無名の共鳴
実家を後にしてからの亮太は、もはや「人間」としての体を維持している自信がなかった。
五つの痕は互いに混じり合い、皮膚の下で黒い血管のようにのたうち回っている。鏡を見れば、自分の顔の輪郭が時折、あの隔離病棟の女や、踏切の女のそれと重なっては消えた。
彼が導かれるように辿り着いたのは、都市の境界線に位置する巨大な「無縁仏の集積地」だった。
かつて戦災や身元不明の遺体を収容するために作られ、今では管理する者も途絶え、巨大なコンクリートの「慰霊碑」だけが墓標のように並んでいる場所。そこは、誰にも名前を呼ばれず、誰の記憶にも残らなかった数万の「無名」の意識が、行き場を失って沈殿している巨大な記憶のゴミ捨て場だった。
亮太がその静寂の森に足を踏み入れ、中心にある巨大な石碑の前に立った瞬間、世界から音が消えた。
(……忘れないで。見つけて。私は、ここにいたの。名前を、呼んで)
それは、個人の恐怖を超えた、巨大な「意識の地響き」だった。
これまでの場所では、一人の強烈な意識が空間を捻じ曲げていた。だが、ここは違う。何万という微弱で、しかし共通した「誰からも認知されないことへの恐怖」が、石碑の底で共鳴し、巨大な底なしの沼を作り出していたのだ。
亮太の足元から、黒い泥のようなものが這い上がってきた。
それは泥ではなく、形を持たない「純粋な執着」の集合体だった。
「う、あぁ……っ!」
亮太の全身の痕が、かつてないほど激しく熱を帯びる。
火傷、痣、指跡、手の形……。それらは亮太の意志を無視して、周囲に漂う「無名の意識」たちを呼び寄せる灯台のように輝き始めた。
闇の中から、次々と「それ」は現れた。
これまでの怪異のような明確な姿はない。ただ、人の形を模倣しようとして失敗した、歪な影の群れだ。彼らには顔も、言葉も、名前もない。あるのは、自分がこの世にいたという証拠を、誰かの意識の中に強引に刻み込みたいという、生存本能にも似た凄まじい「渇望」だけだった。
「……やめろ、俺は……俺はあんたたちの器じゃない!」
亮太は叫んだが、その声は影たちの唸り声にかき消された。
一人の影が亮太の足首に触れた瞬間、何千人もの「名もなき死」の瞬間が、一気に彼の脳内に逆流してきた。
名前を知られぬまま野垂れ死んだ焦燥。土の下で誰にも気づかれずに風化していく孤独。その膨大な情報の質量に、亮太の「自我」という細い線が今にも千切れそうになる。
彼らは、亮太という完璧な「中継地点」を見つけたのだ。
母親に調教され、他者の恐怖を吸い込むことに慣れきった、この世で唯一の「彼らを自分の一部として再現できる場所」
(お前になら、分かるだろう? この暗闇が。忘れ去られる、この恐怖が)
影の群れが、亮太の体に吸い込まれていく。
亮太の皮膚が真鍮色に変色し、首筋の白い指跡がさらに深く喉を締め上げる。
彼は、自分が自分という個体ではなく、数万の死者たちの意識を繋ぎ止めるための「生きた記録装置」へと作り変えられていく恐怖に震えた。
「俺は……俺は……」
自分の名前さえ、影たちの叫びにかき消されていく。
亮太は必死に手を伸ばし、冷たい石碑を掴んだ。指先が剥がれ、血が流れる。だが、その痛みさえも、死者たちの共有された絶望の中に溶けていく。
その時、亮太は気づいた。
なぜ、これほどまでに執着が自分を追ってくるのか。
それは死者たちが自分を呪っているからではない。
人間が放つ「意識」というエネルギーには、それ自体に「伝わりたい」「形になりたい」という強い指向性があるのだ。
意識は、この世を構成する見えない糸だ。
その糸が縺れ、解けなくなった場所が「心霊スポット」となり、その糸を拾い上げてしまう者が「俺」なのだ。
「……あ、ああ……」
亮太は、影に飲み込まれながらも、ある一つの残酷な真理を掴みかけていた。
この世の幸不幸も、呪いも、すべてはこの網の目のように張り巡らされた「意識の交換」の結果に過ぎないのではないか。
彼は朦朧とする意識の中で、最後に残った力を振り絞って、その場から這い出した。
背後では、巨大な石碑が、数万の意識の重みに耐えかねるように、低く、重く鳴り響いていた。
彼は、自分がもはや「一人の人間」であることを辞めさせられようとしていることを悟った。
全身を覆う痕が、もはや自分の皮膚なのか、それとも死者たちの皮膚なのかさえ、分からなくなっていた。




