08:メイド長・ナージャの皮肉
昼前。
仕事を片付けたミネルはナージャが大嫌いな警備隊の制服を身にまとって、こそこそと廊下を歩いていた。誰もいない事、足音がしない事を確認してさっさと階段、踊り場、階段を身軽な様子で一気に駆け降りる。
ショートパンツは動きやすくて、足元まで隠れているドレスとは大違い。踏みつけて階段を踏み外す心配もない。自分が自分らしくいられる服装。しかし、ナージャが一番嫌いな格好だった。警備隊の制服を身にまとっている時、まるで自分の屋敷が自分のものではなく絶対的にナージャのものかのような錯覚に陥る。
だからできれば玄関ホールから一つドアの向こうのキッチンにいるだろう使用人たちに「行ってくる」と伝えて、誰かがそれをナージャに伝えてほしい。
ミネルは大広間の大きなドアを抜けて玄関ホールの廊下に顔を出して左右を見た。そして息を潜めてキッチンの手前で耳を澄ませる。
「ねえねえ、ミネルさまはどちらを選ばれるのかしら」
ミネルの心臓が、嫌な音を立てる。それは現実を他人から突き付けられるような感覚だった。貴族としての立場か、それとも警備隊という自由か。
「私だったらやっぱりユノーさまかなー」
夢見がちなメイドたちの会話という事実。それから〝ミネルさまはどちらを選ばれるのかしら〟〝ユノーさまかなー〟の言葉で、騎士・ユノーと怪盗王・ユピテルと自分の三角関係が、彼女たちの頭の中で出来上がっているのだろうと察した。
「でもユピテルは〝あなたの人生を頂戴します〟って言えるくらい真摯な気持ちをもっているのよ。狙った獲物は逃さない大怪盗なんだから、ミネルさまの氷のような心もあっという間に溶かしてしまうかも……。そうよ!! もしかするともうミネルさまの心の中には別人としてユピテルが住んでいるかもしれないじゃない。前に話したわよね? ユピテルが社交界にあらわれる大貴族でー! それで、ミネルさまを自分のものにできなかったから奪いに来るんじゃないかって話!! でも実はそうじゃないのかも。ミネルさまも大貴族の方の告白を聞いてちょっと意識してしまっているのよ」
「もしそうだったら、いつも冷静でいらっしゃるミネルさまも決めかねてしまうわよね……。だって自分を守りに来てくれた騎士と、〝あなたの人生を頂戴します〟なんて真っ直ぐな言葉を言える魅力のある人よ。どちらも絶対に真剣な思いがあるに決まっているもの。きっとこういうんだわ。『私の為に争うのはやめて!!』って」
「まるでおとぎ話のような話だわ!!」
おとぎ話どころか、ただの妄想だ。この夢見る乙女たちに怪盗王・ユピテルの牢獄でのふてぶてしい態度を見せてやりたいものだと思った。
しかしメイドたちが気楽に話をしているという事は、今ここにナージャはいないという事だ。ミネルは廊下に身を潜めるのはやめてメイドたちが休んでいるキッチンの開いたままのドアをコンコンと鳴らした。
「ミネルさま……!」
「行ってくるから」
「はい、行ってらっしゃいませ」
「行ってらっしゃいませ。お気をつけて」
大げさに外まで送られることも、わざわざ目的地までついてくることも嫌がるミネルの後を追う使用人は誰もいない。
どうせナージャが雇った見張りがこっそりと後を追ってくるのだ。ミネルは、どうせお手伝いをしたってお菓子をもらえないと思いながらしぶしぶ手伝いをする子どものような気持ちでいた。
ミネルは廊下を歩いて大広間のドアを通り過ぎる。
「ミネルさま」
ナージャかと思った身体が素直に反応して、心臓がドクリと不快な音を立てる。しかしミネルのすぐ後ろにはユノーがいて、彼はやはり人懐っこい笑顔を浮かべていた。
「警備隊のお仕事ですか」
「そうです」
せっかくここまで来たのにナージャに見つかりたくない。という思いから、ミネルは急ぎ足で廊下を歩く。
「一緒に行っても構いませんか。お邪魔はしませんので」
そういうユノーにミネルは思わず不快感を表情に出した。
もしかすると、ナージャに頼まれたのかもしれない。淑女らしからぬ行動をしたら全力で止めてほしいとか、見張っていてほしいとか。
「こんな時くらいお休みになってはいかがです」
あと一歩でドアを開けて外に出ようというとき、後ろから張り上げるように響いた声にミネルは大きくため息をついた。
振り返ると、ナージャが圧倒的立場から見下ろすような表情でミネルを見ていた。
ナージャは自分の〝お嬢様〟が所属する警備隊という組織も、太ももを大きく見せた服装も、警備隊の制服自体も嫌い。それからどこをどう辿ったのかは知らないが、ナージャは、その服を着てその場所に向かう女主人自体も、連鎖して嫌いになってしまうらしいのだ。
「お休みをいただくと困る人がいるから」
「一人休んだくらいで困るような仕事はありませんよ」
ナージャと言い合う度に、本当に我々は恵まれた環境で育っているのだと思うばかりだ。
イーストサイドの警備など、やろうと思えば人がいくらいても足りない。
ヒースラント邸の家事全般の負担などは全くわからないが、もしかすると現状人数が多すぎるのかもしれない。それか、上の役職の人間は下の人間の気持ちがわからない、というどの場所でも起こり得る現象が、このヒースラント邸にも当てはまっているのかもしれない。
「私が行きたいの」
だから説明するのも全部面倒になって、嫌がられると分かっている言葉を吐く。
自分のしている事を認めてほしい人に認めてもらえないというのは悲しい事だ。
ユノーに見苦しい所を見せてしまったという気持ちはあったが、ミネルは他人に気をやる事など思いつかずに外に出た。
「お嬢様、」
「僕も伯爵夫人と行ってまいります」
ユノーはそう言うと、誰にも何も言わせないような人懐っこい笑顔をナージャに向ける。ナージャが押し黙っている間に、彼は頭を下げて踵を返した。
「ああ、ちょっと……!」
「行きましょう、ミネルさま。今日は天気がいいから外が気持ちいいですねー」
ユノーはそう言うと、ミネルのすぐ隣を歩いた。
もしかして、ナージャの言葉を遮って守ってくれた?
初めて屋敷にやってきたときに見せた、心配げな表情。もしかするとこの短い時間に屋敷の主人とメイド長の関係性を彼なりに整理して、助けてくれたとか。
ありえない話ではなさそうだ。仕事の合間にユノーを監視していたが、いつどのタイミングで見ても彼は実に誠実に屋敷の周りや屋敷内を確認していた。
きっと心が綺麗で、真っ直ぐで、誠実な人間。
彼は本当に怪盗・ユピテルではないのか。そう思ってすぐ、ミネルはとっさに考えを改める。
気を抜いてはいけない。もし彼がユピテルだったら、封蝋印はあっさりと奪われてしまう。
封蝋印の持ち手には小さな穴が開いている。ミネルはそこにチェーンをとおして首に下げ、制服の下に身に着けて持ってきていた。
もしかすると封蝋印が移動したことを察してついてきた可能性もある。
ふとミネルは、ユノーと自分のものとは別に、足音がもう一つあることに意識をやった。
心の内側が、一気に不快感で染め上げられる。
それは自由とは対極の色をしていて、本来自由であるはずの心さえも縛り上げるような色をしていた。
いつもそうだ。例外はない。いつもそう。足音は自分とは別にもう一つある。ナージャが見張りをつけているからだ。ミネルが気付いていることに、ナージャは気付いている。しかしあえて牽制の為に見張らせ続けている。それをミネルは理解していた。
いったいいつまで私は、あの人のお嬢様でいなければいけないのだろう。
そう思うが、貴族の女には一人で出歩く時間があるだけで贅沢なのだ。
「ミネルさま大変です!! お時間が!!」
「……お時間?」
急に隣で声を張り上げるユノーに、ミネルは不思議そうな声を上げる。しかしユノーは返事をするよりも前に、ミネルの手を握った。
「撒きましょう」
ユノーはミネルの耳元でそう言うと、ミネルの手を引っ張って走った。