世界を股にかける予定だった吾輩
吾輩は鮭である。
川で生まれたが、川だけの器ではない。
若き日の吾輩は、細く、頼りなく、いかにも世間知らずといった風情で流れに身を任せていた。生まれ故郷の川はたしかに悪くなかった。水は冷たく、流れは清く、空腹であれば何かしら口に入る。だが、それだけで一生を終えるには、あまりに世界が狭いではないか。
だから吾輩は海へ出た。
それは別に、故郷が嫌だったからではない。
もっと大きなものを見たかったのである。
川幅の話ではない。
世界の話である。
実際、サケの仲間は川で生まれたのち海へ下り、北太平洋を広く回遊して成長し、成熟すると生まれた川へ戻ると説明されている。つまり海へ出ること自体は、吾輩だけの特別な野心ではなく、わりと一族ぐるみの定番進路である。だが、若い頃の吾輩にそんな冷静な見方はなかった。吾輩はもっとこう、自分の意志で世界へ打って出た気でいた。
海は広かった。
たいへん広かった。
これは誇張ではない。
川の外には、まず河口があり、沿岸があり、その先に、どこまで行っても水しかない世界がひらけていた。初めて大海原へ出た日の吾輩は、感動のあまりしばらく口を閉じ忘れたほどである。危うく余計なものを飲み込むところだった。海とは、感動と危険がいつも隣り合っている場所であった。
だが、吾輩は慣れた。
潮の流れにも、広さにも、海の理不尽にも慣れた。
いつしか吾輩は、自分を旅人だと思うようになっていた。
北へ行けば水は冷たく、南へ寄れば匂いが違う。海には海の筋道があり、魚には魚の都合がある。こちらが美しく泳いでいても、向こうは容赦なく追ってくることがあるし、こちらが腹を空かせていても、獲物の方に予定があるわけではない。それでも吾輩は泳いだ。広い海を知り、遠い水を知り、世界の端までは無理にせよ、かなりのところまで見てやるつもりでいた。
世界を股にかける予定だったのである。
予定だった、というのは、世の中には予定のまま終わるものが案外多いからである。
ある日から、妙な感じがしはじめた。
海は相変わらず広い。
潮も変わらぬ。
食べようと思えば食べられるし、泳ごうと思えば泳げる。
なのに心のどこかが、妙に落ち着かない。
何かが吾輩を呼んでいるのである。
最初は気のせいだと思った。
旅人には、そういう時期がある。
少し疲れると故郷を思うものだ。
遠くまで来た者ほど、帰る場所の輪郭を心に描いてしまう。
それだけのことだと、吾輩は自分に言い聞かせた。
だが、違った。
体が、勝手に向きを変えるのである。
これはなかなか衝撃的な経験だった。
吾輩はまだ行けると思っていた。
海の向こうにはまだ知らぬ流れがあり、知らぬ群れがあり、知らぬ水温がある。旅はこれからますます本番になるはずだった。そう、少なくとも気持ちの上では。
しかし現実の吾輩は、じわじわと故郷の方角へ引かれていった。
実に遺憾である。
サケが成熟すると生まれた川へ回帰することは、研究機関や大学の解説でも母川回帰として広く説明されている。子孫を残すための行動で、川のにおいを若い時期に記憶し、それを手がかりに帰る仕組みが研究されている。つまり吾輩のこの落ち着かなさも、浪漫というよりかなり本能に近い。分かってはいるが、旅人気取りの身には少々つらい。
吾輩は帰る道すがら、できるだけ平然を装った。
べつに戻りたいわけではない。
立ち寄るだけである。
少し様子を見るだけだ。
生まれた川がどうなったか、確認しておくのも旅人の務めというものだろう。
誰に向けた言い訳なのか、自分でもよく分からなかった。
やがて川の匂いがした。
その瞬間、吾輩の胸のどこか深いところが、きゅうと縮んだ。
懐かしい、というのとは少し違う。
もっと抗いがたいものである。
思い出というより命令に近い。
ああ、ここだ。ここだった。ここへ来ることになっていたのだ、と、体の方が先に知っている感じであった。
故郷の川は、出て行った頃より狭く見えた。
いや、川が狭くなったのではない。
海を知った吾輩が大きくなったのである。
それは少し誇らしく、少し寂しかった。
川をのぼるのは、思ったより骨が折れた。
流れは容赦がない。
跳ねる。
進む。
また流される。
海では広さにまぎれていた疲れが、川でははっきり脚ならぬ身にこたえる。
しかも、周りにも同じような連中がいる。
皆、海を見てきた顔をしている。
だが目的地が近づくにつれ、旅の風格より別のものが前へ出てきた。
殺気である。
いや、殺気というと少し物騒だが、恋にまつわる本気である。
ここで吾輩は、たいへん都合の悪い事実に直面した。
オスは、帰ってきたあとが本番なのである。
メスが産卵し、オスはそこへ放精して受精を成立させる。そのため、オスもまた成熟した個体として川へ戻る。回帰は単なる帰省ではなく、繁殖の場へ向かう移動である。つまり吾輩は、世界を見てきた旅人として悠然と故郷へ凱旋したつもりでいたが、実際には恋の競争に参加する者の一匹にすぎなかった。
これは少々、いやかなり、聞いていない。
海での回遊なら、まだよかった。
大きく泳げばそれらしく見える。
遠くを見れば哲学的にも見える。
だが故郷の川ではそうはいかぬ。
皆が皆、似たように傷つき、似たように疲れ、似たように必死である。
そこに旅人の余裕など入り込む隙はなかった。
吾輩は思った。
世界を股にかける予定だったのにな、と。
その予定表の最後に、
実家に帰る
と、こんなにはっきり書いてあるとは思わなかったのである。
それでも、川底の石の感触は確かだった。
流れの匂いも、冷たさも、どこか体が覚えていた。
みっともなく息を切らし、思ったほど優雅でなく、旅人ぶる余地もほとんどなかったが、それでも吾輩はちゃんとここへ帰ってきた。
大海原を見た。
遠い水を渡った。
そして最後に、この川へ戻った。
たとえ帰る理由が浪漫ではなく本能であっても、旅そのものまで嘘になるわけではない。
見てきた海は本物だったし、泳いできた距離も本物だった。
故郷へ引き戻されたのだとしても、そこへ戻るまでの道のりが消えるわけではない。
ならば、まあよいかと思った。
旅人として格好はつかなかったが、鮭としてはだいぶ正しい。
世界を股にかける予定は少し縮んだ。
だがその代わり、吾輩はちゃんと自分の川まで帰ってきた。
それはそれで、なかなか大したことではあるまいか。
もっとも、できることなら、帰郷の真の目的が恋と放精である件については、もう少し詩的にぼかしていただきたかった。
旅には旅の、見栄というものがあるのである。




