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不協和の鏡

 施設から逃げ帰って以来、亮太の部屋には「音」が絶えなくなった。


 窓を閉め、テレビを消しても、壁の向こう側から、あるいはクローゼットの中から、微かな、だが執拗な物音が聞こえる。


 それは紙を丸めるような音だったり、何かが床を這う湿った音だったりした。だが、それ以上に亮太を苦しめたのは、自分の「思考」の隙間に滑り込んでくる、見知らぬ誰かの感情だった。


 ふとした瞬間に、自分でも驚くほどの怒りが湧き上がる。

 コンビニの店員の些細な仕草に、あるいは歩道を歩く見知らぬ背中に。


「壊してしまえ」


「お前だけがなぜ幸せなんだ」


 そんなドス黒い呟きが脳をよぎる。それが自分自身の声ではないと確信できるのは、その感情のあとに、あの真鍮色の老女や、踏切の女の「残像」が網膜に焼き付くからだった。


「……違う。これは俺じゃない」


 亮太は洗面所の鏡に向かい、冷たい水を顔に叩きつけた。


 だが、顔を上げた瞬間に息が止まる。

 鏡に映る自分の首筋。あの「白い指跡」は、今や完全に顎を掴み、口元を覆おうとしていた。そして、腕の火傷痕は不気味に赤黒く変色し、まるで血管の拍動に合わせて呼吸しているように見える。


 不意に、背後に「気配」を感じた。

 振り向くと、ワンルームの狭いキッチンに、あの踏切の女が立っていた。

 いや、それは女の姿をした「ノイズ」だった。

 体の一部がテレビの砂嵐のようにザラついており、彼女の首はゆっくりと、バキバキと音を立てて九十度に折れ曲がる。


(……なんで?)


 彼女の困惑が、亮太の脳に直接、冷たい氷を押し当てるように伝わってくる。


 だが、今回はそれだけではなかった。

 部屋の隅には、あの隔離病棟の「崩れた顔の女」が蹲り、ベッドの上には真鍮色の指が這い回っている。


 彼らがここにいるのではない。

 亮太の中に刻まれた「痕」——彼らの意識の断片が、亮太の「部屋」というプライベートな空間を触媒にして、現実を書き換え始めているのだ。


「出て行け……っ!」


 亮太が叫ぶと、鏡の中の自分と目が合った。

 鏡の中の亮太は、彼自身が一度もしたことがないような、卑屈で、邪悪な笑みを浮かべていた。


 鏡の中の自分が、ゆっくりと口を開く。


『お前が、私たちを呼んだんだ。その体に、場所を作ったんだ』


 それは、これまでに触れた全ての怪異の声が重なったような、不快な和音だった。


 亮太は堪らず鏡を拳で叩き割った。

 砕け散った破片の一つ一つに、歪んだ自分の顔と、その後ろに控える無数の「意識」が映り込んでいる。


 亮太は震える手で、割れた鏡の破片を拾い上げた。

 その時、指先に鋭い痛みが走り、血が滴る。

 血は床に落ちる前に、何かに吸い込まれるようにして消えた。

 いや、床にいた「何者かの影」が、その血を啜ったのだ。


「……あ」


 その瞬間、亮太は気づいてしまった。

 彼らは彼を殺そうとしているのではない。

 彼らは「自分たちの意識を留めておける場所」を求めている。

 肉体を失い、意識だけがその場に焼き付いてしまった彼らにとって、他者の恐怖を吸い込み、共鳴してくれる亮太の体は、この世に再び触れるための「器」になりつつあるのではないか。


 亮太は逃げるように部屋を飛び出した。

 深夜の街を当てもなく走る。

 だが、すれ違う人々の顔が、すべて一瞬だけ、あの施設で見た「悪意の泥」のように溶けて見える。


 街全体が、人々の無意識が放つ微細な恐怖や怒りで震えているように感じられた。

 これまで「幽霊」だと思っていたものは、特別な存在ではなかったのかもしれない。

 それは、誰もが抱えている「心の澱」が、何かの拍子に溢れ出したものに過ぎないのではないか。


「……俺は、どこまで俺でいられるんだ?」


 亮太は、自分の境界線が、他者の意識という名の泥水に溶け出していくのを、止める術を知らなかった。

 ただ、首筋を掴む白い指の感触だけが、吐き気がするほど生々しく、彼を次の目的地へと導いていた。


 その目的地は、彼がこれまで避けてきた、彼自身の「過去」に関わる場所だった。

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