踏切の残像
腕の火傷と足首の痣。鏡を見るたび、亮太は自分が得体の知れない「蒐集品」に成り下がっていくような錯覚に陥っていた。
普通なら、ここでこの不気味な徘徊を辞めるべきなのだろう。だが、亮太にはそれができなかった。
あの異形たちと接触し、彼女たちが抱いた剥き出しの「意識」を脳に直接流し込まれた瞬間、亮太は生まれて初めて、他者と完璧に繋がったという、恐ろしくも甘美な全能感に触れてしまったのだ。
誰とも深く関われず、透明な壁の中で生きてきた亮太にとって、あの死の淵の恐怖こそが、彼が他人の体温を、魂を、最も生々しく感じられる唯一の「接続」になっていた。
「……もう、戻れない」
自分に言い聞かせ、亮太は深夜の街へ車を走らせた。今夜向かったのは、都心から少し外れた場所にある、古びた踏切だった。
深夜二時。街灯が一つだけ点滅している。
亮太は遮断機の前に立ち、タバコを吹かした。遠くで電車の走る音が微かに聞こえるが、周囲には誰もいない。
ガシャン、と遮断機が下りた。警報器の音が、静寂を切り裂くように鳴り響く。
だが、電車のライトは見えない。それどころか、時刻表にこんな時間の通過予定はないはずだった。
踏切の向こう側。点滅する赤い光の中に、一人の女が立っていた。
白い衣を纏い、顔を覆うほどの長い髪。
一見すれば、誰もが想像する「幽霊」そのものの姿だ。だが、亮太の目はその細部を逃さなかった。彼女の輪郭は周囲の空気と混ざり合い、静止しているはずなのに、まるでテレビの砂嵐のように細かく震えている。
女がこちらへ歩き出そうと、一歩踏み出した瞬間。彼女の膝が、あり得ない方向に「バキッ」と逆折れに曲がった。
女の体は、歩みを進めるごとに崩壊していった。肩が外れ、首が真横に倒れ、白い服には泥と油が、内側から滲み出すようにじわりと広がっていく。
亮太は逃げるどころか、吸い寄せられるように、その歪んでいく顔を覗き込んだ。
(……え? なんで?)
言葉にならない意識が、踏切の警報音に同期して亮太に流れ込んできた。
そこには、憎しみも、悲しみもなかった。
あるのは、ただ、凍りついたような圧倒的な「困惑」だった。
彼女は、自分が死んだことさえ理解していない。
彼女にとっての恐怖は、犯人でも電車でもなく、「理解不能な事態によって、自分の日常が唐突に破壊されたこと」そのもの。
「今、幸せだったはずなのに、なぜ体がこんな形になっているのか」
その論理的な解決がつかない巨大なバグが、彼女の意識をこの踏切に永遠に縛り付けていた。
女の影が、亮太の目の前まで来た。
彼女の手が、亮太の肩に置かれる。
その瞬間、視界が激しく点滅した。
凄まじい衝撃。鉄の匂い。
自分が肉の塊へと変わっていく瞬間の、魂が置き去りにされるような、あの救いのない困惑。
「死」という巨大な事実を、脳が拒絶し、処理しきれずに回路が焼き切れる音――。
「うわぁぁぁぁぁ!」
亮太は絶叫し、遮断機を潜り抜け、がむしゃらに走り出した。
強烈な接続のあとに訪れる、脳が焼き切れるような拒絶反応。
背後で、再び「ガシャン」と音がした。警報器の音の中に、カシャン、カシャンと、硬いものが地面を叩く音が混ざり、彼を追ってくる。
車に逃げ込み、ルームミラーを確認する。
肩のあたりに、白い指の跡が、不自然な白さで残っていた。
火傷、痣、そしてこの白い跡。
亮太は震える肩を押さえながら、どこか歪んだ笑みを浮かべた。
「……あいつも、同じなんだな」
彼女が最後に感じたのは、絶望ですらなかった。ただの、答えのない問い。
亮太に刻まれる痕は、これで三つ。
彼は、死者たちが抱いた「解決できない恐怖」を分かち合うことでしか、己の存在を確認できなくなっていた。
車内に逃げ込んだ亮太は、ハンドルを握ることも忘れて自分の肩を凝視した。
そこには、白い指の跡が、まるで骨まで透けて見えるような不自然な白さでこびりついていた。
火傷、痣、そしてこの白い指跡。
彼は震える手で自身の顔をなぞった。死者たちが最期に抱いた「未解決の問い」を、脳に直接注ぎ込まれた残響がまだ耳の奥で鳴っている。恐ろしいはずなのに、その純粋すぎる他者の意識に触れた感触が、空っぽだった自分の内側を不気味に満たしていく。
亮太はゆっくりとギアを入れ、重い鉛を引くような足取りでブレーキを離した。
意識という名の毒が、音もなく彼の精神の深層へと沈殿していくのを、彼は否定できなかった。




