日々の色
夏の午後、僕はいつものようにスマホを見ていた
イヤホンからは誰が作ったのかも知らない歌が流れ、手の中の画面では、誰かの幸せそうな写真と誰かの怒りと誰かの悲しみがせめぎ合っていた
僕はその全部に本当の意味での興味なんか持ってなかったと思う
でも、それを見ていないと取り残された気がして
この息苦しい街で、誰かに取り残されるのが嫌で、画面にしがみついていた
目の前には汚れた道路が続き、歩道はひび割れたアスファルトで、コンビニ袋や紙くずが転がっていた
ビルの隙間には熱気がこもり、車の排気音と工事の金属音がごちゃまぜになっていた
見上げることをしなくなって、どれくらい経ったんだろう
自分が歩いている街をちゃんと見たのなんて、いつ以来だったか思い出せない
スマホの画面に映るのは、編集された誰かの生活と、加工された世界ばかり
それでいいと思ってた
少なくとも、それを見ている間は、目の前のこの薄汚れた現実を見ないで済んだから
それが僕なりの逃げ方だった
ダメなことはわかってる
でも、誰かに怒られてもいいから、せめてこの目だけは、もうこれ以上、汚いものばかりを映させたくなかった
けれど、ある日、唐突に首が痛くなった
スマホを持ったままうつむいた姿勢で歩き続けたせいだろう
湿った風に首を打たれて、思わず顔を上げた
そのとき見た空が、信じられないくらい、綺麗だった
雲ひとつないわけじゃなかった
けれど、雲は遠く高く白く、空はその奥でどこまでも青かった
青というより、水色の奥に群青が滲んでいて、その深さは画面越しでは到底伝わらないものだった
ビルの上をすべるように渡っていく鳩の影が、ひとときだけ音を消した
風が耳元を通り抜けていった
あまりにも静かだった
まるで、その一瞬だけ世界が僕を許したみたいだった
ビルは確かに汚れていたし、道路も濁っていたし、蝉の声は耳障りだった
でも、そのすべての上に、この空があるのなら
僕が今まで見ないふりをしてきたこの世界にも、まだ、どうしようもないほど美しいものが残っているのかもしれないって思った
スマホの画面は、黒くなっていた
しばらく操作しなかったせいでスリープに入ったのだ
その黒い画面には、僕の顔が映っていた
よく見ると、ほんの少しだけ目元が赤くなっていた
泣いていたのかどうかはわからない
ただ、たぶん僕は、この街を許したかったんだと思う
そして、そんな世界に目を向けられない自分自身をも
空はずっとそこにあったのに、僕はそれに背を向けていた
綺麗なものが見たかったくせに、見ようとしなかった
誰かに汚されたと思い込んで、自分の視界すら閉ざしていた
本当は、自分で自分を世界から切り離していたのだ
スマホをポケットにしまって、歩き出した
首が少し軽くなった気がした
変わらず蝉の声はうるさいし、アスファルトはじっとりと熱を含んでいた
けれど僕は、今までより一歩ずつまっすぐ歩けているような気がした
誰かとつながっている必要なんて、本当はなかったのかもしれない
僕が世界に背を向けなければ、世界はまだそこにあった
誰かの言葉に傷つけられても
誰かの幸せに嫉妬しても
それでも、空は誰のものでもなくて、ただそこにある
それを見上げることだけは、誰にも奪えない
僕が見ようと思えば、何度でも、何度だって見られる
それに気づいたことが、ただひとつ、僕の夏の救いだった