空洞の家
日常は、もはや静止した写真のように意味をなさなくなっていた。
眠れば死者たちの視界が混濁し、起きれば現実の輪郭が歪んでいる。首筋の「白い指跡」は今や喉仏を半分覆い、唾を飲み込むたびに他人の絶望が喉を通るような感覚があった。
これまでの痕は、外から与えられたものだった。だが、昨夜、亮太は自分の部屋で見てしまったのだ。鏡の中に、まだ訪れてもいない場所――かつて自分が捨てた実家の、あの「二階の部屋」が映り込んでいるのを。
そして、自分の胸元に、実家の古い柱に刻まれていた傷と同じ形の痣が、内側から滲み出してきたのを。
「……あそこに、俺の『根』がある」
逃げ続けてきた過去が、身体の変質を通じて彼を呼び戻していた。今の自分を蝕んでいる「意識」の正体を知るには、自分が最初に「意識の侵食」を許した場所へ行くしかない。亮太は、恐怖よりも、自分という器が壊れゆくことへの焦燥に突き動かされ、十数年ぶりにその街へ車を走らせた。
地方の住宅街にひっそりと建つ、何の変哲もない二階建ての一軒家。だが、その家の前まで来た瞬間、亮太の全身の「痕」が、千枚通しで刺されたような激痛を発した。
鍵はかかっていなかった。
埃が積もった玄関を抜け、リビングへ入ると、そこには不自然なほどの「空虚」が広がっていた。家具は当時のまま。だが、家全体が深い溜息をついているような、圧倒的な喪失感に満ちている。
二階の、突き当たりの部屋。
かつて亮太の母親が、長い闘病の末に亡くなった場所だ。
扉を開けると、そこには「何も」いなかった。
これまでの場所のように、おぞましい異形が待ち構えているわけではない。ただ、西日が差し込む部屋の中央に、一脚の椅子が置かれているだけだ。
だが、亮太がその椅子に近づこうとした瞬間、凄まじい「斥力」が彼を襲った。
(……ごめんね。ごめんね。私を見て。私を見ないで)
母親の意識。
彼女が死の間際、若かった亮太に対して抱いたのは、純粋な愛などではなかった。自分の命が消えていくことへの恐怖、そして、自分が死んだ後も息子が幸せに生きていくことへの、醜くも切実な「嫉妬」と、共連れを望む「執着」
「……母さん」
椅子の上に、陽炎のような歪みが生じた。
そこに現れたのは、病で痩せさらばえた母親の姿。だが、彼女の顔には「鏡」が張り付いていた。
彼女の恐怖は、死そのものではなく、「自分の存在が忘れ去られ、息子という未来の光の中に自分が一欠片も残らないこと」への絶望。
彼女は、自分の孤独を亮太に押し付けることで、彼の中に生き続けようとした。
亮太がこれまで心霊スポットを巡り、他者の意識に「接続」することに快感を覚えていた理由が、唐突に腑に落ちた。
彼は幼い頃から、母親のこの「吸い込むような意識」にさらされ続け、他者の感情を受け入れるための「器」として、既に土壌を作られていたのだ。あの心霊スポット巡りは、空っぽにされた自分を埋めるための、代償行為に過ぎなかった。
母親の影から、半透明の糸が伸び、亮太の胸元に触れた。
その瞬間、彼の中に蓄積されていた四つの痕が一斉に叫び声を上げた。
「う、あぁぁぁぁぁ!」
彼自身の深層心理に隠されていた「自分という空洞」が、母親の意識と共鳴する。
彼は母親を愛していた。だが、同時に、彼女の放つ底なしの負の感情に、ずっと殺され続けていたのだ。その「抑圧された恐怖」こそが、すべての怪異を彼に惹きつける磁石となっていた。
(あなたは私。私の苦しみを、あなたが背負うのよ)
影が亮太を包み込もうとする。
だが、これまでの場所と違ったのは、亮太がその恐怖の「意味」を、自らの血肉を通じて理解してしまったことだ。
これは、幽霊が襲っているのではない。
母親の、そして亮太自身の「執着」が、目の前の景色を地獄に書き換えているだけなのだ。
亮太は、必死に自分の名前を唱えた。
「俺は、神崎亮太だ……。あんたの……あんたの所有物じゃない!」
その拒絶が火花を散らした瞬間、母親の影は霧散し、部屋に強烈な風が吹き抜けた。
窓ガラスが激しくガタつき、積もった埃が舞い上がる。
静寂が戻ったとき、亮太は床に崩れ落ちていた。
ふと胸元を見ると、新しい痕が刻まれていた。
それは、幼い子供が縋り付くような、小さな手の形をした痣だった。
「……ははっ」
亮太は力なく笑った。
自分のルーツに触れれば何かが変わると思った。だが、結果は「五つ目の痕」を手に入れただけだった。身体の半分以上が、もはや自分のものではない感覚に侵されている。
彼は、ふらつく足取りで家を出た。
夕闇が街を包み込んでいたが、彼の目には、街中の家々から立ち上る「意識の煙」が、はっきりと見えていた。
誰もが、誰かを呪い、誰かを恐れ、自分だけの地獄を飼っている。
亮太は、その巨大な網の目の中に、自分が完全に絡め取られたことを確信した。
そして、彼を呼ぶ最後の声が、さらに深い場所から聞こえてきた。
それは、これまで触れた誰のものでもない、この「意識の現象」そのものの核心からの呼び声だった。




