私を捨てて下さり、ありがとうございます。
「おまえといても、つまらない。婚約は、破棄させてもらう」
久しぶりに会ったというのに、婚約者であるブライアン・ドルーク様は開口一番そう言った。
大人しくて慎み深い女性が好きだと言ったから、私はずっと自分を出さないようにしてきたのに……
私は、マリベル・ドノバン。伯爵令嬢だ。たった今婚約者ではなくなった侯爵令息のブライアン様とは、六年婚約していた。大人しくて慎み深い女性が好きだと言っていた彼の隣には、派手な色の服を着て派手な化粧をした女性の姿がある。
婚約を破棄しに来たのに、女性連れとは誠実さの欠片もない。婚約を破棄する時点で、そんなものはないのかもしれないけれど。
「理由をお聞きしても?」
正直、理由を聞かなくても見れば分かる。それでも、聞くのが礼儀だと思った。
「愛する人が出来た。彼女は、とても素晴らしい女性なんだ。これを、運命というのだろうな」
見た目で判断してはいけないと思うけれど、婚約者のいる男性と親密になり、この場にいること自体、彼女が素晴らしい女性だとは思えない。けれど、彼のその言葉で何かが吹っ切れた気がした。
六年婚約していて、彼の理想の女性でいようと努力してきた私はつまらない女だったということだ。
「分かりました。お二人の幸せを願っております」
私は、笑顔でそう言った。結婚する前に、彼の本性を知ることが出来て良かったと思う。
婚約を破棄された私には、新しい縁談なんてこないだろう。それでも、かまわなかった。また誰かを信じて、裏切られたくなかったからだ。
数週間後、私は王城で開かれた夜会に参加した。この夜会には、ブライアン様と参加する予定だったのだけれど、一人で参加することになってしまった。
端で大人しくしていようと思ったのだけれど、たくさんの人からの視線を感じる。婚約を破棄された私が、そんなに珍しいのだろうか……
さらに端の方に移動すると、会場のど真ん中にブライアン様とこの前の女性の姿を見つけた。
「気になりますか?」
いつの間にか、隣に男性が立っていた。お話ししたことはなかったけれど、彼のことは知っている。令嬢たちが、素敵な方だと騒いでいた。ガルシア公爵家のアレン様だ。
「……こんな日が来るとは、思っていなかったので」
どうすれば良かったのかわからない。彼の理想でいたいと思ったことが、間違いだったのだろうか。
「僕には、彼の気持ちがわかりません。こんなに素敵な婚約者が側にいたというのに……」
「え……?」
突然、素敵だと言われたことに動揺する。そんなことを言われたのは、生まれて初めてだったからだ。ブライアン様には、一度も言われたことがない。
「素敵だなんて、お世辞を言わないでください」
「もしかして、あなたは自分の魅力に気付いていないのですか? あまりに素敵だから、周りの男たちがみんなあなたを見ていますよ」
最初から視線には気付いていたけれど、そんな理由だとは思っていなかった。もしかして、地味な格好や化粧を自分好みのものに変えたからだろうか。
「誰かに先を越されないように、急いで声をかけました」
アレン様はとても素敵な方だと思う。けれど私は……
「そのように仰っていただけて、とても嬉しいです。ですがもう、男性は懲り懲りです」
遠回しにお断りするのは失礼だと思い、今の気持ちを正直に伝えた。
「それなら、僕と契約しませんか?」
「契約……ですか?」
「あなたがそう思っていても、今日のあなたを見た男たちは次々に縁談を申し込んでくるでしょう。実は僕も、両親に早く相手を決めろと急かされているんです。気持ちがなくてもかまいません。僕と結婚という契約をして欲しい」
冗談なのかと思ったけれど、アレン様は真剣だった。
確かに契約ならば、裏切られて傷付くことはないかもしれない。契約内容は、私にとってとても好条件だった。けれどやっぱりまだ、そういうことは考えられそうもない。
「お話はありがたいのですが……」
「ちょっと待った。答えを出すのが、早すぎると思う。返事は急がないから、もう少し考えて欲しい」
強引なアレン様に、その場で断ることが出来なかった。
翌日、アレン様の仰っていたことを身をもって体験した。
「マリベル、また縁談の話が来ているぞ」
これで、何人目だろうか。話したことのない貴族や貴族令息との縁談が、朝から何件も申し込まれている。お受け出来ないとお断りしているけれど、キリがない。
それだけではなかった……
「マリベル、昨日の君は本当に美しかった。やはり、俺には君しかいない! やり直そう!」
使用人は私が望んでいると思ったのか、屋敷の中にブライアン様を通してしまった。
数週間前、まるでゴミでも見るような目で私を見ながら婚約破棄を告げてきたのに、どの口が言っているのだろうか。初めてブライアン様から美しいと言われたけれど、あまりの嫌悪感に鳥肌が立ってしまう。
「お断りいたします。この前の女性は、どうされたのですか? 運命の相手だと、仰っていたではありませんか」
今日は、その女性の姿がない。
「彼女は、愛人にするつもりだ。君の方が美しいし、彼女は男爵令嬢だから俺には相応しくない。君のことは愛するし、本妻にするから安心してくれ」
初めて誰かを殴りたいと思った。こんな男に、愛されるなんて冗談じゃない。
「私たちの婚約は、すでに破棄されています。お帰りください」
「冷たくしたから、怒っているのだな。だが、俺は諦めない。また来る」
ブライアン様は気色の悪いウィンクをして、帰って行った。
「はあ……」
思わず、ため息が出てしまう。
婚約を破棄された時よりも、今の方が最悪な気分だ。
自分勝手、自己中心的、思いやりの欠片もない……そんな言葉では言い表せられないほど、ブライアン様は最低最悪だ。六年も婚約していたのに、あんな人だったのだと気付かなかった自分にも腹が立つ。
それから毎日、ブライアン様が屋敷を訪ねてきている。
絶対に中に通さないようにと使用人に念押ししておいたおかげで会うことはなかったけれど、これがいつまでも続くのはうんざりだ。そんな時、アレン様から夜会のお誘いが来た。
契約結婚のことを断るつもりでいたけれど、ブライアン様の執着で迷い出している。だからもう一度アレン様にお会いしてから決めようと思い、お誘いを受けることにした。
夜会当日、アレン様が屋敷まで迎えに来てくださった。
「わざわざ、ありがとうございます」
「当然のことです。今日も、とても美しい」
「アレン様も素敵です」
ブライアン様は、一度も迎えに来てはくれなかった。だからこれは、私にとって当然なことではない。なんだか、嬉しいと思ってしまう。
アレン様のエスコートで会場に入ると、みんなの視線がこちらに集中する。その中に、ブライアン様の姿があった。思いきり睨み付けられて、私は決心した。
「アレン様、契約のお話、お受けしようと思います」
この婚約が、契約でなかったなら受けなかった。アレン様を利用するようで、申し訳ないからだ。だから、契約という言葉がありがたかった。
「決心してくれてありがとう。嬉しいよ」
口調は穏やかだけれど、喜んでくれているのが伝わってくる。感謝したいのは、私の方だ。
「マリベル、少し話したいのだが」
アレン様と出席していることをわかっているはずなのに、ブライアン様は話しかけてきた。
「悪いが、僕の婚約者を呼び捨てするのはやめてもらいたい」
私がうんざりしていると気付いたのか、アレン様が私を庇うように前に出た。まるで私を守る騎士様みたいで、嬉しくなった。けれど、私はそんなに弱くない。せっかく契約したのだから、有効に使わせてもらおう。
「アレン様、ありがとうございます。ブライアン様、私はアレン様と婚約をいたしました。これ以上、付きまとわれるのは迷惑です。二度と屋敷にいらっしゃらないでください」
「婚約!? こんなに早く婚約だなどと、君はそんな尻軽ではないはずだ!」
尻軽……六年間、他の男性を見たことなんて一度もなかった。
「尻軽は、どちらですか? 婚約破棄を私に告げた時、ブライアン様はほかの女性とご一緒でした。その女性を運命の相手だと仰っていたのに、数週間後にはまた私に言いよってくる最低な方。しかも、運命の人だと仰っていた女性は男爵令嬢で自分には相応しくないから愛人にするとも仰っていました。女性をバカにするのも、いい加減にしてください。身分が大事だと仰っていたので、侯爵家のブライアン様より公爵家のアレン様を選びます。文句ありませんよね? アレン様は、ブライアン様と違ってとても素敵な方です。ブライアン様、私との婚約を破棄してくださり、本当にありがとうございました。おかげで、素敵な方に出会うことが出来ました。感謝します。では、ごきげんよう」
後ろで例の彼女が聞いていることをわかっていて、意地の悪いことを言ってしまったけれど、後悔はしていない。だって、スッキリしたもの。
ブライアン様は口をポカンと開けたまま、何も言い返しては来なかった。きっとこの後は、運命の人と修羅場になるだろう。
「やっぱり君は、そうでなくちゃ」
アレン様の言葉に、首を傾げる。まるで私のことを、前から知っていたような口ぶりだ。
「どういう意味でしょう?」
そう聞いてみたけれど、笑って誤魔化されてしまった。答えてくれる気は、なさそうだ。
でもなんだか、ありのままの私でいいと言われているような気がしていた。
「……今はまだ、契約でかまわない。だがいつか、君の気持ちを僕に向かせてみせる」
「なにか仰いました?」
「僕と踊ってくださいと言いました」
「はい。お願いします」
私たちはダンスフロアに行き、ゆっくりと踊り出した。
END