意識のバグ、世界の穴
亮太はもう、車のハンドルを握ることもできなかった。
全身を覆う五つの痕は、今や彼の皮膚を侵食し尽くし、一枚の醜悪な「記録」へと彼を書き換えていた。彼の意識は、自分自身の幼少期の記憶と、あの隔離病棟の女、踏切の女、そして名もなき数万の死者たちの絶望が混ざり合い、脳内を暴れまわる不快なノイズに支配されている。
彼は、吸い寄せられるようにある場所に辿り着いた。
そこは、何の噂もない、ただの「空き地」だった。建物も、歴史も、人々の執着も、何も書き込まれていない更地。
情報の真空地帯。だからこそ、亮太の中に溜まった膨大な「他者の意識」は、ここを最後の出口に選んだのだ。反射する建物も、遮る物語もないこの場所なら、自分という器を壊して、すべてを吐き出せる。
亮太は地面に膝をついた。
なぜ、あんなにも恐ろしい異形たちが生まれたのか。その答えが、彼の中に蓄積された膨大な「死のデータ」から、濁流のように溢れ出した。
幽霊とは、死んだ人間の霊などではない。
それは、人間が死の間際、処理しきれずに放った「意識の余剰」だ。
死という現象に脳が追いつかず、行き場を失った強烈な「拒絶」や「困惑」が、物理的な空間にバグとして焼き付けられる。そしてそのバグは、熱が低い方へ流れるように、より「空っぽな意識」を持つ者へと転写される。
「……あいつら、ただ、自分を終わらせたかっただけか」
亮太は、自分の腕の火傷痕、足首の痣、肩の白い跡を眺めた。
これらは、死者たちが抱えきれなくなった「未完の苦痛」のコピーだ。彼らは亮太を襲いたかったわけではない。その強烈な不和から逃れるために、一番近くにいた「空っぽの器」である亮太に、自分の重みをなすりつけたに過ぎない。
亮太がこれまで心霊スポットに惹きつけられ、逃げられなかったのは、彼が特別だからではない。他人の秘められた感情を覗き見るという歪んだ好奇心が、彼をこの「意識の等価交換」の舞台に引きずり込み、気づけば自分自身の人生さえ、他人の情報の重みで塗り潰されていたのだ。
「押し付けられたんだ……。俺が、覗き見したせいで……」
亮太は、割れた鏡のような声で呟いた。
これまで巡った死者たちは、亮太を歓迎したのではない。自分たちが消え去るための「中継地点」として彼を利用し、自分たちの停滞を亮太の肉体に押し付けて、自分たちだけがこの世から解脱していったのだ。
亮太は、彼らを救ったという満足感さえ許されない。
ただ好奇心に任せて他人の痛みに指を突っ込んだ結果、その痛みが自分のものとして定着し、自分という個体が消失していく。
(……やめろ、俺の中にこれ以上、入れるな……!)
亮太が拒絶しようとした瞬間、全身の痕が一斉に発火するような激痛に変わった。
だが、その拒絶の振動さえも、情報の空白であるこの空き地では、格好の「定着点」となる。
隔離病棟の女、真鍮色の老婆、踏切の女……彼女たちの「終わらなかった瞬間」が、亮太の脳という一つの演算機をパンクさせ、上書きしていく。
彼は、自分が「自分」という輪郭を保てなくなるのを感じた。
それは、数えきれない他人の記憶をすべて自分が引き受け、情報の密度に耐えかねて押し潰されていくプロセスだった。
「……そうか。俺は、こいつらのための『沈殿池』だったんだな」
亮太の視界から、空き地の風景が消えた。
代わりに現れたのは、無数の光る糸が複雑に絡み合い、この世界を形作っている壮大な「意識の網目」。その網目の中で、行き場を失った「バグ」たちが、最も抵抗の少ない亮太という一点の空白へ、雪崩を打って流れ込んでくる。
亮太という人間は、もうどこにもいなかった。
そこにあるのは、世界が抱えきれなくなった「負の記憶」を強制的に転写され、最後にはその密度に耐えかねて消滅するのを待つだけの、ただの記録媒体だった。
意識が遠のく中、亮太は自分自身の名前すら思い出せなくなっていた。
ただ、耳の奥では、自分を「身代わり」にして消えていった死者たちの、薄笑いのような静寂だけが響いていた。




