不燃の執着
神崎亮太の趣味は、地図から消えかけた廃村や、解体を免れた古い建築物を一人で訪れることだった。
彼が探しているのは「恐怖」そのものではない。ただ、稀に空気が生理的に受け付けないほど変質している場所がある。そこにある「何か」に触れるときだけ、彼は自分が生きている実感を強く得られた。
今夜、彼が訪れたのは、山深い森に飲み込まれつつある木造の古い隔離病棟だった。戦後間もない頃、ある特殊な伝染病の疑いをかけられた人々が、死ぬまで外に出ることを許されなかった場所だ。
「……ここか」
亮太は懐中電灯を向けた。廊下の床は腐り落ち、壁には当時の患者たちが書いたと思われる、意味をなさない数字や線が刻まれている。
彼が目指したのは、最奥にある「302号室」。そこで一人の女性が亡くなって以来、その部屋だけはどれほど取り壊そうとしても、関わった者に「あり得ない不吉」が訪れるという。
部屋に入った瞬間、亮太の呼吸が止まった。
気温は低くない。だが、喉の奥がカラカラに乾き、目を開けているのが辛いほどの「乾燥した熱」を感じた。
(消えたくない。まだここにいる。私は、まだ――)
頭の中に、泥のような何かが直接流れ込んでくる感覚。それは言葉ですらなく、ただ重苦しい圧力となって亮太の脳を締め付けた。
不意に、部屋の隅で「火」が灯ったように見えた。
だが、それは物理的な炎ではない。
そこに現れたのは、真っ赤な振袖を纏った女性の姿……。
しかし、その輪郭は絶え間なく揺らぎ、溶け続けている。彼女の顔は、滑らかな肉の塊のようで、目も鼻も口も、泥のように下へ下へと流れ落ちていた。
「う、あ……」
亮太は足がすくんだ。殺人鬼のような凶暴な存在ではない。だが、この異形から放たれる「拒絶」のエネルギーは、暴力よりも確実に亮太の精神を削り取っていく。
異形は、ただ一点を凝視していた。そこには、割れて破片だけになった鏡が落ちている。
彼女は自分の顔が崩れていくのを、その鏡の破片の中で永遠に見続けているようだった。
彼女が恐れているのは、誰かに殺されることでも、病そのものでもない。自分という存在が損なわれ、醜く変わり果て、誰にも知られずに「無」へと溶けていくこと。そのものに、彼女は震えていた。
異形が、ズルリと床を滑るように近づいてくる。
彼女が通った後の床は、焼けたような黒い跡が残る。亮太はその異形の中に、底なしの孤独と、自分自身の死を認められない狂気が渦巻いているのを感じた。
「やめろ……来るな!」
亮太は振り払い、無我夢中で部屋を飛び出した。
廊下を走る足音が、自分のものだけではない。背後から、ボタボタと何かが床に落ちる嫌な音と、必死に自分を繋ぎ止めようとするような、言葉にならない呻きが追いかけてくる。
車に逃げ込み、荒い息を吐きながらミラーを見る。
そこには何も映っていない。
だが、亮太の腕には、確かに火傷のような赤い跡が残っていた。
「……なんだ。今の、は何だったんだ……」
亮太はハンドルを握りしめた。手が小刻みに震え、鍵を回すのにも苦労する。
これまで見てきた「心霊現象」とは明らかに異質だった。
鏡を見ていたあの目は、俺を見ていたのではない。自分という存在が消えていく恐怖を、ただひたすらに見つめていた。
「……どうして、あんな姿に」
その問いに答えてくれる者はいない。
亮太は、自分が踏み込んでしまったものの底深さに、初めて薄ら寒い予感を覚えた。
ただの幽霊、ただの死者の霊。そんな言葉では、先ほどの「熱」を説明できない。
彼は逃げるようにアクセルを踏んだ。
バックミラーに映る廃病棟の影が、闇の中に溶けて消えるまで、亮太は一度も後ろを振り返ることができなかった。




