夏の海とさいごの日
見るとはなしにつけっぱなしのニュースに目を向ければ、スーツ姿の気象予報士が今日も猛暑と宣言している。
知りたくなかった、そんな情報……
冷房の効いた室内だというのに暑さにぐったりと茹りながら、視線は変わらずぼんやりとテレビの向こう。
新幹線を待つホームで、別れを惜しむ老夫婦と笑顔の少年がインタビューを受けていた。
じいちゃんたちと墓参りに行ってきたんだと、真っ黒に日焼けした少年はどこか得意げな表情で笑っている。
――――あぁ、そうか。今日でお盆も終わりだったか。
◇◆◇
閉め切った窓の外からは蝉の鳴き声こそ届いては来ないけれど、その代わりと言わんばかりにごぅごぅと、不満でも表しているかのように年代物のエアコンが大きな呻きを上げている。
何となく、ぐるりと部屋の中を見回した。
とは言っても狭いワンルーム、見るべきところなどそうあるわけじゃない。
やっつけ仕事で片付けた小さなシンクと水切りカゴ、エアコンの対面で健気に上を向いて首を振る扇風機。
低いテーブルの上に置かれたノートパソコンには、ちっとも進まない課題のレポート。
脇に置いたアイスコーヒーのグラスの中で氷がカランと音を立てた。
古くて小さいテレビでは夏休みの過ごし方的な番組が今も続いている。
そうして、ぼんやり画面を眺める俺とは対照的に、食い入るようにテレビに向かう小さな頭。
表情こそ見えないけれど、どうやらご機嫌らしくて長い黒髪がゆらゆらと揺れている。
何がそんなに面白いんだかと苦笑しながら、くぁと大口開けてあくびをひとつ。
いかん。眠くなってきた。……今日もレポート、一行も書けてないんだけど。
まずいことだけは間違いないのだけれど、打開策は何も思い浮かばない。
浮かばないので流れるままにノートパソコンを閉じることにした。
きっと時間が解決してくれる。戦略的撤退というやつだ。……現実逃避とも言う。
「ねぇ……ねぇってば!」
ぱたんとパソコンの蓋を閉じて顔を上げれば、思いのほか近くに幼い少女の顔があって思わず身を引いてしまった。
仕方ないだろ。ついさっきまで食い入るようにテレビを見つめていたはずのまあるい瞳がいきなり目の前にあったらさ、誰だって驚くと思うんだ。
俺の驚きには気が付かなかったのか気にしていないのか、膝立ちでテーブル越しにこちらに身を乗り出していた少女は少し考えるように俺を見て、テレビを見て、また俺を見た。
そわそわと動くたびにその長い髪と、いつも通りの白いワンピースの裾がゆらゆら揺れる。
トレードマークのつばの広い白い帽子こそさすがに脇に置いているけれど、見た目だけならば文句なしにどこぞのお嬢様然としている。そう、見た目だけなら。
そんなお嬢の眼差しは、さっきまでのインタビューに出ていたワンパクを絵に描いた少年のようにキラキラしているような気がして。
「………………どうした?」
問いかけが少しばかり戦々恐々となってしまったのは、大体のところコイツがこんな目をしている時は突拍子もないことに俺が巻き込まれる時だからだ。
巻き込まれないようにと知らんぷりしているともっと酷いことになるとも最近ようやく理解してきたので無視もできない。
――ねぇ、これ、俺詰んでない?
「うん。えっとね」
ちらり、俺を見る。
ちらり、テレビを見る。
ちらり、ちらりと、ちら、ちらり。
頭を動かすたびに黒髪がゆらゆら揺れる。
ヤバい。いやな予感がする。それもすごく。
恐る恐ると視線を向ければ、テレビに映し出されていたのはきらきらと輝くオーシャンブルー。
いつの間にか内容は観光地を紹介するものに変わっていたらしい。
その良さは残念ながら自分にはさっぱり伝わってこなかったけれど、こちらを伺うソイツの表情は何よりも雄弁に自己主張をしているかのようだった。
つまるところは――
「ね、ね、ね。海! 行きたくない?」
ぐぃ、と。ぐぐぃ、と。
これでもかと身を乗り出してくるお嬢に俺はただただ気圧されるばかり。
「あー………………うみ?」
しばらくしてから何とか絞り出したのは、何も考えていないオウム返しだったというのに、うん! と少女は瞳をきらめかせる。
カラン、とまたひとつ抗議のようにグラスの中の氷が音を立てた。
「えぇと……」
冷たいグラスを手に取って、中身に口を付けてみる。……うん。水っぽい。
窓の方へと目を向ければ、燦々という言葉に相応しく、眩いばかりの輝きが部屋の中に差し込んできている。
見ているだけで暑い。暑すぎる。
「今日は、とても、暑いらしいぞ」
「うん。だからね、海!」
一言一言噛み締めるように伝える俺と、再び身を乗り出して非常に簡潔な答えのお嬢。
いや、答えかな? 勢いだけで押し切ろうとされてない?
まぁまぁ落ち着けと、ぐいぐいとその体を押し返すような俺のジェスチャーに、どうやらいったんは落ち着きを取り戻してくれたらしい。
彼女はすとんとテーブルの向こうで居住まいを正してコホンとひとつ咳払い。
「なんとですね。海の近くだと涼しいのです」
「はぁ」
いや水辺が涼しいのは分かるんだが、なんだそのドヤ顔。
物分かりが悪い子供に諭すようなその雰囲気をやめろ。
「だからね、お家の中もいいと思うけど、お外もいいと思うの。海とか。夏だし。テレビでも楽しいって」
「……なんとですね。海の近くまで行くのに一時間近くかかるんですよ。自転車で。全力疾走で」
我ながら胡乱だと思う眼差しを投げかけてはみるものの、暖簾に腕押し糠に釘。
あっけらかんと、そうなんだねーなんて答えてくれやがる。
「到着するころには夕方になってる気がするんだが」
「え、夕焼けの海!? サンセット? で、ロマンチック? とか言ってた!」
「あ、はい……」
失敗したと思った時にはもう遅い。
再びテンションが上がったらしいお嬢は身を乗り出して目をキラキラさせている。
あ、うん。テレビの受け売り覚えててすごいね……
ちらりと、騒がしいお嬢の向こうのテレビに目をやれば、観光地に続いてイベントの特集だ。
海水浴に花火、それに盆踊り……海を背景に思い思いの格好で老若男女が楽しげに踊っている。
いやはや、盛りだくさんじゃないか。
残念ながらこの片田舎の近場の海岸じゃ、その辺のイベントやら出店やらにはさっぱり縁がないだろうけど。
はぁ、とこれ見よがしにひとつ大きなため息を吐き出して、のっそりと立ち上がることにした。
暑さやらイベントのなさやら、わざわざ海まで行ったところで後悔することは間違いないと確信しているのに、珍しくそれ以上反論することなく動き出してしまったのは……さて、なんでだろうね。
テンションの高いお嬢が動きを止めて、テンションが低いまま立ち上がった俺を不思議そうに見つめている。
「たすく?」
きょとんと名前を呼んでくるお嬢がなんだか可笑しくて、してやったりと少しばかり笑ってしまう。
「ほら、行くんだろ? ――今からならちょうど夕焼けだろうさ」
そんな言葉で、意外そうな間抜け面から笑顔に百面相するのを見れたなら、まぁ、悪くもないかもしれない。
満足感のようなよく分からない感覚のまま、俺は自転車のキーを手に取った。
◇◆◇
外に出て案の定、秒で後悔した。
じーわじーわと鳴く蝉と、じりじりと肌を焼く太陽。
本日の最高気温、38.2度。
多少なりとも日が傾いただろう現在の気温こそ知らないが、文句なしの猛暑日で、体感的には酷暑日だったと言われたって信じてしまいそう。
ただ座っているだけでも加速度的に水分が失われていってしまうだろうその中を、俺はひたすら駆け抜ける。
何でまた俺はこんな事をしてるんだろう、なんて哲学な気分にも浸れそうだ。哲学とかよく分からないけど。
両足にペダル、両手にハンドル。
ひと一人乗せているにも関わらず、愛車は俺と違って抗議の軋みひとつなく、すいすいすいと道を行く。
どこもかしこも汗まみれで不快指数はうなぎのぼり。
ただでさえ暑いってぇのに、背中にしがみつく奴がまた暑苦しいったらこの上ない。
……あぁ、いやいや。分かってる。そんなもんは錯覚なんだろうけどさ。
「人、いないねぇ」
きょときょとと辺りを見回していたらしいお嬢の言葉の通り、辺りを見回せば陽炎が立つ田舎道には人気がなくて、見かけるにしても遠くを走る車くらい。
「そりゃあそうだろ。この暑さだ」
気象予報士だって、不要不急の外出は控えるようにというくらいだ。
こんな日に好きこのんで外に出る物好きなんてそうはいるまい。それが俺たちなわけだが。
「それにしても珍しいじゃないか。出かけたい、なんてさ。お前さん、どっちかと言えば引きこもりだと思ってたんだけど?」
そんな悪態を口にして肩越しに後ろを流し見れば、思った通りのふくれっ面。
「む。それは偏見だよ? いろんなところ、お出かけしてるんだから。たすくがいる時はしょうがないから一緒にいてあげてるんだよ?」
「あー、はいはい。そりゃどうも。……まぁ、確かにお嬢はしょっちゅうふわふわしてるからな、ついでにふらふらしててもおかしくないか」
自分で言いながら笑ってしまって、それをごまかすように前へと向き直る。
相変わらず道は平坦かつまっすぐで人っ子一人いやしない。
「むー。なんかバカにしてない?」
「ハハハ、ソンナコトナイヨ? ……これでも、お嬢がこの暑さに参ったんじゃないかと心配してるんだぞ?」
「えぇー……ホントに? なんでそう思ったの?」
どうやら、まったく信じてもらえていないようだった。
……うん。思い当たる節がありすぎるな。反省はしないが。
「いやだって、いつもならもっとこう、その辺うろちょろしてない? だから元気でもないのかなと」
「そんなことしたことないんですけど!? それに今自転車乗ってるんだし、うろちょろなんてできるわけないじゃん」
「いやいや、何かいただろ。えーと……ほら、ターボババアとかいうの。車を全力疾走で追いかけてくるんだっけ? だからつまり――ターボお嬢というわけだな」
くつくつくつ、と抑えていても笑いが零れてしまう。
いつも通りのお嬢様然とした格好でスプリンター顔負けのフォームのお嬢が追走してくる姿を想像してしまったのだ。
想像の中で、なぜか表情はスンとした真顔だった。ヤバい。
「ふぅん…………ホントにやるよ?」
そんな妄言に対するお答えは絶対零度。
後ろを見ないでも分かる。完全に本気だ。
さっきまでのお笑い映像が、現実になるかもという恐怖に変わって背筋がブルリと震えてしまう。
「……んん。まぁ、冗談はさておきだ。結局、海に行こうなんてどういう風の吹き回しなんだ? まさか本当に海で涼みたいって?」
自業自得ではあるものの、ゴホンとひとつ咳払い。
背中からは、「………………はぁ」と呆れきったようなため息の音。
いやはや、これじゃどっちが大人か分かったもんじゃないね。
「そういうわけじゃないけど、みんなすっごく楽しそうだったじゃない? ホントの海、見てみたいし。だから、行ってみたいなぁって……ダメ?」
「……ダメだったら今せっせと自転車こいでないんだよなぁ」
はぁ、とお返しとばかりにこれ見よがしの俺のため息に、お嬢はどうやら小さく苦笑したようだった。
「……ふぅ」
何もない田舎道。取り残されたように立ち尽くす自販機。
相も変わらずけたたましい蝉の声に耳はとっくにバカになってしまったのだろう。耳元で逐一騒がしいお嬢の声にも無心の境地でここまで駆け抜けた。
さいわい木陰になっていたちょうどいい高さのブロック塀に腰掛けて、ようやく念願の水分補給。
いくら全速力なら一時間と言ったって、まさか実際にこぎ続けられるはずもない。
こうなるだろうと分かってはいたけれど……いやぁ、我ながらバカだなぁ。
「たすくばっかりズルイ」
乗って来た自転車を傍らに、隣のお嬢はぷくりと頬を膨らませて俺を睨んでみせる。そうされたって見た目の幼さが強調されるばっかりで、特に怖くはないんだがね。
いつも通りの小柄な体躯を包む白いワンピースに、つばの広い真白い帽子。
同じ炎天下にいたっていうのに汗一つかいていないその様子を、俺の方こそ不満に思う。
そんな不満を飲み下すように手にしたペットボトルに口を付けた。
生き返るような気分とはこのことだろう。残念ながら、ノロノロしている間に早速ぬるくなっていてちょっとがっかりしてしまったけれど。
「たーすーくー!」
「…………!?」
悲しみと共にペットボトルのラベルに視線を落としていた俺の耳元で、無遠慮に呼ぶ声。
ことさら大声ってわけでもなかったけれど、いきなり耳元で声を上げられたものだから思いっきりのけぞってしまった。
手元のペットボトルがばちゃばちゃ揺れて、俺の膝濡らしていく。……あぁ、貴重な水が。
そんなありさまなんてお構いなしに、がっくり落とした視線の先に回り込んだお嬢が俺を見上げて口を開いた。
ちょっと目が笑ってるの、酷くない?
「わたしも、ノド渇いたかも?」
「嘘つけ」
即答。
むぅ、とお嬢がさらに口を尖らせる。
俺も負けじと口を尖らせる。
見た目幼女相手に張り合ってムキになっているという事実からは速やかに目を逸らすのがポイントだ。
「大体だな、そんな事言ったって金持ってないだろ?」
お嬢と呼んではいるけれど、見た目がそれっぽいってだけで金なんて持ってるわけもない。
……そもそもそれ以前に何買ったって飲めやしないだろうに、というツッコミは本格的に機嫌を損ねるので口にはしない。これはリップサービスというやつさ。
「えぇー……いいじゃない。ご馳走してくれたって」
思惑通りというべきか。膨れっ面のお嬢は、だけど、ほんの少し楽しげだ。
そんな様子にちょっとばかりホッとしてしまう。
……たいした理由は、ないんだけどさ。
「却下だ却下。それよりほら、そろそろ行くぞ」
「あれ? もう?」
「じっとしてても暑いだけだし、それに休みすぎると逆に辛いんだよ」
正直言えばもっとゆっくりしていたいけれど、そうしていると足が動かなくなる気がするのだ。
それでもまぁ、見栄やらなんやらで何事もなかった風に愛車に跨り深呼吸をひとつ。
木陰に停めていても熱くなっているサドルに若干の切なさを覚えながら、ペットボトルは大切にホルダーに。
うぅん? といまひとつ納得いかないとばかりに首を傾げつつ、お嬢はそれでもふわりと身軽に指定席へと飛び乗った。
自転車の後ろ、俺の背中にべったり寄り添って。汗だくでばっちいんだから離れなさい。
「……だから、どうしてくっつくんだお前は。暑苦しい」
「えー。わたし、暑くないよ? きっと涼しいくらい」
はぁ、と半ば諦めに息を吐き出して、よろよろ自転車を進ませる。
「うーみー。うみうみー。うみー」
「……お嬢、うっさい」
蝉の声に交じって響くお嬢の歌なんだか何なんだかよく分からないそれに笑ってしまう。
流れる景色。流れる空気。生暖かい空気もこうすれば多少は涼しく感じるんだから不思議なもんだ。ひんやりとするお嬢のおかげってのもまぁ、少しはあるかもしれないが。
いやそれにしても進みが遅い、足が重い。
こりゃ一回休んできつくなったパターンだな、失敗した。
「たすく、疲れた?」
えっちらおっちら、それでも足を動かす俺の耳元で声。
「そりゃあ、そうだろ。でもまぁ……あと、ちょっとだし、な」
海なんてそう向かう場所でもないから多分だけど。
振り返らずに答える声は、つい今しがた水分を補給したばかりだというのに、我ながら潤いに欠けている。
「うーん……」
そんな俺の様子にか、お嬢は少し考え込んだ様子で唸りを上げて。
「うん! じゃあ、わたし、手伝っちゃうね!」
「――――へ?」
それから、酷く元気な声でそんな不思議な言葉が耳に飛び込んできて。
何かを考えるより先に反射的にブレーキをかけた。
キイィという愛車の非難の声に反省するより前に、立ち眩みでも起こしたように体から力が抜ける。
いやな予感がした。
そりゃあもう嫌な予感だとも。何度も経験しているからな、間違いない。嬉しくないことに。
そんな確信を裏付けるように、蝉の声が軽く遠のいた、気が――
◇◆◇
ざあぁ、ざあぁ、とノイズみたいな波の音色が耳に優しい。
騒がしい蝉とお嬢のコラボレーションにささくれた耳と心を癒してくれるかのようだ。
砂浜につながる階段の途中に腰を下ろして、夕日の沈む海を見ながら足を揉む。やれやれ、明日は間違いなく筋肉痛だ。
……本当に筋肉痛だけで済んでるよな? すごい不安なんだけど?
「たすく、なみ! 波すごいよ!」
響いた声に視線を向ければ、ばたばたと音でも立てそうな勢いで、お嬢が波打ち際を行ったり来たり。
波が引いたら追いかけて、波が寄せたら逃げ出して、時たま逃げ遅れてはきゃらきゃらと笑っている。
「元気だねぇ……」
その姿は初めて海を見た小犬みたいだ。……本人に言うと絶対に怒られるから言わないけど。
「ふぅ……あれ? たすく、にやにやしてどしたの?」
どうやらにやにやしていたらしい。
ひとしきり海に到着した喜びを発散し終えたらしいお嬢が、不審者でも見るような目をこちらに向けてくる。
失礼な。
「にやにやなんてしてない。お嬢が無茶させるもんだから動けないんだ」
「えー、無茶なんてさせてないよ?」
「あのな、人間の限界に挑戦させようとするのは無茶と言うんだぞ」
しかもこっちの了解無しに。
今に始まったことじゃあないし、今となっちゃあ悪意なんてないと分かっちゃいるが、虎視眈々と人の身体を狙うのは止めてもらいたい。
ふぅん? といまひとつ理解していない感じで一回首を傾げてから、気を取り直したようにお嬢はまた楽しげに、今度はクルクル軽やかに回りだす。
「海って、おっきいねぇ」
「そうだなぁ。でっかいなぁ」
どうやら海の大きさを表していたらしい。
さっぱり分からなくって、思わず笑ってしまうけど、今度はお嬢もくすくす笑っていたからよしとしよう。
クルクル回るお嬢につられるように、その周りで夕焼けの残光なのか何なのか、光がキラキラ輝いているようにも見えて。
「……まぁ、来た甲斐は、あるかな」
そんなお嬢を視界に収めたまま、ぼんやりと向けた視線の先には、いっぱいに広がる海とゆっくりと沈んでいく夕焼けの赤。
見上げた先、空に浮かぶ光点は、一番星か飛行機か。
田舎の海岸には予想外に、数えるほどではあるけれどちらほらと人の姿があった。
お嬢の言っていたように海辺で涼んでいる人も少なからずいたのかもしれないし、何か小さな催しでもあるのかもしれない。
波の音に交じって聞こえる笑い声、はしゃぎ声。
どこかで手持ちの花火でもやっているのかささやかな歓声と微かな火薬の匂い。
そんな周りの楽しげな雰囲気にだんだんテンションが上がってきたのか、お嬢と来たら人に見えないからって縦横無尽にはしゃぎまわっているようだった。
横回転では飽き足らず、重力無視して縦回転まで始めているのはどうなんだ?
こら、仮にもスカートでそんな事するな、はしたない。
くるりと、回る。
離れて、近づいて、また離れて。
それはまるで俺には見えない誰かとダンスを踊っているようだった。
ゆっくりと、ゆっくりと夕焼けの赤が沈んでいく。夜の青が降りてくる。
その只中で残光と踊るお嬢を見るとはなしに見つめていたからだろうか。
彼女が踊るその向こう、海に突き出た堤防の上に何人かの人影があることに気が付いた。
彼らは水面に何かを浮かべてはそっと手を合わせていたようで、海の向こうにぽつりぽつりと小さな明かりが見て取れた。
それは――――あぁ。きっと見送りなのだろう。
小さな灯火がゆらゆらと波間に揺れている。
気づけばあれほどうるさかった蝉の声はフェードアウトしていて、いつからかリーリーという鈴虫か何かのささやかな声色に切り替わっていた。
踊っていたお嬢もいつしかその動きを止めて、バイバイと小さく手を振っていた。
それは、沈んでしまった夕焼けに? 寄せては返す大きな海に? それとも……かえっていく誰かに向けて?
よっこいせと立ち上がって、一歩足を踏み出していた。
ざり、と靴の裏が砂を踏む感触。
相変わらず足は筋肉痛に震えていて、危うく砂に足を取られそうになった。
……格好がつかないなぁと、我ながら笑ってしまう。
海へ、そして、お嬢の方へ。
近づく俺に気づいたのか、彼女はちらりとこちらを見て、コテリと首を傾げて見せた。
どうしたの? という無言の問いには答えずに、彼女の横に並んで立つ。
「…………」
何となく無言のままで見つめる先には、静かに行き交う白い波と、その間に漂う小さな灯りたち。
ぼんやりと立ち尽くす俺の横で、お嬢も珍しく静かにその光景を眺めていた。
いつも通りの白いワンピースの裾と長い黒髪が、夜に浮かび上がるようにゆらゆら揺れているのが、なぜだか遠く思えてしまって。
だから、放っておいたらいけないと、そんな風に思ってしまった。
「――他に、やりたいことはないか?」
コイツが、そんなガラにもない様子だったから、俺もついそんなガラにもないことを口走って……もちろん、すぐに後悔した。
ちらりと見下ろした先にはきょとんと不思議そうな様子でこちらを見返す眼差しがあったから。
「え? なに? 急にどうしたの?」
さっきまでの神妙さはどこへやら、ぱちくりとその大きな瞳が瞬きを繰り返す。
コイツがどこか儚げに見えたのは見間違いだったと断言できるようなバカみたいな驚きの表情で、疲れたの? とか、何か悪いものでも食べたの? とか、慌てて聞いてくる始末。
らしくない物言いだったろうとは思うんだが、ちょっと失礼にもほどがありませんかねぇ?
粛々と灯籠を流している人々にはこのバカ騒ぎが聞こえていないことがせめてもの救いか。
「あー…………」
口を開いて、閉じて。
何を言うべきか、聞くべきか、俺にだってよくは分からなかったけれど。
「もしかして、だけど」
騒がしかったお嬢がぴたりと止まって俺を見る。
きっと俺の目は節穴なんだろう。いつも通りのやり取りに思わず苦笑だって浮かんでしまう。
だって、どう見たってコイツは消えそうにはないんだからさ。
……そう思いはするんだけれど、念のため。
「お嬢はさ、今日が終わったら……どこぞにかえる、とかじゃないわけ?」
「んー? なにそれ? たすくと帰るけど、もちろん」
うん。と自分の言葉にお嬢はこくりと頷きひとつ。
そこには疑問も逡巡も見て取れなくて、そんな態度に俺こそ首を傾げてしまいそうになる。
「あぁ、いや。そうじゃなくて」
「じゃなくて?」
「ぇ? いや、だから、その。ほら――お盆とか、送り火とか、灯籠流しとか」
ちらりと見遣るその先では、今も人々が海へと灯りを浮かべている。
お嬢はしばらく首を傾げて、それから俺の視線の先を見て。
「あ」と小さな声を上げた。
表情には理解の色と、ニマニマとした笑みが広がっていく。
俺が思わずその場にしゃがみこんでしまったのだって仕方ないだろ? 失言だ。その顔を見て、自分が完全に勘違いしていたんだと今ようやく心の底から理解した……
「へえぇ、あ、そう? そうなんだ。……たすく、わたしのこと、好きじゃん――へへへぇ」
すごくすごく憎らし気に、とてもとても嬉しそうな笑顔を向けてくるソイツに、俺はガクリとその場に頭を垂れた。
ああこらおい、俺は失意に項垂れてるんだよ。わざわざ下に回り込んで砂の中からこっちの顔を覗き込むな普通にホラーだろうが! 怖いわ!!
逃げるように――実際逃げるために立ち上がって踵を返す。
よし! 海は見れたし、予想外に灯籠流しなんてイベントも見れたし、満喫できたぞ! とっとと帰って風呂入って寝よう。そうしよう。うん。
筋肉痛なんてもうまったく気にならない。明日に向かって全力ダッシュだ。
「あ! たすく、待ってよ!」
「…………なんだよ。海はもういいのか?」
何だったら一人ででももっとゆっくりしていってくれ、本当に。
「ん。一緒に見れたし、満足。……ありがとね!」
ちらりと見遣れば、その顔は本当に楽しそうで満足げ。
それがなんだか悔しくて、俺は小さく「あぁそうかい」と呟くばかり。
本当に、まったく。どっちが大人なんだかね。
もう一度、今度は大きく元気よく、海に向かって――もしかしたら俺には見えない誰かに向かって、お嬢はバイバイと手を振った。
「さ。帰ろ!」
お嬢はくるりと踵を返して照れくさそうに笑って見せると、そっとその小さな手を向けてきた。
流されるままに俺も手を差し出してみれば、彼女はその手を取るようにして音もなくすたすた歩きだした。
お嬢の手がすり抜けた手のひらは、なんだか少しばかりひんやりとしていた気がして。
ふぅ、と知らずに息が零れて、肩の力が抜けた。
じゃりじゃりと砂を踏む音を響かせてお嬢に追いつけば、どんな悪戯を思いついたんだか俺を見上げてにこりと笑う。
「あ! そうだ。今日のお礼にね――」
思わず顔をしかめる俺を気にすることなく、コイツときたら誰にも見えないからって堂々と肩に飛び乗って、誰に聞こえるわけでもないのにわざわざ耳元で囁くのだ。
「これからも、一緒にいるからね」
「早いとこ成仏してください……」
ため息交じりの俺の言葉は、きっと心底嫌そうだったんだろう。
お嬢はいつものようにくすくすと楽しそうに笑ったのだった。




