第2話:幾何学的経済学(ジオメトリック・エコノミクス)
王都から数日。俺が辿り着いたのは、王国の最果てに位置する「エルニア領」だった。
かつては魔石の産地として知られていたはずのその地は、今や見る影もない。ひび割れた大地、枯れ果てた魔力溜まり、そして希望を失った領民たちの濁った瞳。
「……計算が、どうしても合わない。どうして……あと一点の変数を固定するだけで、この数式は完成するはずなのにっ!」
領主館のテラス。
夕闇の中、一人の少女がボロボロの魔導演算機にかじりついていた。
プラチナブロンドの髪を乱し、指先をインクで黒く汚しながら、彼女は石板に膨大な「魔法数式」を刻み続けている。
リーゼロッテ・フォン・エルニア。
この不毛の地を治める若き領主代行であり、この国では珍しく、魔法を「現象」ではなく「論理」として捉えようとする異端の徒だ。
「無駄だ。その『ナヴィエの方程式』もどきには、粘性項の計算が抜けている。マナの流動性を無視して座標を固定すれば、残差が蓄積して魔法陣が暴走するぞ」
俺の声に、彼女は飛び上がらんばかりに驚き、椅子を転がした。
「だ、誰ですか!? 警備兵……あ、警備兵は今、市場の暴動を抑えに行っていて……」
「通りすがりのデバッガーだ。……貸してみろ。その『バグまみれ』の数式を」
俺は彼女の静止を無視して、石板を覗き込む。
そこには、領地の水源を復活させるための「灌漑魔法」の理論が展開されていた。だが、あまりに古典的で効率が悪い。
「君は、マナという『流体』を無理やり一箇所に押し込めようとしている。だから抵抗が増えて、変換効率が下がるんだ。……いいか、リーゼロッテ。マナは流れるのではない。空間の『曲率』に従って、低い方へ落ちるだけだ」
「曲率……? 何を言っているのですか? マナは精霊の導きによって……」
「精霊なんて不確定な変数に頼るから、数式が複雑になる。……見ていろ」
俺は彼女から奪い取った魔導筆を走らせる。
描くのは、『最適輸送理論(Optimal Transport)』に基づいた、魔力ポテンシャルの再定義。
土地のトポロジー(位相)を読み解き、マナが「最もエネルギーを消費せずに流れる経路」を逆算して、空間そのものに刻み込む。
「――『モンジュ=アンペール方程式』による座標変換。これで、領地全体のマナの勾配を最適化した」
書き終えた瞬間、石板が青白い光を放った。
次の瞬間、遠くの枯れ井戸から、地響きと共に水が噴き出す音が聞こえてきた。
「な……水が……? 詠唱も、触媒もなしに……どうして!? 数行の数式を書き換えただけで、数万人の魔導師が必要な大儀式を再現するなんて……!」
「魔法を神秘だと思うから騙されるんだ。これは単なる物理現象だ」
震える彼女の肩を横目に、俺は遠くに見える「隣国の商会」の豪華な馬車を見つめた。
彼らはこの領地の魔力枯渇を利用し、高価な魔石を不当な条件で売りつけ、領民を奴隷化しようとしている。
「さて、リーゼロッテ。水が出ただけでは、この領地は救われない。……次は、君たちの首を絞めているその『不当な契約』を、ゲーム理論で物理的に破壊しようか」
「ゲーム理論……? それも、魔法なのですか?」
「いいや。もっと凶悪な、『現実を上書きする論理』だよ」
俺の口元に、自然と冷徹な笑みが浮かぶ。
2026年の知性を舐めてもらっては困る。
神が作ったこの世界のソースコードには、まだ直すべき「脆弱性」がいくらでも残っているのだから。




