悪意の鋳型
三つの痕は、亮太の皮膚の上で静かに、しかし確実にその領土を広げていた。特に首筋へと這い上がる白い指跡は、時折、彼の喉を内側から締め上げるような違和感をもたらす。
「……次は、ここか」
亮太が辿り着いたのは、地図からも抹消された、ある新興宗教の施設跡だった。かつて「救済」を説きながら、最後は集団的な暴走の果てに凄惨な結末を迎えた場所。巷では、近づく者すべてを廃人にする「最凶の悪霊」が巣食う地として恐れられている。
施設内は、これまでの場所とは異質の「熱」に満ちていた。
廊下には引き裂かれた経典が散乱し、鼻を突くような酸っぱい腐敗臭が漂っている。亮太が奥の礼拝堂へ足を踏み入れた瞬間、背後の扉が、意志を持っているかのような勢いで激しく閉ざされた。
「……っ!」
懐中電灯の光が激しく明滅し、沈黙が訪れた。
だが、その沈黙は「音」で埋め尽くされていた。何十人、何百人という人間の、怒鳴り声、すすり泣き、罵倒――それらが重なり合い、一つの巨大な「耳鳴り」となって亮太の鼓膜を叩く。
礼拝堂の祭壇の上に、それは現れた。
闇を切り裂くようにして浮かび上がったのは、巨大な「角」と「牙」を持つ、絵に描いたような異形の影だった。それは誰もが想像する「悪霊」そのものの姿をして、禍々しいオーラを放っていた。
「う、ああ……!」
亮太は膝をついた。その影から放たれる圧倒的な破壊衝動に、彼の意識が掻き乱される。
だが、痛みに耐えながら影を注視した亮太は、ある「違和感」に気づく。
その悪霊の影は、まるで不器用な継ぎ接ぎ細工のように見えた。
影の表面をよく見れば、無数の「小さな顔」がひしめき合い、それぞれが勝手な方向に絶叫している。ある顔は「殺してやる」と叫び、ある顔は「助けて」と泣いている。それらバラバラの叫びが、無理やり一つの形に押し込められ、辛うじて「恐ろしい悪霊」という記号を形作っているように見えた。
(壊せ……壊して……私を……あいつを……)
脳内に響く声に、一貫性がない。
個人の執着だったこれまでの怪異とは違う。ここにあるのは、膨大な数の、しかし一つ一つは空っぽな「拒絶」の集積だ。
亮太は、自分の首筋の痕が、これまでにないほど激しく脈打つのを感じた。
まるで、彼の中に蓄積された「三つの痕」が、目の前の巨大な影に吸い込まれようとしているかのような、恐ろしい引力。
「……なんだ。これ、は何なんだ……」
これまでの怪異は、その場所で死んだ誰かの姿をどこかに残していた。
だが、この目の前の怪物は、誰でもあって、誰でもない。
まるで、捨てられた感情だけが寄り集まって、勝手に動いている「泥の塊」のようだ。
その時、肉の塊のような腕が、亮太の顔を掠めた。
その指先が触れた瞬間、亮太は見た。
信者たちが最期に抱いたのは、神への信仰ではなく、隣に座る人間への剥き出しの「殺意」と、自分を裏切った世界への「復讐心」だったこと。その数多の負のエネルギーが、この密閉された空間で出口を失い、互いを食らい合いながら、巨大な一つの「意志」を模倣し始めている光景を。
「……っ、離せ!」
亮太は、床に落ちていた金属の棒を無我夢中で振り回し、迫り来る黒い腕を払い除けた。
手応えは泥のように重く、しかし中身がない。
彼は閉ざされた扉を力任せに蹴破り、狂ったように施設を走り抜けた。
背後からは、何百人もの怒声が混ざり合った「不協和音」が、地響きのように追いかけてくる。
車に逃げ込み、荒い息を吐きながらバックミラーを見る。
そこには、赤く充血した自分の目と、今や顎にまで指をかけようとしている「白い跡」があった。
亮太は、自分の指先がわずかに震え、自分のものではない「誰かへの怒り」が胸の奥に芽生え始めていることに、深い恐怖を覚えた。
あの場所にあったものは、魂と呼べるほど高尚なものではなかった。
ただの、腐った意識の吹き溜まり。だが、それが意思を持っているかのように襲いかかってきた。
「……あいつらは、何をしたかったんだ」
亮太は、自分の手が、かすかにあの影と同じ不気味な震えを帯びていることに気づき、激しくハンドルを握り締めた。
彼の中に蓄積された三つの痕が、今、あの「悪意の泥」と共鳴し、彼自身の境界線をさらに曖昧にしようとしていた。
整理するはずだった旅は、今や、自分という人間が「何か」に塗り替えられていく、終わりのない浸食へと姿を変えていた。




