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怒らせ屋


五十歳の誕生日の翌日。


俺は、怒らせ屋になった。


そんな職業があること自体、

昨日まで知らなかった。


求人票にはこう書いてあった。


業務内容:人を怒らせること


時給三千円。


交通費支給。


未経験者歓迎。


「変な仕事ですね」


面接でそう言うと、


白髪の面接官は

俺の履歴書から目を上げなかった。


「宮本さん」


「はい」


「最近、怒ったのはいつですか?」


考えた。


車に割り込まれたとき、

一瞬ムッとした。


でも五分後には忘れていた。


店員に注文を間違えられたときも、

別に怒らなかった。


「覚えてないですね」


面接官が初めて顔を上げた。


「採用です」


意味が分からなかった。



最初の依頼人は、

四十代の会社員だった。


駅前の喫茶店。


依頼人はコーヒーを飲みながら言った。


「僕を怒らせてください」


「なんでですか?」


「理由を聞く仕事じゃありません」


なるほど。


俺は考えた。


「仕事できなさそうですね」


「そうですか」


「部下から嫌われてそう」


「でしょうね」


強い。


ならば。


「奥さんにも愛想尽かされてるんじゃないですか」


男の指が止まった。


しまった。


当たったらしい。


しかし男は怒らなかった。


笑った。


「昨日、離婚届を渡されました」


俺は黙った。


男も黙った。


コーヒーから湯気だけが上がっていた。


「……すみません」


俺が謝ると、


男は少し笑った。


「怒らせ屋が謝るんですか」


初仕事は失敗だった。



二人目は七十三歳の女性だった。


「なんでも言って」


そう言って椅子に座った。


俺は前回の反省を生かした。


今度は遠慮しない。


「頑固そうですね」


「よく言われる」


「友達少なそう」


「三人死んだ」


「……」


開始二分で詰んだ。


それでも仕事なので続けた。


「家族から電話もかかってこないとか」


老婆が黙った。


また当たった。


俺はこの仕事に

向いていないのかもしれない。


「息子がね」


老婆が言った。


「十二年、電話してこないの」


窓の外を見ながら笑った。


「元気なら、それでいいんだけどね」


俺は怒らせるのをやめた。


「電話してほしいんですね」


老婆は答えなかった。


ただ、


テーブルの上のスマートフォンを

裏返した。



そんな仕事を

三か月続けた。


不思議なことに、


人を怒らせようとすると、

その人が何を守っているのかが見えた。


金の話で怒る人。


仕事の話で怒る人。


親の話で怒る人。


子どもの話で怒る人。


昔の恋人の名前だけは

絶対に口にするなという人もいた。


人は、


どうでもいいものでは

本気で怒らない。


怒りの下には、


だいたい何かがあった。


悲しみ。


寂しさ。


悔しさ。


あるいは、


まだ捨てられない愛情。



百人目の仕事の日。


事務所へ行くと、


机の上に一枚の封筒が置いてあった。


いつもの依頼書だった。


氏名。


年齢。


場所。


注意事項。


俺は名前を見て、


手を止めた。


依頼人 宮本秋人


五十歳


「これ、間違ってますよ」


奥にいる白髪の男に言った。


「間違ってません」


「俺ですよ」


「知ってます」


「誰が依頼したんです?」


「あなたです」


意味が分からなかった。


白髪の男は

初めて会った日のように俺を見た。


「最終試験です」


「何をするんです?」


「簡単です」


依頼書を指差した。


あなた自身を、本気で怒らせてください。


笑った。


そんなの簡単だと思った。


過去の失敗。


人を傷つけたこと。


判断を間違えたこと。


言わなくていいことを言った夜。


守れなかった約束。


俺は一つずつ思い出した。


けれど、


不思議と怒りは湧かなかった。


「もっとあるでしょう」


白髪の男が言った。


「あなたが一番許せない人間は誰ですか」


俺は考えた。


何人か顔が浮かんだ。


でも、


違った。


「分かりません」


「では質問を変えましょう」


男は言った。


「あなたが一番、

幸せにしてやれなかった人は誰ですか」


その瞬間だった。


胸の奥で、


何かが動いた。


たくさんの顔が浮かんだ。


家族。


友人。


愛した人。


傷つけた人。


守ろうとした人。


そして最後に、


若い頃の俺が出てきた。


ずいぶん無茶をしていた。


強がっていた。


人のことばかり気にして、


自分のことは

いつも後回しだった。


そいつが俺を見ていた。


俺は初めて、


腹が立った。


「お前さ」


声が出た。


「もう少し自分のことも

大事にしてよかったんじゃないか」


若い俺は何も言わない。


「全部背負わなくてよかったやろ」


まだ黙っている。


「誰かが悲しんだら、

全部お前の責任なんか」


声が震えた。


「違うやろ」


そこで、


怒りが消えた。


代わりに、


どうしようもなく

笑えてきた。


五十年も生きて、


ようやく分かった。


怒るというのは、


誰かを嫌うことではなかった。


大切だったものを、


大切だったと認めることなのかもしれない。


白髪の男が

依頼書に判を押した。


合格


「明日からも来ますか?」


俺は少し考えた。


「辞めます」


「どうして?」


「向いてないんで」


男が笑った。


俺も笑った。


外へ出ると、


知らない車が

ものすごい勢いで俺の前に割り込んできた。


「危ないやろ、ボケ!」


反射的に叫んだ。


三秒後。


俺はひとりで笑った。


まだまだだった。

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