奴隷になりました 01
人の世がある限り、欲望は尽きないものだ」
静かな郊外に立つ瀟洒な屋敷一室で、黒い翼を持つ者……カイル・ローゼンバック・デスペラーはひとりごちた。
「そして、欲望が尽きぬ限り、我ら悪魔が消えることもない」
悪魔。その言葉が示すように、彼は黒い翼に、山羊の角を生やし、堂々とした体躯を黒のマントに包んでいた。そして、祭壇の上に立ち、尖った長い指先に一枚の紙を掲げて言う。
「我が名は、カイル・ローゼンバック・デスペラー。魔界の南東部、絶望の谷の支配者にして、第八階梯の悪魔である。契約書に従い、日下部義成、貴様の魂を貰いに来た」
眼下には、1人の男が立っていた。男の名は日下部義成。日下部コンチェルンの若き支配者だ。彼は悪魔など恐れぬかのような不遜な笑みを祭壇上のカイルに向けた。
「何がおかしい?」
悪魔が日下部に尋ねる。
「いやね。あまりにも予想通りの現れ方だったもんでね。しかし、私が思っていたよりも早すぎる登場のようだ。私の寿命がもう尽きたというのか?」
「いいや。魂をもらう時と寿命は関係ない。三つの願いを叶えた後、魂のエネルギーが一番高まっている時に、いただくと決めている」
「ふん。では、今が私の魂のエネルギーのピークだという事か?」
「そうなるな。しかし、悔いはあるまい。私は、お前の願いを叶えてやった。本来ならスラムの片隅で朽ち果てるはずのお前が、この国でも名だたる成功者となる事ができたのは、この私の助けがあったからこそだ。こうして、天の理に逆らったお前の成功の影で、どれほどの人間が不条理に泣いたか、知らないわけではあるまい?」
すると日下部は答えた。
「確かに、お前はよく働いてくれたよ。しかし、魂を渡すのはまだ早い。私の望みはこの程度の物じゃない。もっと大きく、世界を手中にすることだ」
「それは無理だ。願いを叶えるにも魂の器というものがある。器とは、お前が過去生で蓄えて来たカルマの量だ。残念だがお前の魂の器でできる事はここまでだ。さあ、お前の魂をよこせ。そして、私の魔界での覇権を得るためのエネルギーとなれ。それがこの先お前に定められた運命だ」
「ふん」
日下部は鼻先で笑うと、背後にあった壁のボタンを押した。けたたましくベルが鳴り響き、黒服の男達が乱入して来る。黒服達は、銃口をカイルに向けた。
バン、バーン
轟音とともに銀色の弾丸がカイルを狙って来た。
「銀の銃弾か……」
カイルはつぶやくと、弾丸に身を晒すかのごとく両手を広げた。無数の弾丸がカイルの体を撃ち抜いていく。弾痕はまるで十字を描くようにカイルの体を穿ち、そこからどす黒い血が噴き出した。すると、悪魔はまるで貼付けにされたキリストのごとく、がっくりと頭を垂れて動かなくなった。
「はーっはーっはーー!」
日下部が勝ち誇ったように笑った。
「どうだ? 私は悪魔にも勝ったぞ! 何も私を縛ることはできない。神も悪魔も私の前にひれふするのだ!」
その時
「うわ!」
「ぐはあ!」
突然、黒服達が悲鳴をあげた。そして、額から血をほとばしらせ次々に倒れて行く。
「どうした? 貴様らーーー?」
日下部は叫んだ。すると、その問いに答えるがごとく頭上から声がする。
「借りたものを返したまでだ」
日下部が振り返ると、悪魔が宙空からこちらを見おろしていた。奇妙な事に先ほど撃たれたはずの傷跡はどこにも見当たらない。
「なぜだ? なぜ傷跡が消えている?」
「あいにく、私に銃弾はきかない。体を撃った弾は、全てお前のかわいい部下の額に返してやったよ」
「なんだと?」
日下部は震える手で倒れた黒服の中の一人を抱き起こした。
その額には銃弾の跡がある。よく見ると倒れた部下達の全ての額に赤い銃痕があった。
背筋に冷たいものが走る。それを察したのか悪魔がいう。
「安心しろ。貴様は簡単に殺さん。魂をいただくまではな」
そして、じっとこちらを見た。血のように赤い目……まさに邪眼だ。日下部は金縛りになったように動けなくなる。いや、動けなくなってしまう前に辛うじて腕を動かし、テーブルの上のベルを鳴らした。
ベルが鳴ると同時に、首に大きな十字架をかけた神父が現れた。神父は部屋の中を見ると全てを察したように、詠唱を始めた。
「神と精霊の御名において、悪魔よ闇に帰れ」
「なるほど。お次は、エクソシストか」
悪魔は興味深げに神父のやる事を見ていた。神父が聖水を掲げる。すると聖水から青白い光が立ち上り、巨大な光の十字架を形作る。
「闇に還れ!」
神父の言葉とともに、光の十字架がカイルを狙って飛んで来た。
「おっと、危ない」
カイルはとっさに腰の剣を抜き、光の十字架を受け止める。
「いくら私でも、この聖なる光には勝てない」
そして、思い切り振り払った。すると、光の十字架は二つに切裂かれ散り散りになって消えた。
それから、カイルは神父に向かって手を広げた。すると、手の平から真っ黒な瘴気が吹き出し、刃となって神父に襲いかかった。しかし、瘴気の刃は神父の目の前で何かに弾かれたように散り散りに消えてしまう。
神父が誇らしげに叫んだ。
「見るがよい! 神の加護を受けた私に闇の武器は通用しない」
そして、再び詠唱を始める。
「悪魔よ滅びよ! 闇に還れ!」
その言葉と同時に、小さな光の十字架が無数に現れ、カイルに向かって飛んでいった。
カイルは目の前に円を描き、そこに黒い盾のような物が出現させた。光の十字架は盾に当たって次々に消えていく。
カイルは盾の後ろで呪文を唱えると、神父に向かって手を広げた。
「邪神覚醒!」
そのとたん、神父の体から黒い煙のような物が吹き出してくる。そして、
ザクリ!
神父の腹のあたりから黒い刃が飛び出した。
「な……なんだ? この刃は?」
神父は腹から出たものをぼう然と見つめてつぶやく。
悪魔が答えた。
「それは、お前の捨てきれなかった邪念の塊だ」
「何?」
「その刃がお前を切裂く」
「バ……バカな、私に邪念など」
「いくら神に仕えているとはいえ、所詮は人間だ。悪想念から逃げられはしない。まして、こんな男の言いなりになるような者ではな……」
カイルはそう言うと何かを切裂くかのように、その腕を動かした。
その途端、神父の体は真っ二つに裂け、床に倒れた。
「あ……ああ」
日下部は、目の前の光景をただぼう然と見ていた。
その背後にカイルが舞い降りる。
「もうおしまいか?」
「う……ああああ……」
「それでは、魂をいただくぞ」
「い……いやだ」
日下部はきびすを返すと、部屋から飛び出した。そして、一目散に屋敷を飛び出し、車に乗り込んでエンジンを吹かした。目指すは町の北部だ。前方には、切り立つ崖が見えている。……あの崖の上なら……日下部は祈るようにしてハンドルをきった。……あの崖の上なら、きっと、奴も追って来れないはずだ。あそこは、この世に数少ないサンクチュアリなのだから……。