病床の婚約者に水しか与えない令嬢のお話
「んんっ……」
伯爵子息ソールヴィクト・リークライムは目を覚ました。明るい。窓から差し込む光で目が覚めたようだ。日の光がひどく心地よく感じられた。
寝起きのぼんやりした頭で周囲を見渡す。草花をモチーフにした落ち着いた緑の壁紙。上品かつ高級な調度品の数々。どれも見覚えがない。訪れたことのない部屋のようだった。
起き上がろうと思ったが、首から下がまるで動かない。まだ身体は眠りを欲しているらしい。
視線をめぐらせていると、窓辺に誰かがいることに気がついた。
肩に届かない長さで切りそろえられたベージュの髪。整った顔立ちに、理知的な輝きを放つ深緑の瞳。紺の飾り気のないワンピースの上に白衣をまとったほっそりとした身体。
水辺に咲く一輪の花のように美しい令嬢だった。
彼女の姿を認めたとたん、ぼやけていた頭の中がはっきりとした。
「グ、グラセネーレ!?」
そこにいたのはソールヴィクトの婚約者、子爵令嬢グラセネーレ・メーディハルブだった。
見知らぬ部屋で見知った顔を目にしてソールヴィクトはかえって混乱した。婚約関係にあるからと言って異性の寝室に断りなく入るのは無作法なことだ。彼女はそんな無礼を働く人物ではなかったはずだ。そもそもなぜこんな見知らぬ部屋で寝ているのか。
まるで状況がつかめない。とにかく起き上がろうと、ソールヴィクトは全身に力を籠めた。
「お、起き上がれない!?」
身体がほとんど動かない。手も足もまるで自由にならない。意のままに動かせるのは首から上だけで、ほかの部分はわずかにしか動かせない。先ほどは眠りから覚めてないせいだと思ったが、そういう問題ではない。こんなことは初めてだった。
見知らぬ部屋にいて、婚約者がなぜか寝室にいて、体が動かない。おかしなことばかりだ。ソールヴィクトは夢かと思い頬をつねろうとしたが、腕が動かせなかった。
「私はどうしてこんなところにいるんだ? 君はどうして……ごふっ!?」
問いかけようとすると、途中でせき込み言葉を続けられなくなった。ひどくのどが渇いていた。
「あらあら、いけませんね」
そう言ってグラセネーレは吸い飲みを取り出した。吸い飲みとは病床にある者に水を飲ませる道具だ。ティーポットのような形状で、ベッドに寝た状態でもその先端から無理なく水を飲むことができる。その吸い飲みはどこかジョウロを思わせる意匠が施してあった。
吸い飲みの先端を口に当てられた。水気を口元に感じると、ソールヴィクトは夢中で吸い付いた。体の中にじんわりと水がしみわたるのが感じる。どうやら自分の体はずいぶんと水を欲していたようだった。
あっという間に吸い飲みの中身を飲み干してしまった。
水を飲んで人心地ついたのか、先ほどの混乱はすっかり収まり、気分が落ち着いた。
「ありがとう、グラセネーレ。おいしい水だ。生き返った気分だ」
「それはよかったです」
「それで……どうして私は君に看病してもらっているんだろうか?」
まだわからないことは多い。だが先ほど、グラセネーレはコップではなく吸い飲みを取り出した。吸い飲みは病人のために用意する道具だ。そのことから、自分はどうやら何かの病気になり、彼女が看病をしてくれているのだと理解した。そんな風に考えられるくらいソールヴィクトは冷静になっていた。
ソールヴィクトの問いに、グラセネーレは淡々と答えた。
「あなたは『魔草酔い』となったのです」
草花は大地から水分と栄養を吸い上げる。だがこの世界には、それと共に魔力を吸い上げる性質をもった草花がある。そうした植物を『魔草』と呼ぶ。『魔草』は魔力を蓄えているため、通常の草花とはまったく異なる特性を備えている。そのため、魔法の触媒や薬の材料として重宝されている。
だが魔力というのは時として人に悪い影響を与えることがある。『魔草』の群生地に何の備えもなく踏み入ると、様々な体調不良を引き起こすことがある。めまい、吐き気、手足のしびれなどなど、その症状は『魔草』の種類によって様々だ。複数の『魔草』が生えている場所ではそれらが複合し、思いもよらない結果を招くことがある。そうした症状をまとめて『魔草酔い』と言う。
「そんなバカな……『魔草酔い』にならないため、防護用の護符はきちんと装備していた。連れて行った従者たちもなんの異常もなかったはずだ」
ソールヴィクトはある目的のため、入念な準備を整え子爵領の『魔草』の群生地に赴いた。信頼できる使用人と護衛の騎士たちを連れ、『魔草』に詳しい治癒術士も同行させた。なんの危険もなかったはずだ。目的を果たし、帰りの馬車に乗ったところまでは覚えている。だがその先は……どうにも思い出せなかった。
「現地では異常はなかったようですが、帰りの馬車であなたは気を失ってしまったのです。『魔草酔い』とすぐにわかりました。子爵領にはわたし以上に『魔草酔い』の専門的な治療ができる治癒術士がいません。そこでわたしが看病することにしたのです」
「そうか……なんてことだ。すっかり君に迷惑をかけてしまったな……」
「いいえ、気になさらないでください。わたしはうれしかったのです」
そういってグラセネーレは部屋の一角、机の上に飾られた花瓶に目を向けた。そこには紅い花が生けられている。5枚の花弁は先端がとがっており、内側に曲がっている。どこか禍々しく、しかし美しい花だった。
「『トリシーカの花』……わたしの大好きな花。あの花を採ってくるために『魔草』の群生地に行ってくださったのでしょう?」
そうだ。ソールヴィクトはそのために『魔草』の群生地に行ったのだ。婚約者に喜んでもらえたが、彼の胸中は複雑だった。婚約者を想っての行動だった。しかしそのせいで、他ならないグラセネーレに迷惑をかけることになってしまった。
「ありがとうございます、ソールヴィクト様」
グラシネアはそう言って、笑顔を見せた。慈愛に満ちた優しい笑みだった。
ソールヴィクトの心の葛藤は消え去り、胸の中が温かな気持ちで満たされた。
この笑顔だ。これこそが、彼が求めて止まないものだったのだ。
伯爵子息ソールヴィクト・リークライムは美しい青年だった。肩まで届くきらめく金の髪に、サファイアのように輝く青の瞳。すらりとした長身に洗練された礼儀作法。道を歩けば10人に9人は振り返り、流し目ひとつで身持ちの固い令嬢も頬を赤くする。貴族社会で浮名をはせる貴族子息だった。
数々の令嬢たちとの付き合いのあるソールヴィクトだったが、特定の誰かと深い仲になることはなかった。特別なことをせずとも女性が集まり、甘い言葉のひとつでとろけてしまう。彼にとって、女性とのつきあいは簡単すぎた。遊びとしては楽しくとも、本気になれるものではなかった。
彼は庭園の色とりどりの花を愛でるように、令嬢たちとのつき合いを楽しんだ。
そんな彼の婚約相手に選ばれたのは子爵令嬢グラセネーレ・メーディハルブだった。
しっとりとしたベージュの髪は美しい。しかし彼女は肩に届かないような長さで切りそろえてしまっており、清潔感はあっても華やかさには欠けている。
深い緑の理知的な瞳は美しい。顔立ちも整っている。しかしその表情はいつもどこか冷めていて、愛想には欠けている。
身体は細く、スタイルは悪くない。だが彼女は学園内では制服の上に白衣をまとっている。清潔感のある装いではあるものの、優雅さには欠けている。
容姿は悪くなかったが、どちらかと言えば地味な令嬢だった。
そんなグラセネーレだったが、貴族社会では名を知られていた。彼女は魔法薬草学においてきわめて優秀な成績を修めている。特に『魔草』に限って言えば、学者顔負けの知識を有しているとの評判だった。
また彼女は、男にまるで興味を持たないことでも有名だった。どれほど容姿の整った男性がいようとろくに視線を向けることすらない。社交の場でも男性相手には最低限の会話しかしない。「子爵令嬢グラセネーレは人間の男より植物を愛しているのでないか」などと噂されるほどだった。
ソールヴィクトの父は、息子の美しさに惑わされない優秀な令嬢を選んだのだ。
初めての顔合わせの時。ソールヴィクトが目を合わせてもグラセネーレは冷めた目のままだった。彼にとっては新鮮な反応だった。彼と初めて目を合わせた令嬢は目を潤ませ顔を赤らめるのが常だったのだ。
礼法に則った挨拶を交わした後、二人きりとなった。そこで交わした会話はごくありふれた世間話であり、きわめて形式的なものだった。そして二人の相性も悪くないと両家の当主は判断し、婚約は結ばれた。
その後、学園では婚約者としてふるまうこととなった。だがそれも、なにも特別なことはなかった。学食で一緒に昼食を摂り、週に一度は放課後にお茶の席を持ち、二人で他愛ない世間話を交わす。それだけだ。
グラセネーレはソールヴィクトの美しさにまったく惑わされることはなかった。彼女の冷めたまなざしは、婚約者に対しても熱を持つことはなかった。
そのことについて、ソールヴィクトは大して気にしていなかった。
自分の容姿に魅せられてまとわりついてくれる女性たちに辟易していた。呼んでもないのに女性がよってきて、いろいろなことを要求してきて、自分のことをめぐり勝手に争ったりする。そんな令嬢たちを心のどこかで下に見ていた。恋愛というものは対等の相手で成り立つものだ。ソールヴィクトにとって真に愛することのできる令嬢はいなかった。
他の令嬢たちとはまったく逆の理由だが、愛情が成り立たないという意味ではグラセネーレも変わらない。むしろ自分の容姿で騒いだりしない分、気が楽だという思いがあるだけだった。
グラセネーレの側も、政略結婚以上の関係を求める様子はないようだった。
二人はそんな冷めた婚約関係を続けていた。
そんなある日のこと。ソールヴィクトはちょっとした用件を伝えるためにグラセネーレのもとを訪れた。次のお茶会を予定していた時間に別件が入ってしまったのだ。使用人に伝言を命じれば済む用事だったが、次回の日時を決めるには直に話した方が手間が少ない。
婚約者の居場所を尋ねると、学園内の研究用の菜園にいるとのことだった。
その菜園は本来は学園の生徒すべてに解放されたものだが、実質的にはグラセネーレ専用となっている。『魔草』の研究に使っているとのことだった。
菜園に訪れると、整然と並ぶ様々な草花に目を奪われた。各所に名称が書かれたラベルが立っている。実に几帳面かつ丁寧に栽培されているようだった。
グラセネーレの姿はすぐに見つかった。やぼったい作業着を着て、手には厚手の手袋をしている。
普通の令嬢ならこんな姿を婚約者に見られたくないだろう。一瞬、出直そうかと思った。だが普段の冷めた態度から、そうしたことを気にするとも思えない。かまわず声をかけることに決めた。
そう思ったが、ソールヴィクトは声をかけることができなかった。
グラセネーレは草花に向けて笑いかけていた。
その笑顔に目を奪われた。ソールヴィクトが知る令嬢の笑顔は2種類だけだった。彼の美しさにとろけた甘ったるい笑顔か、あるいは彼に取り入って甘い汁を吸おうという卑しい笑顔だ。
グラセネーレが草花に向ける笑顔はまるで違った。見ているだけで胸が温かくなるような、慈愛に満ちた顔だった。普段は冷めた目しかしない彼女がこんなにも優しい顔をするなんて、夢にも思わなかった。
そうしてしばらく見つめていると、グラセネーレの方が気づいた。その瞬間、あの笑顔は失われ、見慣れたいつもの冷めた顔になってしまった。そのことにソールヴィクトは胸が締めつけられるような悲しみを感じた。
「ソールヴィクト様? こんなところまでわざわざお越しになるとは、いったいどんなご用件でしょうか?」
「あ……ああ、作業中に済まない。実は次のお茶会の予定について相談があるんだが……」
訝し気に問いかけてくるグラセネーレに、ソールヴィクトはしどろもどろになりながらも用件を済ませた。そしてその場を退散した。
その夜はまともに眠れなかった。グラセネーレの笑顔が胸に焼きついていた。あの笑顔が自分に向けられたらどんなに幸せな気持ちになるだろう――そのことを想像するだけで胸が高鳴って仕方なかった。
これがソールヴィクトにとって初めての、本物の恋だった。
ソールヴィクトは生活を改めた。
まず女性関係を整理した。婚約しても彼の美しさによってくる令嬢は少なくなかった。貴族間のつながりは有用であるため、婚約に影響ない範囲で令嬢たちの相手をしていた。だがそれを一切やめた。
グラセネーレが軽薄な男を好きになるとは思えない。相手の気持ちを得るにはまず一途であることを示さなければならない。それにグラセネーレのあの優しい笑顔を思えば、他の令嬢などまるで魅力を感じられない。余計なことに時間を取られたくなかった。
昼食の時間やお茶会の席ではこれまでより積極的に話しかけるようにした。しかし彼女の関心を得ることはできなかった。ほかの令嬢なら甘い言葉の一つもかければ簡単に落とせるのに、どれだけ言葉を尽くそうと、グラセネーレの冷めた表情を崩すことはできなかった。
共通の話題を持つため魔法薬草学について勉強した。時には菜園での作業を手伝ったりした。そうして打ち解けていくと、グラセネーレも時折笑顔を見せてくれるようにはなった。しかしその笑みは社交的な淑女の笑みであり、あのとき草花に向けていた温かなものとは別の種類のものだった。
それからもソールヴィクトは様々な工夫を重ねた。花をプレゼントしたり、草花をモチーフにしたアクセサリを贈ったりした。それで少しは距離が縮まったが、相変わらずグラセネーレは淑女の笑みしか見せてくれない。菜園の手伝いで時折あの笑顔を目にすることはある。しかしその笑顔を向けられるのは、常に草花たちだけだった。
自分にはあの笑顔を向けてくれない。そのことがもどかしく、ソールヴィクトは悩みに悩んだ。
そんなある日のこと。グラセネーレのメーディハルブ子爵家を訪れた際、使用人の一人からこんな話を聞いた。
「お嬢様は『魔草』の中でも『トリシーカの花』を特に好んでいらっしゃるようです」
その花のことについては、グラセネーレと話題を合わせるために勉強して知っていた。
『トリシーカの花』は、5枚の花弁を持つ紅い花だ。魔法の触媒としての価値はあまり高くないがその存在は希少で、メーディハルブ子爵領以外ではあまり見られない花だ。
使用人に聞いたところ、子爵領内には『魔草』の群生地があり、そこに『トリシーカの花』が咲くという。
『魔草』の群生地に行けば『魔草酔い』に罹る危険がある。だが人任せにはできなかった。自分の手で採った花を渡さなければ、グラセネーレの笑顔は得られないと思った。
『トリシーカの花』の採取に向けて下準備は怠らなかった。
まずメーディハルブ子爵に許可を取った。たとえ婚約相手の家の領地とはいえ、断りもなく踏み入るのは無作法にあたるからだ。もちろん、この件についてはグラセネーレに秘密にしてもらうようお願いしておいた。
現地に赴くにあたっては、信頼のおける使用人と伯爵家に仕える騎士たちも同伴させた。『魔草』に詳しい治癒術士も手配した。『魔草酔い』を防ぐ護符を全員に装備させた。
万全の態勢で臨み、何の問題もなく『トリシーカの花』を入手した。
しかし帰りの馬車の中で、ソールヴィクトは『魔草酔い』に罹ってしまったのだ。
グラセネーレは『トリシーカの花』を受け取り喜んでくれた。しかし自分の手で渡すことはできなかった。おまけにグラセネーレに看病をしてもらうことになってしまった。ソールヴィクトは情けなくて泣きたい気分だった。
でも、それ以上の喜びが湧き上がるのがおされられなかった。グラセネーレがあの夢にまで見た温かな笑顔を、ついに自分に向けてくれたのだ。全てが報われた思いだった。
看病をするのはグラセネーレ一人だけだった。『魔草酔い』の患者は、その身に巣くう魔力が周囲に影響を及ぼすことがある。専門家であるグラセネーレ一人の方が危険が少ないとのことだった。
そうすると、この見慣れない部屋はきっと子爵邸の離れか何かなのだろう。ソールヴィクトはそう当たりをつけた。
朝、グラセネーレがカーテンを開く。窓から降り注ぐ日の光を浴びると目が覚める。
グラセネーレは朝昼晩の食事の時間は一緒にいてくれた。彼女の手ずから、あのジョウロの形をした吸い飲みで水を飲ませてくれた。しかし食べ物は与えられなかった。
最初のころ、ソールヴィクトはそのことについて問いかけたことがあった。
「水ばかりではなく、何かを食べなくても大丈夫なのだろうか?」
「必要な栄養は日々、回復魔法でお体に与えています。今は何かを食べて内臓に負担をかける方がお体に触るのです。どうかご辛抱ください」
「ああ、そういうことか。それなら心配ない。不思議と空腹は感じないんだ」
水しか口にしていないのに空腹感はなく、腹が鳴ってしまうようなこともなかった。病気で食事が制限されると、治ったらあれを食べたい、これを食べたいと考えるものだ。しかし今はそういう気分にもならなかった。
身を起こすこともできないのは、普通なら強いストレスを感じることだろう。だが日中も眠気が強く、あまり動きたい気分にはならなかった。子供のころは風邪をひいてベッドで寝ていると、早く治して外を駆け回りたいとうずうずしたものだ。でも今は、まるでそんな気が起きない。
水以外口にできない。体を動かすこともできない。それなのに不思議と満ち足りた気分だった。
漠然と現状に不安感を覚えることもある。だが、グラセネーレからあのジョウロのような吸い飲みで水を飲ませてもらうと、たちまち安らかな気分になることができた。
自分はもしかしたら甘えたがりなのかもしれない。想い人から甲斐甲斐しくお世話されるのがうれしいのかもしれない。ソールヴィクトは自分の意外な一面に気恥ずかしさを覚えた。
早く治らなければグラセネーレに迷惑をかけ続けてしまうことになる。それでもこの時間が少しでも続くことを願わずにいられなかった。
そうして日々は過ぎていった。
ある日、ソールヴィクトはふと気が付いた。
グラセネーレの看病を受け始めてからずいぶんすぎたように思える。日中は眠っている時間が長く、時間感覚がどうにもあいまいだ。
昼食に水を飲ませてもらった後。ソールヴィクトはグラセネーレに問いかけた。
「グラセネーレ、私がここにきてからどのくらい経ったのだろうか?」
「今日で一か月ほどになります」
「い、一か月だって!? ちょっと待ってくれ。それだけ過ぎたのに、伯爵家から使いの者は来ていないのか? 父や母は見舞いにも来なかったというのか?」
「ええ、伯爵家からどなたもいらっしゃったことはありません」
「それはおかしい。そんなことはありえないんだ……!」
ソールヴィクトは伯爵家の嫡男だ。その生死は家の存続に関わる。一か月も寝たきりの息子の様子を見に来ないなど、常識的に考えてありえない。『魔草酔い』の影響を受けないためにこの部屋に入れなかったとしても、伝言のひとつも残すはずだ。
日中はうとうとしていることが多かった。それでも誰かが訪問すれば気づくはずだ。伝言があればグラセネーレが教えてくれたはずだ。何もないというのは、あまりにもおかしなことだった。
ソールヴィクトの指摘を受けると、グラセネーレは顎に手を当てて何やら思案し始めた。
不安にさいなまれながら彼女の様子を見つめる。やがて、グラセネーレは口を開いた。
「そうですね……そろそろお見せしてもいいかもしれません」
「見せる? いったいなにを見せると言うんだ?」
「これです」
そう言ってグラセネーレはいきなり掛布団を取り去った。
突然そんなことをされて、ソールヴィクトは思わず文句を言いそうになった。だが言葉は形にならなかった。驚愕がすべてを塗りつぶした。
「う、ううっ……うわああああああああああああああ!」
ソールヴィクトは絶叫した。
ベッドに横たえられた自分の身体には、手足が無かった。代わりに別の何かが生えていた。
腕の付け根から直径五センチほどの何かが何本か絡まって伸びている。その緑色の質感は、まるで植物の蔦のようだ。
足から伸びるのは、灰褐色でガサガサで、いくつもの筋が入った表皮の丸い何か。まるで樹木の根だ。
手も足も別物と化していた。それなのに、実際に目にするまで何の違和感もなかった。ただ手足を動かせないだけだと思い込んでいた。
なにかの悪い冗談だ。手足を失い別の物を括りつけたと言われれば、その方が納得がいく。そんな風に自分をだますことができなかった。なぜならそれなの物に、自分の身体とつながっている感覚がある。その実感があまりにもおぞましかった。
「グラセネーレ! こ、これはっ、これはっ!? どういうことなんだだ!?」
「ソールヴィクト様、どうか落ち着いてください」
「落ち着いてなどいられるか! 私の手がっ、足がっ! いったいどうなってるんだ!? これはなんなのだ!? これは、これは、これはああああああああ!?」
ありえざる光景に、自分が異形と化した実感に、ソールヴィクトは恐慌に陥った。もはや叫ぶばかりでどんな言葉も届かないかと見えた。
そんな彼の口元に、グラセネーレはそっと吸い飲みを差し出した。水など飲んでいられる状況ではない。頭ではそう思った。しかしソールヴィクトの口は、意に反してその吸い飲みから水を吸った。
水を飲むにつれて、混乱に陥っていた頭がすっと冷静になった。その急変にソールヴィクト自身が戦慄した。
「……落ち着いた。落ち着いてしまった。なんなんだその水は? 鎮静剤でも入っているのか?」
「いいえ、これはただの水です。ソールヴィクト様が落ち着かれたのは、『植物の安寧』によるものです」
「『植物の安寧』?」
「植物は、日の光を受け水を根から吸えば、満たされ安らぎを得るものです。あなたが落ち着いたのはそうした『植物の安寧』によるものです」
ソールヴィクトは眉を寄せた。婚約者と話題のネタを得るために、彼も多少は魔法薬草学の勉強をしてきた。だが『植物の安寧』などという言葉は聞いたことがない。しかし、グラセネーレの言葉が正しいのはわかった。自分の身体でそれを実感していたからだ。
そのことに背筋が凍った。人あらざる者の感覚をわかってしまうということは、自分が人間以外になりつつあるということを意味するのだ。
「……私の身体はいったいどうなってしまったのだ?」
冷静な声で改めて問い直すと、グラセネーレは語りだした。
「あなたは人を植物と化す呪い『人は木まで堕ちる』に侵されたのです。手足がこの状態になったのは呪いのせいです」
「人を植物と化す呪いだと……まさかあの『魔草』の群生地に刺客が潜んでいたとでもいうのか?」
あの日。グラセネーレに『トリシーカの花』を贈るため、子爵領の『魔草』の群生地まで赴いた。その直前まで呪いにかかった兆候はなかった。
そうなると、あの場に刺客が潜んでいて、隙を見て呪いをかけたということだろうか。
「いいえ、違います。ソールヴィクト様、『魔草陣』についてはご存じですか?」
「え? ああ、基礎的なことだけなら知っている。確か、『魔草』を特定の配列に栽培することで、魔法的な効果を得るという術式だったな」
魔法薬草学を学んできたソールヴィクトは、『魔草陣』についての知識があった。
特殊な塗料を使用しで床に円を描き、定められた文法で魔法文字を描き、魔力を注ぐことで発動する術式を魔方陣と呼ぶ。準備に手間はかかるが、詠唱だけでは困難な高度で強力な魔法の行使が可能となる。
『魔草陣』とは、この魔方陣を『魔草』で実現する術式だ。
特定の種類の『魔草』を決められた配置で栽培することで『魔草陣』は構築される。
利点は魔力効率の良さだ。『魔草』自体が魔力を蓄えているため起動に要する魔力が少なくて済む。『魔草』は自分で魔力を集める性質があるので、一度起動すれば魔力を供給しなくても長期間機能する。例えば拠点の防御結界など、常時機能して長期間維持する必要がある魔法に適している。
欠点としては手間がかかることだ。『魔草』は特殊な植物であるため、まず栽培が難しい。土地が『魔草』に合わなければ使えない。複数の魔草を混在させて栽培するというのも難しい。そのため『魔草陣』はまだ限定的な実用化しかできていない術式だった。
「実は子爵領の『魔草』の群生地は、『人は木まで堕ちる』の『魔草陣』となっていたのです」
「まさか野生の『魔草』が『魔草陣』になっていたと言うのか……いや、そんな偶然がありうるはずがない」
「もちろんそんな偶然はありません。人為的なことです」
「誰かが罠を仕掛けていたということか? いったい誰がそんなことを……」
ソールヴィクトの家、リークライム伯爵家は力ある貴族だ。味方は多いが敵も少なくない。その勢力を削ぐために謀略を仕掛けられることもある。
しかし人間を植物にするなどという邪悪な魔法を、それも『魔草陣』などという特殊な術式で仕掛けてくる家となるとすぐには思いつかない。
『魔草』に詳しい治癒術士を連れていたが察知できなかったのも無理はない。『魔草陣』は特殊で使い手の少ない術式だ。専門に研究でもしていなければまず気づけない。しかしその魔法が特殊であるゆえに、特定はすぐにできるかもしれない。ソールヴィクトは素早く考えを巡らせた。
だが続くグラセネーレの言葉は、そんな予想を覆すものだった。
「わたしです。わたしがあそこに『魔草陣』を構築しました」
ソールヴィクトは自分の耳を疑った。
グラセネーレは婚約者の身体を異形と化した呪いを、自分で仕掛けたと言っている。自分に慈愛に満ちた微笑みを向け、一か月も看病してくれた愛しい女性。彼女がそんなことをするなど信じられるわけがなかった。
「子爵領の『魔草』の群生地に、わたしに贈るために『トリシーカの花』を摘む。それで『人は木まで堕ちる』が発動するよう『魔草陣』をしかけたのです」
グラセネーレはまるで授業を進める教師のように淡々と言葉を続けた。その口調にはなんの負い目も感じられない。
能力的には可能なのだろう。彼女の『魔草』に関する知識は学者以上と言われている。だが、その動機がまるでわからない。
「なぜ、なぜそんなことを……!?」
「最初は貴族令嬢の義務のためでした」
思わず口からこぼれた問いに対し、予想外の回答を返された。
戸惑うソールヴィクトをよそに、グラセネーレは言葉を続けた。
「貴族令嬢は婚約相手を愛するという義務があります。しかしわたしは植物のことしか愛せない不器用な女です。これでは義務を果たせないと悩んでいました。そこで発想を変えることにしたのです」
深い緑の瞳がきらりと輝いた。その輝きに、ソールヴィクトは言い知れない不安感を覚えた。
「婚約者を植物にしてしまえばいい。そうすれば、婚約者を心から愛することができる」
目を輝かせ、誇らしげに。グラセネーレは言った。
彼女の言うことにまるで理解が追いつかない。ソールヴィクトは困惑するばかりだった。
「そのために何年も前から時間をかけて、あの場所に『魔草陣』を構築しました。あなたは最初、わたしに興味がないようだったので、あの仕掛けは不発に終わるものと思っていました。恋愛感情が無いというだけで貴族の家が定めた婚姻を拒むこともできない。愛のない結婚も仕方のないこととあきらめかけていました。でも、あなたは『トリシーカの花』を取りに行ってくださった」
グラセネーレの瞳と声は次第に熱を帯びていった。その熱にさらされ、ソールヴィクトは背筋を凍った。
「危険な『魔草』の群生地。貴族なら、人に任せるのが普通でしょう。だがあなたは危険を顧みず、自ら危険を冒して取りに行ってくださった! 呪いを受け、植物になってくださった! なんてすばらしいことでしょう!」
グラセネーレは感極まったように両手を合わせて天井を見上げた。それは神に感謝をささげる聖女を思わせた。その姿はあまりに神聖で、無垢で、ひたむきで。だからこそ、ソールヴィクト恐怖に震えた。
「だから今、わたしはあなたのことを愛しています! あなたのことが大好きです!」
天に向けられていたグラセネーレはの視線が再びソールヴィクトに向けられた。焼けるように熱い視線だった。瞳は潤んでいた。頬はバラ色に染まっていた。それはあまりに一途で熱のある、愛の告白だった。
好きな相手を自分の好みに合うようにする。それ自体は珍しいことではない。自分の好むドレスやアクセサリーを婚約者に贈るのは当たり前のことだ。
だがこれは、違う。意味が違う。婚約者を別の生き物に作り変えてしまうなど、あまりに人の道を外れている。心ある者にはできない冒涜的で背徳的なことだ。
グラセネーレは、ただ婚約者を愛せる形にするためだけに、そんな人道を外れた行いを為した。それなのに、彼女には何の負い目も後悔も感じられない。目の前にいるのは、ただ恋に酔いしれるだけの一人の女性だ。その美貌ゆえ令嬢から迫られることも日常だったソールヴィクトには見慣れた姿だ。それがこの場においては、なによりも恐ろしいものだった。
恐怖を振り払うように、ソールヴィクトは大きな声を上げた。
「わ、私にこんなことをして、ただで済むと思っているのか!? 伯爵家が黙っているわけがない! すぐにでも伯爵家の騎士団がやってくる! 君はすぐにでも捕まることになる!」
「そうですね。伯爵家は躍起になってあなたのことを探していることでしょう。ですが決して、ここにたどりつくことはできません」
「子爵邸の持つ騎士だけで、我が伯爵家の騎士団を阻むことなどできるはずがない!」
いくらグラセネーレ個人が恐ろしくとも、彼女は子爵家の令嬢に過ぎない。伯爵家の追求から逃れるすべはないはずだ。
だが、グラセネーレは余裕の態度を崩さなかった。
「残念ですが、ここは子爵邸ではありません。子爵領の東のはずれにある森の中になのです。森の中には無数の『魔草陣』を仕掛けてあります。幻惑、毒、麻痺、眠り。生命力吸収に魔力吸収などなど、何種類も用意していあります。周辺の村からは魔の森として恐れられ、冒険者ギルドも禁忌の地として探索を禁じています。たとえ伯爵家の精鋭騎士団であろうとも、生きてここにたどり着くことは適わないでしょう」
グラセネーレは自信満々にそう言い切った。
彼女の言葉がどこまで本当かはわからない。だが事実、一か月もの間、この部屋にはグラセネーレ以外の人間が訪れたことはない。伯爵家がどう動いているかわからないが、ここにたどりつけていないのだけは間違いない。
すがれるものは他にないのか。ソールヴィクトは必死に考えを巡らせた。そんな中、彼女の発言のおかしさに気づいた。
「君はつい先ほど、貴族令嬢の義務として婚約相手を愛さなければならないといったじゃないか。森の中に隠遁するなんて、貴族の地位を捨てるつもりか……?」
貴族として外とのつながりあるなら助け出される可能性を見出せる。
一縷の望みを託した問いは、しかしあっさりと否定された。
「確かに最初は貴族として愛することを義務と思いました。だからあなたの植物化も、本当はもっと限定的で隠せる程度にするつもりでした。でも、実際にあなたが『トリシーカの花』を摘みに言ってくれて気が変わりました。あなたのことを独り占めにしたいと思ったのです。それほどまでにときめいたのです」
グラセネーレの声はさらに熱を帯び、その頬も赤みを増した。それとは逆に、ソールヴィクトは顔を青ざめさせていった。
「だから一か月の間、あなたに植物化したことを知らせないようにしました。無理に体を動かせば、呪いの進行が止まってしまう可能性があったのです。ですがもう十分に時間は経ち、呪いはすっかりあなたの体に定着しました。今から解呪したところで、もう元の体には戻れません。あなたはどこにもいかず、誰にも邪魔されず、わたしと共に暮らすのです」
グラセネーレはにんまりと笑った。
ソールヴィクトはその顔はよく知っていた。それは独占欲と情欲に満ちた顔。望みどおりに男を手に入れた時の、女の顔だった。
ソールヴィクトは泣いた。異形と化したこの身体は元には戻らない。貴族としての未来も失った。自力で逃げることはできない。誰かが助けに来る見込みはない。恐怖と絶望が彼に涙を流させた。
「あらあらソールヴィクト様、どうか泣かないでください」
そう言ってグラセネーレはあのジョウロの形をした吸い飲みを差し出した。
水など飲みたくなかったが、吸い飲みが近づくと意思に反して口は勝手に水を飲んだ。
植物は根に水を与えられれば、それに毒が入っていようと、吸いすぎて根腐れすることがわかっていても、水を吸ってしまう。それと同じように、植物と化したソールヴィクトは差し出された水を拒むことができない。
そして水を飲むと気持ちが落ち着いてしまう。恐怖も絶望も薄まってしまう。『植物の安寧』は狂うことすら許してくれない。
「なにも心配することはありませんよ。わたしがずっと、お世話をしてさしあげますからね」
グラセネーレはハンカチを取り出すと、花を愛でるように優しく、ソールヴィクトの涙をぬぐった。
それからは穏やかな日々が過ぎていった。
毎朝決まった時間にグラセネーレはカーテンを開く。日の光を受け、ソールヴィクトは目を覚ます。
ジョウロの形をした吸い飲みで水を与えると、グラセネーレは他愛のない日々の出来事を楽し気に語った。ソールヴィクトはほとんど受け答えをしなかったが、気にした様子もなく話し続けた。
ソールヴィクトは水と太陽だけあればいいが、グラセネーレはそうもいかない。だが食料は森から採取できる物で大半をまかなえるようだ。生活用品の備蓄も十分あるようで、当分は買い出しに行く必要はないと彼女は語った。
森はいつも静かだった。誰かが訪れることはなく、獣が寄ってくることもなかった。小鳥の鳴き声すら耳にすることはない。おそらく『魔草陣』で接近を阻んでいるのだろう。
グラセネーレはこの生活が幸せで仕方ないようで、時間がソールヴィクトに向けて話しかけてきた。ソールヴィクトは絶望したが、『植物の安寧』によって絶望しきれず、ただ当たり障りのない受け答えをするばかりだった。それでも彼女は楽しいようで、あの慈愛に満ちた笑顔を向けてくれた。ソールヴィクトはもう、その笑顔にときめくことはなかった。
そんなある日のことだった。
「……今、なんておっしゃいました?」
いつもの昼の水やりの後。グラセネーレの話に対し、ソールヴィクトが口を開いた。だがその声はあまりにも小さく、グラセネーレは聞き取れなかった。
それからもソールヴィクトはぼそぼそと何かをつぶやき続けた。
「おかしいですね。しゃべるのが困難になるほど植物化が進まないよう呪いは抑えてあるはずですが……ソールヴィクト様、なにを伝えたいのですか?」
グラセネーレはソールヴィクトに覆いかぶさるように身を寄せると、彼の口元に耳を当てた。
その時、ギラリとソールヴィクトの目が光った。
「ぎっ……!? ぎいいいやあああああああああっ!?」
悲鳴を上げながらグラセネーレが下がった。右手で抑えた首元からは激しく血がしたたり落ちている。
ソールヴィクトの口元は血で真っ赤に染まっていた。鋭いその眼には殺意が込められていた。
手足が植物化したソールヴィクトは起き上がることすらできない。それでも首から上だけは動かせる。
小さな声でグラセネーレを招き寄せ、渾身の力で彼女の首筋を噛み千切る。それはソールヴィクトにとって、唯一可能な攻撃だった。
グラセネーレは手で傷口を押さえているが、流血は止まりそうもない。傷は頸動脈まで達しているようだ。
「よ、よくも……!」
グラセネーレは懐から3枚の紙を取り出した。『魔草』を押し花にして作られた攻撃用の呪符だ。そこに込められた風の衝撃波の魔法は、一撃でソールヴィクトの身体を砕く威力があるだろう。
グラセネーレは呪符の魔法を解き放った。
だが、そこまでで限界だった。頸動脈の出血は脳への血液の供給を滞らせる。呪符を取り出して魔法を放とうとしたところで、グラセネーレは気を失い崩れ落ちた。
風の衝撃波は見当違いの方向に飛んでいった。天井に三つの大穴を開けただけで、ソールヴィクトの身体を傷つけることはなかった。
ソールヴィクトは口に残ったものを吐き出すと、床に目を向けた。
グラセネーレの身体はまだけいれんしている。出血は止まらない。起き上がる気配はないが、ソールヴィクトは鋭い目で見つめ続けた。やがて、けいれんも収まり、彼女の身体はまったく動かなくなった。
グラセネーレは、死んだ。
「グラセネーレ……君は、植物だけを愛した。私という人間のことを愛してくれなかった。そのことがどうしても許せなかったんだ……」
異形の姿に堕とされた。貴族としての未来を奪われた。そのうらみはある。だがソールヴィクトをここまでの凶行に至らせたのは、愛されなかったゆえの憎しみだった。
グラセネーレは慈愛に満ちた笑顔を彼に向けた。だがその笑顔は植物に対して向けるものだ。グラセネーレにとってソールヴィクトは「しゃべる植物」だった。
だからソールヴィクトは彼女を憎んだ。彼のことを植物として扱っていたからこそ、グラセネーレは噛みつかれるまで自分が殺されることを予想できなかったのだ。
成功率の低い復讐だった。失敗してもよかった。ソールヴィクトは死にたかったのだ。人間でも植物でもない異形の姿。『植物の安寧』によって絶望することもできず、穏やかな苦しみが少しずつ心をむしばんでいく。そんなことには耐えられなかった。
この部屋には水がない。あの吸い飲みで水を与えられなければソールヴィクトは乾いて死ぬことになる。
ひからびて死ぬまでにどれだけ時間がかかるかわからない。きっと苦しむことになるだろう。ソールヴィクトはかつて愛した女性を殺した。死ぬまでの苦しみは、受け入れなければならない罰だと覚悟していた。
夕方になり、雨音が聞こえ始めた。窓の方に目を向けると、雨が降り出しているのが見えた。
日の光がなければソールヴィクトは意識を保つことはできない。そのまま眠りに落ちた。
翌朝、ソールヴィクトは目を覚ました。雨は昨晩のうちに止んだようで、日の光が窓から差し込んでいた。
昨日はあんなことがあったというのに、気分のいい目覚めだった。
あれは夢だったのだろうか。心配になり、床の方に目を向ける。そこにはグラセネーレの無残な死体があった。やはり現実だった。
そんな光景を目にしながら、妙に気分が落ち着いてた。その理由はすぐに分かった。わかってしまった。
「ああ、なんてことだ……こんなの、あんまりだ……」
ソールヴィクトは茫然とつぶやいた。
彼の身体の上にかけられた掛布団はすっかり濡れていた。天井には3つの大穴が開いている。昨日、風の衝撃魔法によって開いた穴だ。そこから光は漏れてこないから、屋根に穴は開いてはいないのだろう。だが雨漏りする程度には損傷を与えていたようだ。穴からは水滴がぽたぽたと落ちてきている。
口元に水気はない。だが植物と化した手と足が、濡れた布団から水分を吸収しているのを感じる。こんなに落ち着いた気分でいられるのは、『植物の安寧』のせいだったのだ。
雨漏りというものは修理しなければどんどんひどくなるものだ。身を起こすことすらできないソールヴィクトにできることはない。
つまり、すぐには死ねないということになる。
死ぬと決めた。そのためにかつて愛した女性を殺めた。それなのに、まだ生きなくてはならない。何日も、何か月も。下手をすれば何十年も、生きることになる。それはあまりに過酷で救いのない未来だ。
だが、まだ一つだけ手がある。この状態でも自殺する手段があった。ソールヴィクトは悩んだ。しかし結局、他の方法は思いつかなかった。だから、覚悟を決めた。
そして、舌を噛み切った。
舌を噛み切ると、残った舌が気道をふさぎ、呼吸困難で死に至る。グラセネーレが生きていた時ははばまれる可能性があったが、今はその心配もない。
呼吸できなくなり、息苦しくなる。これでようやく死ねると思った。
だがまったく口で呼吸していないのに彼の意識が遠のくことはなかった。息苦しさはあったが、死に至るほどではなかった。
植物は光合成によって酸素を生成することができる。体表で呼吸することもできる。ソールヴィクトの身体は半ば以上は植物と化している。口から呼吸できなくても、生命を維持できる程度には酸素を供給できるようになっていたのだ。
「ふ、ふぐ! ふぐうううううううううううううっ!」
ソールヴィクトは気道の詰まった喉で、言葉にならない叫びをあげた。
これほど残酷なことはないと思った。これ以上の絶望はないと思った。
しかし、彼はまだ知らない。彼の運命には、まだ先があるのだ。
メーディハルブ子爵領の東のはずれに、『魔の森』と呼ばれる場所がある。そこに入った者は無事に戻ってくることはできないと言われている。
王都から派遣された調査員は、『魔草』を使った『魔草陣』があるようだと口にしていたが、その真偽は定かではない。その調査員は何度目かの調査で森から帰ってこなくなり調査が打ち切られてしまったからだ。
そうしたことがなくても誰も森には入ろうとしなかっただろう。王国の調査が入る前から、近隣の村人たちはそこを禁忌の地として誰も近づけないようにしていた。
なぜならある日忽然と、森の中央辺りに木が生えたからだ。
森の外からでもわかる巨木だった。その自然の物とは思えない奇怪な枝ぶりと曲がりくねった幹は、見る者を不安にさせる禍々しさがあった。
ある者は、それが人の姿のように見えると言った。たしかに見ようによっては腕を広げた人間に見えなくもない。だが人の形をしているというには、その木はあまりに歪すぎた。
その巨木が最も恐ろしく感じられるのは、昼間に雨が降った時だ。そうしたときはいつも、巨木から得体のしれない音が響き始める。木々のざわめきとは明らかに違う、耳にした者を不安にさせる不気味な音の連なり。それはどこか人の言葉に似ているが、誰もその意味を汲み取れない。その音は森中に響き渡り、近隣の村にまで届く。
ある者は悪魔に惨殺された者たちの泣き声に違いないと言った。ある者はあの巨木が地獄につながっていて、そこから苦しみの声が漏れているのだと語った。もっともらしい噂がいくつも出回ったが、その正体は定かではない。
近隣の村では昼間に雨が降り出すと家に閉じこもってこの恐ろしい音をやり過ごすのが習慣となった。
この巨木の正体は、ソールヴィクトだ。
『人は木まで堕ちる』の呪いは終わっていなかった。グラセネーレは、日々魔法をかけて呪いの進行を抑えていた。しかし彼女はいなくなった。無理やり抑えられていた呪いは、急に枷がなくなったことで暴走した。グラセネーレの死体を取り込み、家の中に保管してあった『魔草』を吸収し、よりおぞましい呪いと化した。そしてソールヴィクトは巨木になり果てた。
植物化が進みすぎて、普段は意識を保つことができない。だが日中に雨が降ると、雨に打たれた刺激と『植物の安寧』によって、ほんの束の間、正気となって意識を取り戻す。いまだ死ねないことを嘆き、助けを求めて叫ぶ。しかし植物化した身体ではまともな言葉を発することはできず、奇怪な音を森中に響かせることしかできなかった。
人々が恐れるあの音が、哀れな男の救いを求める声だと気づく者はいない。正体を突き止めようとする者もいない。
『魔の森』は危険であり、なにより……あまりに恐ろしすぎたからだ。
終わり
水をテーマにした作品を書こうと思っていたのに、お話を作っていくうちに内容が植物よりになっていってしまいました。
なんとか水に寄せるように軌道修正したら、当初の想定より救いのない結末になってしまいました。
お話づくりはやっぱり難しいです。