09:ミネル・ヒースラントの勤務先
二人は両脇に店が立ち並ぶ人通りの多いメインストリートに入り込み、人と人との隙間を縫って走った。
ナージャが付けた見張りを撒くなんて、これまで一度だって考えたことがなかった。
どうして最初からこうしておかなかったのだろうと思うほど清々しくて、晴れやかな気持ち。
しばらく走った後、ユノーがペースを落としたことに釣られてミネルも走るペースを落とす。二人は肩で息をしながらも歩くことをやめなかった。
「……どうして、こんなことを?」
「嫌だったんじゃないかと思って」
息を整えながら問いかけるミネルに、ユノーも同じように息を整えながら返事をする。
「ミネルさまは何にも縛られずに、なんでも一人でやりたい方だろうと思ったから」
本当に思いやりのある人だと思うばかりだ。しかしそれすらも怪盗・ユピテルの演技かもしれなくて。しかし心のどこかでは、本当に彼を疑う必要があるのだろうかと思っていることも事実だった。
こんなに周りを見る事が出来る人なら、〝至急〟と言われれば普通なら3日程度かかる道のりも馬を走らせ続けて本当に短期間で到着するくらいの事はしそうだ。
「たまには一人になったって罰はあたりませんよ」
「……ユノーさまがいらっしゃいますけど」
「ああ、そうか。確かにそうですね」
ミネルの茶化すような言葉に、ユノーは考えるそぶりを見せた。
「じゃあ、僕の事は空気と思ってもらって」
考えて出したにしては結論が子どもじみている。ミネルは思っていたよりもずっと大胆なユノーの言葉に、思わず吹き出して笑った。
「じゃあ私は今日一日、あなたの事を空気と思えばいいんですか?」
「そういう事になります。見張りの方を振り払ってしまった。一緒に罪を犯してしまったので僕たちは共犯ですよ、ミネルさま。手を取り合って協力しましょう」
どんな人生を歩んだら、真っ直ぐにこんな言葉を吐けるのだろう。ミネルは恥ずかし気もなく親しみやすい言葉を使って、それから人懐っこい笑顔を向ける騎士・ユノーと言う人物を知りたくなっていた。
「さあ、行きましょう。僕は騎士の誇りにかけて、空気になるよう努めますので」
そう言ってユノーが少し先を歩く。ユノーの背中を自分が優しげな表情で見ていることに気付いたミネルは、全てに気付かないふりをしてユノーの少し後ろを歩いた。
古い修道院を修繕して利用している警備隊本部。ユノーは本部長に促されて、建物の中を見に行った。
ミネルはもくもくと仕事をこなした。建物には関係者以外入れないのだから監視の目があるはずないのに、いつも見張られているような気分だった。しかし今日はユノーが振り払ってくれたからか、いつもよりずっと静かな気持ちで仕事を進められる。もしいつも通り、帰りに備えて見張りが待機しているのだとしても、いつもと気分が違う事は確かだ。
主に国に現状を伝える手紙を書く。やっている事は貴族としての仕事と大して変わらないかもしれないが、ミネルにとっては心休まる時間だった。今日は特にそうだ。
人間は自分の事ばかりだ。自分の事で精一杯だから、他人の事にまで真剣に目をやっている暇はない。だから人間は罪を犯す。この建物の中にはイーストバリアス塔ほどの規模はないが、収容所がある。
人間は本来、自分の事で精一杯のはずなのだ。そうでなければ、警備隊本部の収容所は常に満員状態になったりはしないだろう。
それなのにどうしてナージャは、〝お嬢さま〟にばかり気をやるのだろう。
社交界では浮いていて、明らかに結婚する気がない事も気になって仕方がない気持ちもわからなくはない。しかし、ナージャの人生に直接的に関係があるわけではないはずなのに。
ミネルは休憩中、礼拝堂の真ん中あたりの長い椅子に腰かけていた。首元からチェーンを引っ張って封蝋印を取り出し、指で弄ぶ。
当時の国王陛下はヒースラント伯爵夫人がこんな風に首から下げられるように持ち手の部分に穴をあけて作らせたのだろう。
自分の首元で輝いている事に対して多方に申し訳ない気持ちになるが、盗まれたくなければ黙ってろ、と言う気持ちもある。どんな時も、人間の気持ちと言うのはたいてい、一点には定まらない。
国王陛下はヒースラント伯爵夫人を愛していたから、自分の贈り物を使うだけではなくて身に着けていてほしかったのだろうか。それならまるでこの封蝋印は首輪のようだ。他人に人生を縛られて、ヒースラント伯爵夫人は幸せだったのだろうか。明確な理由は分からないが、おそらく幸せだったのだろうとミネルは思った。
「こんなところにいらっしゃったんですか」
ミネルはすぐに服の下に封蝋印を仕舞い込む。ちょうどその時、ユノーはミネルの視界の中に入った。
「隣、いいですか? ミネルさま」
「空気はどうなさったんですか」
「空気の職務は休憩に入りました」
ユノーはそう言うとミネルの隣に座って正面に作られた丸窓を眺めた。丸窓には、太陽を思わせる柄が入っている。
沈黙が続く。どこからか楽しそうな笑い声が聞こえてくるが、沈黙の空間にいる二人には関係ない事だった。
「……実は僕、ユピテルに遭遇しながら何度も彼を取り逃がしているんです」
ユノーはそう言うとゆっくりと息を吐いた。ミネルは広い礼拝堂がさらに広く感じて、こころぼそくなるような、不思議な気持ちを抱えていた。
「国宝のナイフが盗まれた時も、僕は王宮の警備を任せられた。それなのに、取り逃がしてしまったんです」
ミネルは何の気もない様子でユノーの話を聞きながら、彼の事を注意深く観察していた。ユノーは静かに、そして悔しそうに、爪痕が残るくらい強く拳を握りしめた。
「いつもいつも翻弄される。だから今度こそ、捕まえたい」
静かに燃える炎を感じる。だから駆けつけてきたのだろう。封蝋印を守りたいという思いよりも、何より自分自身を許すことが出来ないからだ。
自らの意思でこの地に来た。それなら彼を信用していいのかもしれない。もう何度、その考えが浮かんだだろう。ミネルは確かめるように、静かに息を吐いた。
用心するに越したことはない。世界の汚い部分とはそういう場所だ。ヒースラントと言う名を後の世の中に残せるのは自分しかいないのだから。
じゃあ女一人で屋敷とヒースラントの名前をどうする。
ゆくゆくは誰かと結婚して、跡継ぎを産まなければいけないのは自分で。
この封蝋印はなおさら、首輪のよう――
「私も、同じ気持ちです」
そうやっていつもいつもたくさんの考えが浮かぶから、必要な事から目をそらす。思っている事がすぐに顔に出るユノーを子どものようだと思った。しかし本当に子どもなのはどちらだろう。
「一緒にユピテルを捕まえましょう」
ミネルはユノーの考えを助長するように返事をする。ユノーは「心強いです」と言って笑った。
退屈が少し、ほんの少しだけ形を変えている。
小さなころから、何でもある程度こなすことが出来た。
理屈は簡単だ。目の前の出来事に本気で取り組むから、ある程度の事は出来て当然なのだ。特別な才能も、能力も必要ない。
本気を出せば、人間は大体の事は出来るようになっている。ただみんな、本気になる方法を知らないだけだ。ただ、やるだけ。目的に向かってどうすればいいのかを小さく構築していくだけ。
特別なことなんて何もない。ミネルは自分をどこにでもいる普通の人間で、ただ少し要領がいいだけだと思っていた。
もしそれすらも出来ないという人間がいるなら、もしかすると〝本気を出せる〟ということも才能の一つなのかもしれない。
退屈を埋めたくて入った警備隊の仕事ですら、最近はなんだか満たされない。
もしかすると、一つの場所に身を落ち着けている事が出来ない性分なのだろうか。旅人のような根無し草の生活が自分には合っているのかもしれない。それならやはり、貴族と言うその地に深く根付く立場なんて一番向いていないに決まっている。
ほらまた、考える事が面倒になった。
ミネルは背中を背もたれに預けて、ずるずると下がっていく。それから両肘を背もたれにかけて足を組む。ミネルの柔らかなブルーグレーの髪が、やる気がなさそうに背もたれの向こう側に垂れた。
とても貴婦人とは思えぬミネルの気を抜いた様子にユノーは顔を傾けて薄く笑う。ワインを深く煮詰めたような赤い髪が、重力に従ってさらりと流れた。
「ナージャさんに叱られてしまいますね」
「言わないでくださいね」
「勿論。今日、僕は空気ですから」
何も見ていません。とでも言いたげにユノーはまた、高い位置にある丸窓を見上げる。
乱反射する日の光。何もかも満ち足りている礼拝堂の中。
たまにはこんな昼下がりも、こんな退屈も悪くないと思った。