を揺らしながらぽつんと言った。
「自分の痛みを忘れたわけじゃなかったのに。照れと意趣返しで、言ってはいけないことを言ってしまったんだ」
「謝ることもしてねぇの?」
「できなかった。あの顔を見たら」
「馬鹿だねぇ」
「うん。さらに、馬鹿なことに、受験で賭けをした」
”受験”と”賭け”。あまりにそぐわない二つの言葉に、サクは手にしたピーナツを取り落とした。
「なに? それ?」
「彼女が、うちの高校に来たら謝ろうって」
「来なかったんだ」
「市内トップランクの普通科に行ったよ。理数じゃなしに」
「で、謝る機会をなくした、と」
「そう。で、俺はジンに会った」
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最初ジンに会ったときに思ったのは、『コイツ、暗ぇヤツ』だった。
怒るなよ。お前も知っているように、アイツしゃべんなかったしよ。猫背だったし。うん? 姿勢? 悪かったぜぇ。俺より低いかと思ったもん。俺が中学で伸びた分、アイツも人よりはでかかったけどな。
それをさ、三年の先輩が一週間ほどで矯正しちまった。チームのムードメーカーで、不思議な先輩だったよ。
『なぁ亮。ひとつだけ、いいか』って言われるとなんだって言うことを聞いちまう、催眠術師みたいな先輩だった。その先輩が、ジンをかまいまくってな。アイツ、姿勢が変わったし、何より声を出すようになったんだ。
ちゃんと話すようになったら、見方が変わったね。身長が近いから、ペアを組んで練習することが多かったのもあるだろうけど、とにかくウマが合うって言うのかな。とぼけた事を言うくせに、意外と鋭いところもある面白いやつだなぁって。
あれは、いつ頃だったろ? 『声変わりが人より早くって、それもかなり声が低いもんだから、中学ではおっさんて呼ばれてた』って聞いたのは。わかるだろ?
『言われた』じゃなくって『呼ばれてた』だよ。俺の言ったことみたいに、”やっちまった”失言じゃないんだ。
ジンをそう呼んだ連中は、かなりたちが悪い、って思ったよ。でも、あいつ、優しいだろ? そんなことを言われて腹を立てるんじゃなくって、自分の声を嫌って封じてしまうんだよな。
悪いのはアイツの声じゃないのにな。
今回の『ケバい女の子が苦手』っつうのもそうだろ? 相手を悪く言わずに、自分の”苦手”ってことにしちまうんだ。
話がそれたな。
お前に初めて逢った頃の俺は、怒らないジンの代わりにソイツらに腹を立てることで、彼女に言ってしまったことを帳消しにしてもらえる気がしてた。
何にって?
何にだろう?
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「それ、罪滅ぼしじゃねぇだろ。自己満足って言わねぇ?」
「うん。完全に自己満足。過保護でもないだろ?」
”インコのような”髪をくくりなおしながら、リョウが自嘲した。
「俺に逢ったころ、ってことは、今は違うのか?」
「彼女が絶対、許してくれないことが解かったから」
「逢ったのか?」
「うん。お前ともニアミスしてる」
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高二の文化祭な。お前と校門の辺で会ったろ?
うん、そう。おまえ、友達何人かと遊びに来てて。あの時な、お前の後ろに彼女が居たんだよ。
気付かなかったって? そりゃそうだ。俺、彼女の顔を見た瞬間に、逃げたもん。ああ、馬鹿だよ。でもな、心の準備ってあるじゃないか。不意打ち過ぎて、どうしたら良いか判らなかったんだ。
お前、そういうことって無い?
昼から、ステージがあったからさ。それまで教室で裏方をしながら気持ちを落ち着けたんだよ。
ジンが『飯行こう』って呼びに来たから、他のやつと交代して教室を出たらそこに彼女がいてな。
チャンスだぁ? んなワケあるかよ。彼女、おんなじ中学だった女子と手を繋いでたんだけどな。もう、表情が言ってんの。
『こっち、見んじゃねぇ』って。
あれ、手を繋いでなかったら、きっと全速力でダッシュしていたんだろうなって思うくらい、嫌な顔をされた。
俺が言ったことは、彼女にとってどれだけひどいことだったのか思い知ったよ。”蛇蝎のごとく嫌われる”って、あの顔を言うんだろうな。
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「それで、よく午後のステージ立てたな。お前」
「ジンがいなかったらキャンセルしてたかも」
「そこでもジンかよ」
「うん。もう、完全にあいつの声に惚れ込んでたし。お前たちに無様なところを見せられない、意地もあったし」
それにな、とリョウは缶に残ったビールを飲み干して続けた。
「ステージから、客席に彼女がいるのが見えた」
「来ていたのか?」
「知らなかったんだろうな。俺が出るって。せめて、ひとつくらい、いいところを憶えてもらえたらって、未練もあった」
「じゃぁ、プロになって、格好いいところ見せてやれよ」
「見て、くれるかな?」
「がんばろうぜ」
泣き笑いのような顔で、リョウは笑った。
それから、十年以上の月日を経て。
RYOの楽器の設定をサポートした楽器メーカーの女性技術者が、ライブの打ち上げに参加した。RYOの彼女として。
『こじれたから長くかかった』そういって笑うRYOの顔に、隣の席にいたSAKUはピンときた。
彼女が他のメンバーと話している隙に、RYOにこそっと尋ねた。
「アルテミスか? 彼女」
色素の薄い瞳を細めて、RYOは微笑んだ。
「そう。俺だけの理科娘」