No.006_市場の異変
ヨルム市場は夜になっても人の波が絶えることはなく、むしろ昼間よりも活気に満ちていた。
屋台の明かりが赤や橙の光を撒き散らし、肉の焼ける匂いや香辛料の香りが鼻をくすぐる。
誰もが喧騒の中に身を委ね、夜の一時を楽しんでいた。
こんな時間に、こんな場所で――本当に“巡回”なんて必要あるのかよ。
「夜の市場でなにがあんだよ」
煙を上げる串焼きを片手に、俺は隣を歩くヘルマンを見上げた。
肩幅が広くて、ずっと背中を見てると岩みてぇだ。ムカつく。
「なんもねえよ。あのな、なんもねえのを確認するのが、俺達騎士の仕事なんだ」
そう言って、ヘルマンはぼそっと笑った。
相変わらず、何考えてんのかよくわからない、面白くない顔。
「ほんとつまんねえな」
ぼやきながらも、串焼きの最後の一口をかじる。
肉は旨かった。焼き加減も塩気もちょうどいい。
でも、それだけじゃこの退屈は埋まらねぇ。
しばらく歩いていくと、通りの先に妙な空気が漂っているのを感じた。
ざわつき、立ち止まる人影、そして向こうの広場にできた人だかり。
「……なんだ? 喧嘩か?」
胸が少しだけ、高鳴った。
面白くなってきたじゃねぇか。
俺とヘルマンは、あふれる人の波を無理やりかき分けながら人だかりの中心へと進んだ。
輪の中心にいたのは、若い男だった。
服は埃まみれで、地面にうずくまっている。
様子がどこかおかしい。呼吸が荒くて、手が小刻みに震えていた。
ヘルマンがすっと男に歩み寄る。
「おい、お前。大丈夫か? 俺は外環の騎士だ。必要なら応援を――」
その言葉を聞いた途端、男が顔を上げ強張った。
「き、騎士……!? おお、おれは……な、なにも知らない! なにも知らないんだってば!」
叫びながら、男は突如としてヘルマンを突き飛ばし、転がるように立ち上がって逃げ出した。
「おい!」
ヘルマンの声を背に、俺は即座に叫んだ。
「Var.4-Combat:起動、逃げる男を取り押さえる!」
《Var.4-Combat:起動,、目標補足、脚力35%増》
体が自然に前へと動く。
自分の意思を介さず、脚が、腕が、正確に獲物を追いかけていく。
人込みの流れを読んで、隙間をすり抜けるように加速し、背後から男に飛びかかる。
次の瞬間には、俺の腕が男の片腕を背中へとねじり上げていた。
膝で腰を押さえつけ、逃げられないように体重をかけて固定する。
「放せよ! ガキがぁ!」
じたばたと暴れる男に俺は鼻で笑った。
「うるせぇな。こっちは遊びじゃねえんだよ」
そこへ、ヘルマンの声が飛んでくる。
「……勝手に動いてんじゃねえよ。二人ともな」
振り返ると、あのごつい顔が軽く苦笑いしてた。
ったく、説教の前に「ナイス」とか一言くらいあってもバチは当たらねぇだろ。
「なんで逃げた? 一応、手荷物の検査もさせてもらうぞ。小僧、そのまま押さえてろ」
「小僧言うなよ……」
ぶつぶつ文句を言いながらも、俺は男の腕を押さえたまま、様子を見守る。
ヘルマンが男の背負っていた薄汚れた布袋をひっくり返すと、カランと硬い音がして小さな瓶が転がり出た。
透き通った緑色の液体が入っている。どう見てもまともなもんじゃねえ。
ヘルマンが眉をひそめ、瓶を持ち上げると――
「やめろ! やめろよ! 返せってば!」
男が突然暴れだした。
俺の腕を振り払い、思いきり体をひねって、ヘルマンに飛びかかる。
くそ、子どもの体重じゃ押さえきれない!
「おっさん、来るぞ!」
叫ぶ間もなく、男がヘルマンの腕に掴みかかった。
しかしヘルマンは顔ひとつ動かさず、瓶から目を離さないまま、片手で男の肩を軽く押し戻す。
……なんなんだよ。ながら運転かよ。こっちは必死だったってのに。
それでも、男は必死に叫び続けていた。目を血走らせ、涎を飛ばしながら。
「それは、それは俺のじゃねえ! 預かっただけなんだよ! なあ、頼む返してくれ!」
まるで命でも握られてるみてぇな必死さだった。
「これ……魔薬っぽいな」
ヘルマンが瓶を眺めながら、重い口調でそう呟いた。
「魔薬ってなんだよ?」
「魔力に影響を与える薬品だな。魔力っつーのは、人間に流れる血みたいなもんだから、内服薬で増加することも可能だろう」
「へえ、そうなんだ」
俺は思わず感心した。知らなかった。
「なんで知らねえんだよ。父ちゃん母ちゃんからは習わなかったか?」
「俺、まだ子供だぞ? それに……俺、孤児なんだよ」
ふっと、空気が一瞬だけ重くなった気がした。
「そうか。じゃあ、覚えとけ。こういう魔薬は、一度使ったら戻れねえ奴もいる」
そのときだった。
男が突然パッと身を起こし、ヘルマンの手元に飛びかかった。
「おい、待っ——!」
間に合わなかった。
男はヘルマンの手から瓶をひったくり、そのまま栓を歯で引きちぎるように開けて――
一気に飲み干した。
緑色の液体が喉を流れた、その刹那。
「あああああああ! うあああああああああああ!!」
男の全身が、緑色の閃光に包まれた。
あれ絶対飲むタイプの薬じゃないよ。
空気がビリビリと震える。まるで、爆発する前の雷みたいな静電気が肌に張り付く。
「なんだ……これは……!」
俺は思わず後ずさった。
目の前の男から、さっきまでとはまるで違う、異様な“気”が溢れ出していた。
体が膨張していくように見えた。
筋肉が引き裂かれ、骨格が軋む音が聞こえる。皮膚の下で何かが蠢いている。
その姿は、もう“人間”とは呼べなかった。
ドンッ、と鈍い音がして、俺の周囲にいた群衆が一気に吹き飛ばされた。
悲鳴と砂埃が一瞬で空気を塗り替える。
目の前の“それ”は、さっきの男の面影をかろうじて残しながら、筋肉と魔力の膨張で異形の化け物へと成り果てていた。
「まずいな。市街地でこれだけの規模か……」
ヘルマンの声は低く、妙に冷静だった。さすが騎士だな、場慣れしてやがる。
でも、正直言って──俺は、ちょっとウキウキしていた。
魔力の暴走? 市街地だろうが関係ねぇ。
目の前に、歯ごたえのありそうな“おもちゃ”が現れたんだ。
動悸が早くなる。身体の奥が熱くなる。
「Var.4-Combat:起動、眼前の敵を撃破」
《Var.4-Combat:起動。魔力制御、オート回避、戦術演算 同時展開》
視界が伸びる。世界がスローモーションになる感覚。
ムーブアシストが俺の筋肉と骨格に最適な加速を与えてくれる。
そして――俺は飛んだ。
踏み込み一つで化け物の懐へ滑り込み、拳を一発。
続けざまに脇腹、背中、膝裏と細かく叩き込む。
振り向いても来ない。
目だけが獣みたいにギラついてるくせに、動きが鈍い。
(なんだ? 身体はでかくなって知能は下がってんのか)
つまんね。速いだけの俺に反応できないなら、ただの魔力ダルマだ。
あとは、ヘルマンが一撃ぶちかませば終わりだな。
俺は軽く距離を取りながら、ちらっと振り返った。
──あれ? いねぇじゃん。
ヘルマンが、どこにもいなかった。